第3話 鍵

 入学して半年も経つというのに、ぼくは松下花音のことを知らなかった。見たことすらないと思っていた。

 しかし、彼女に恋をしてからというもの、花音の気配はぼくの世界に頻繁に進入するようになった。

 例えば、二十メートル先の廊下を曲がろうとしている彼女。以前だったらそんな距離で自分の視界から消えてしまおうとしている誰かなんて意識しない。今でも、彼女以外の人間に対してはそうだ。

 例えば、バイトからの帰り道、コンビニの中で雑誌を立ち読みしている彼女を見かけて、買う物なんてないのに店内をうろうろしてしまったり。彼女はぼくと同じで、大学近くに数多くある学生用マンションの三階で一人暮らしをしているらしかった。

 昼は大抵学食で、二、三人の仲のいい女の子たちと一緒にいる、ということもわかった。聞くこともなしに話を聞いているうち、なんの授業をとっているのかもわかってきた。

 花音のことを気にとめていると、驚くほど彼女の姿をあちこちで見かけた。それはぼくのことを彼女が待ち伏せしているのではないかと思うほどだった。そうでないのなら、ぼくたちのことを世界が祝福しているのだろう。

 授業の合間、飲み物を買いに行ったときもそうで、校内に何箇所もある自動販売機の中で、どうしてぼくがさっきまで授業を受けていた教室から一番近い販売機の前に彼女がいるのだろうかと、その偶然に思わず笑ってしまうほど嬉しくなる。

 ぼくの前で無心に順番待ちをしている花音は髪をポニーテールに結っていて、後れ毛をたくさんのピンで留めているのが見えた。彼女の番になるとネイビーブルーのトートバッグの中から無造作に白い皮の財布を取り出す。そのとき小さなカギがバッグの中から転がり落ちた。ぼくはとっさにそのカギの上に足を動かした。踏まないように細心の注意を払いながら、そ知らぬ顔で彼女の後ろに立って待っていた。

 彼女は冷茶のペットボトルを手にとると、カギを落としたことには気づかず、小走りに次の授業へと去っていく。

 そっと振り向いたぼくの後ろには誰もいなかった。注意深く足を動かすと、小さな鈴のついたカギがコンクリートの上で輝いている。

 拾いあげると、淡いピンク色の鈴が小さな音を立てた。カギは二つついていて、一つは自転車のもの。もう一つは、彼女のマンションのカギに違いなかった。

 そのカギは、直接渡したかった。

 落としましたよ、落としたでしょう、なんでもいい。声をかけたかった。あの声を聞きたかった。

 でも、彼女のあの澄んだ目に見つめられながら嘘をつくのは、とても無理なように思えた。だからといって、本当のことなど言えるはずもない。

 本当はすぐにでも学生課に持っていったほうがいいのはわかっていた。

 でも、できなかった。

 花音の体温が残っているようで返しがたかった。彼女が困ることがわかっていても、カギが彼女の一部であるように思えて、それをぼくの手の中に一晩置く誘惑に負けた。

 翌日、ぼくは学生課にカギを持っていった。名前を聞かれたので、かわりに大野の名前と学生番号を言っておいた。大野なら、わけがわからないままに適当に話をあわせるだろう。

 自分の名前を言わなかったのは、さすがに少し気が引けたからだ。

 なぜならぼくは学生課に行くその前に、マンションの合鍵を作ってもらっていた。もちろん彼女の。

 合鍵を作ったホームセンターのレジの横には、たくさんのキーホルダーの飾られたショーケースがあった。その中から彼女のものによく似たピンク色の鈴のキーホルダーを選んでつけてもらった。

 そのカギを使ってどうこうしようという気持ちはなかった。ただ、彼女がいつもそばにいるような気がして、それが気持ちよくて、そうしただけだった。

 ぼくと彼女の距離が近くなったような気がしていた。

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