第5話 ロボット開発の諸問題

 サナトリウムは、大正ロマンの中では、少々異色であった。

「一番似合っている」

 といっても過言ではないが、同じレトロでも、文化遺産のような雰囲気は、

「今後の時代への可能性を感じさせる」

 というイメージがあった。

 実際には、財閥をさらに発展させるものとなり、日本を、大東亜戦争に駆り立てる一役を担ったということで、あまり喜ばしいものではないが、少なくとも、

「日本という国の発展を支えた」

 という意味で、

「これほど、将来を感じさせるに象徴的な建物もなかったであろう」

 明治時代に浅草にあった、通称、

「浅草十二階」

 つまりは、

「凌雲閣」

 などは、まさにその象徴だっただろう。

 関東大震災において、崩落してしまったが、それまでは、

「帝都東京のシンボル」

 といってもよかっただろう。

 そんなシンボル的なタワーが、このレトロな中にも建っている。

 しかも、そのタワーというのは、地上何階であろうか? とにかく、かなりの高さを誇っているようで、

「レトロな中に浮かび上がる、ワームホールでもあるのではないか?」

 と思われる場所だった。

 その下には、いくつかのレトロな建物が乱立していて、いくつかは、昔のままであろうが、ほとんどは、後から想像で作られたものだという。

「想像であっても、昔の建物とそん色はない」

 といってもいいだろう。

 特に、西洋風の建物の中にポツンと建っている中華風の建物が、他の建物よりも少し高く作られているのが印象的で、後から聞いた話によると、

「それは、わざとだということであり、あえて、西洋風に対抗して建てたのであり、そこには、中華思想を前面に出している、この街の再建を行った時の、市長が、中華系の宗教を信仰していたとのことで、そんな風になったのだ」

 というのだ。

 本当はその市長は、ここを中華街のようなものにしたかったのだという。

 だが、中華風にしてしまうと、元々あった建物をどかすわけにはいかないので、

「西洋風の建物の中に、入れることで、却って浮き立たせ、さらに、少し大きくするおとで、目立たせる」

 という手法を凝らしたということであった。

 そんな中に、やはりタワーの下にも病院があるということを聞いたのだが、その病院は今でも営業していて、外来も、入院も受け付けている。ただ、闇雲に患者を受け付けるわけではなく、

「先生が気に入った患者だけを受け入れる」

 という風変わりというか、医者としては、モラルに欠けるといってもいい医者が経営する病院のようである。

 だが、その先生が気に入る患者というのは、普通の患者ではなく、

「精神疾患の患者を好んで受け入れる」

 という変わり種だった。

 昔、その話を聴いた人が、

「人体実験でもされるんじゃないか?」

 という物騒な話をしたことがあったようだが、それを口にした人が、翌日から行方不明だということを聞いて、ビックリしたのだという。

 その人は見つかったというのだが、その前後の記憶を明らかに失っていて、他の人はその人が病院の悪口を言ったことを知らなかったので、何も知らなかったようだ。

 だが、覚えている人も若干いて、

「何か恐ろしいことが起こらなければいいが」

 といっていたそうだが、結局何も起こらなかったことで皆忘れてしまったようだ。

 だが、覚えている人も若干名いて、その人にとっては、

「却って忘れられない内容だ」

 ということで、余計に意識の中に残ったようだった。

 その建物の中に、一人、狂暴なやつがいたという。

 身体は、2メーターかあろうかという身長に、体格も、まるで鬼のようだったという。その体型を見て、病院の人たちは、

「フランケン」

 と呼んでいたようだ。

「フランケンシュタイン」

 それは、

「理想の人間をつくろうとして、怪物を作ってしまった」

 という話で、今のSF、オカルト、などの話の元祖になっている話だといえるだろう。

 相対するものとして思い浮かぶとすれば、

「ジキルとハイド:

 かも知れない。

 どちらも、今のSF、オカルト系の要素を持っているといってもいいだろう。

 そんなSF界の発想として、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものがある。

 それは、理想の人間。つまり、人間の役に立つ者をつくろうとするので、少なくとも、人間よりも頑丈で、強靭でなければいけない。

 それがまず大前提であり、

「人間には、なかなかできないことを、この者にやらせる」

 という、

「ロボットのようにいうことを聞く」

 という者なのだ。

 発想からすれば、

「奴隷のようなもの」

 だったのかも知れない。

 当時の欧州は、植民地を持っていて、植民地では現地の人間を、まるで奴隷のようにこき使っているといえるだろう。

 しかし、時代は、

「奴隷解放を言われる時代でもあったので、露骨に植民地の人間でも、奴隷としてこき使うことは難しい」

 といえるだろう。

 だとすると、

「奴隷に変わる者を、自分たちで作らなければいけない」

 ということになる。

 当時、ロボットという発想はなかっただろうが、

「人間型のロボットのようなものを、人間のいうことを忠実に聞くようなものができればいい」

 という発想があったことだろう。

 それがサイボーグのようなものか、アンドロイドのようなものかという違いである。

 アンドロイドは、

「人間型の、ロボットを新しく作る」

 という発想であり、サイボーグというのは、

「人間の身体を強靭にして、主人のいうことだけを聞くという頭の構造に作り替える」

 ということで、いわゆる、

「人造人間」

 というものなのだろうか?

 単純に人造人間というと、

「人間の形のロボットを作る」

 というのも、一種の人造人間である。

 つまりは、

「人造人間というのは、アンドロイドとサイボーグの両方をいうのではないだろうか?」

 ということであった。

「じゃあ、サイボーグというのは?」

 ということになれば、それは、

「改造人間ではないか?」

 といえるだろう。

 改造人間は、元々は人間であり、

「肉体増強エキス」

 などのようなものを注射したりして、体内に注入し、頑強な身体にしておいて、頭の中の頭脳の周波を、

「ある一定の高さの周波数の命令しかきかず、普段は、命令以外の思考能力が停止している」

 というような人間を、サイボーグとして作り上げることが、基本だっただろう。

 昔のアニメであれば、巨大ロボットと等身大のサイボーグのどちらかが登場することが多かった。

 巨大ロボットは、リモコン装置を使って動くという完全にボディも人間が作った機械である。

 それは、まるで車や飛行機のように、操縦して動くのだろうが、巨大ロボットの場合は、昔のアニメでは、リモコンを使うのが主流だった。

 途中から、

「ロボットと主人公がドッキングして」

 というものも出てきたが、基本的には、

「巨大ロボットは、リモコンによる操作であり、等身大ロボットには、電子頭脳のようなものが埋め込まれていて、基本的には、その回路が自分で判断することになる」

 というものが多かった。

 だから、等身大ロボットは、サイボーグと、アンドロイドに別れていた。

 サイボーグは、人間を改造したもの、だから、元は人間だということで、

「改造人間」

 といえるだろう。

 アンドロイドの場合は、元々からあるものではなく、人間がロボットとして作ったものだ。

 それが人型だったり、動物の形をしているのは、あくまでも、

「利用しやすい身体」

 を、自分たちで作ったからである。

 人間のために行動するロボットなのだから、基本は、

「人間と同じ身体をしているのが、理想的だ」

 といえるだろう。

 だから、一番手っ取り早いのは、

「元々の人間を、ロボットに改造し、自分の都合よく動いてくれるのが、一番いい」

 ということである。

 そこには、

「主人のいうことを聞く」

 という回路だけが組み込まれていればいいのだった。

 ただ、そのためには、

「主人を見分ける力」

 が備わっていないといけない。

 そういえば、昔の巨大ロボットもので、リモコンを音声で判断して、主人かそうでないかを判断させるという話があったが、そのために、敵の組織は、主人を誘拐し、まったく同じ声が出せ、そして、同じ顔をしたロボットを作り、そのロボットに、巨大ロボットを操縦させるということをしていた。

 しかし、結果、

「人間の音声に近づけることができない」

 ということで、ちゃんと巨大ロボットは、音声を判断し、敵をやっつけることができたという話であった。

 これは、ロボットに、

「悪の手先にならない」

 ということを証明はしたが、同時に、

「ロボットではダメだ」

 ということで、主人公だけしかいうことを聞かせられないということで、主人公に何かあった時のための、ダミーロボットを作るという計画があったが、この事件を契機に、同時に、

「コピーロボット計画が失敗に終わった」

 ということを示しているのだった。

 ロボットは、そう簡単に人間のいうことを聞くわけではない。

 ロボットを作るということは、一長一短、それぞれに問題を孕んでいるということを、この時に分かったはずなのに、それらの問題が、物語として出来上がるにつれて、ロボット計画というものが、どんどん、後退していっているということを、証明しているのだった。

 この時のロボットアニメの教訓は、知らず知らずのうちに、

「フランケンシュタイン」

 の話を、否定しているということに他ならないのだった。

 そんなロボット開発の前に立ちはだかるのが、この、

「フランケンシュタイン症候群」

 という問題であった。

 この問題は、

「ロボットをいかに、人間に対して都合よく使えるか?」

 ということであり、

「人間のためにならない」

 あるいは、

「人間に危害を加える」

 などもってのほかだということになるのだ。

 そこで産まれた発想が、

「ロボット工学三原則」

 というものだ。

 主には、

「ロボットは人を傷つけてはいけない」

 ということと、

「人間のいうことに絶対服従」

 などということを定めたもので、その順番が大きく響いてくるのである。

 優先順位を間違えると、最悪の場合、フランケンシュタインの世界を一気に早めることになってしまうのだ。

 ただ、この問題は、あくまでも、

「SF作家による提唱」

 ということだったのだ。

 この問題を提唱したのが、SF作家で、工学者でないということは興味深い。しかも、自分の小説の、

「ネタ」

 であり、小説の中でふんだんに、その優先順位のたとえをうまく使って見せた。

「問題提起をしておいて、それがロボット工学三原則の優先順位に起因するものだというテーマに沿った形で、最後には人間がその問題を解決することで、危機を逃れる」

 という作品だったのだ。

 ただ、この問題はあくまでも、

「人間が、ロボットを開発できて初めて有効な話である」

 ということであった。

 つまりは、ロボットというものを外見上作りあげ、さらに、人工知能を組み込んだことで、人間のいうことをきちんと忠実に実行できるということが大前提であった。

 ところが、そこまで精巧な人口知能を、

「果たして人間に作ることができるであろうか?」

 という問題があるのだ。

 どういうことなのかというと、

「可能性と、無限性」

 という問題なのだろう。

 というのは、

「可能性というのは、次の瞬間には無限に広がっているもの。その無限に存在する可能性をロボットの限られた知能で、果たして予見して行動できるか?」

 という問題である。

 たとえば、ロボットに、洞窟の中にある燃料を取ってきてもらう命令をした時、その下に、

「持ち上げるお爆発する爆弾を仕掛けていた」

 という場合に、ロボットの知能には、その状況を判断する力があり、そのまま持ち上げれば爆発するということをインプットしていたとする。

 ただ、下を抑えながら持ち上げれば大丈夫だというくらいの知能はロボットに持たせている。

 その状態でロボットを中に入れると、ロボットはその状態を見て、動かなくなったのだ。

 そこでその時のロボットの知能を再現してみると、ロボットは、何とか燃料だけをもってくるということは想像できたのだが、同じ発想の中で、

「急に壁が白くなったらどうしよう?」

 などという発想を他にもいくつかしていたのだ。

 そして、その発想はどんどん膨らんでくる。つまり無限な発想をし始めたのだ。

 せっかく問題解決までできているのに、そこからさらに発想が続く。それは、完全に、

「無限に広がる可能性」

 をずっと追い続けていたのだろう。

 それを思うと、

「ロボットに、どこまで発想をさせるかということの難しさが浮き彫りになった」

 ということである。

 つまり、

「まったくこの状況に関係のない発想まで行っていた」

 ということだ。

「では、どうすればいいのか?」

 ということで考えられたのが、

「パターンごとに区切って、そこに可能性を当てはめればいいのではないか?」

 ということであった。

 しかし、

「果たしてそんなことが可能なのだろうか?」

 と感じたのだ。

 というのも、

「全体が無限であるのだから、いくつかの可能性に分けたとしても、その中の可能性も無限なのではないか?」

 ということである。

 もっといえば、

「逆に、そのパターンだって、無限なのではないか?」

 ということである。

「無限からは何を割っても、求まる答えは無限でしかない」

 ということである。

 これが、いわゆるロボット開発問題における、最初の壁、

「フレーム問題」

 というものだ。

 パターンをフレームとして当てはめるというものだが、これが解決できなければ、問題は、

「ロボット工学三原則」

 以前の話になってくるのだった。

 ロボットの発想、つまり、

「人工知能」

 というものの開発は、

「人間の未来に対しての大きな課題」

 であり、

「永遠のテーマ」

 なのかも知れない。

「タイムパラドックス」

 を孕んでいる、

「タイムマシンの開発」

 とともに、これからの人間における、科学の発展に大いなる警鐘と、可能性をもたらすものとなるだろう。

 そもそも、前述の、

「フレーム問題」

 というものも、

「人間は、意識することなく行っている」

 といえるのではないだろうか?

 何かの行動をする時、自然と人間の中で、無限の可能性の中で、必要なこと、つまりは、

「可能性を有限にできている」

 ということである。

 もっといえば、

「人工知能を人間の頭脳と同じにしてしまえば、それだけで十分なのではないか」

 といえるのではないだろうか?

 ロボットというものを開発するにあたって、人工知能であったり、

「ロボット工学三原則」

 の問題であったり、それぞれ、人間には、自然に理解できていることだ。

 ただ、問題は、

「自然に」

 というところにある。

 理解しているくせに、どうして理解できているかという理屈が分からない。それさえ分かれば、ロボット開発は飛躍的に伸びるはずだからだ。

 ということは、

「人間を創造した神」

 あるいは、

「神と同等の創造主」

 は、人間にその理屈を与えなかった。

 答えだけを組み込んで、そこに至るまでの理屈も、発想も組み込んでいないのだ。

 これがもし、わざとであったとすれば、

「人間には、永遠にロボットを作ることはできない」

 ということであろう。

 創造主が、あくまでも、自分たちの作った人間が、創造主に近づくことを嫌っているとすれば、その理屈も成り立つ。

 ロボット開発を行うということは、その創造主が、人間を作った時と同じであり、さらにその人間が、本当に創造主の最初の思惑通りに動いているのかは、創造主にしか分からないだろう。

 ひょっとすると、

「こんなに狂暴な生き物になるとは」

 と思っているかも知れないし、

 そもそも、人間自体が、

「テスト的な存在」

 であり、ひょっとすると、別の次元、あるいは、同じ次元かも知れないという

「パラレルワールド」

 には、姿かたちは人間と同じだが、知能の上で、決定的な違いを持っていて、そこで繰り広げられている世界は、まったく様相の違ったものが広がっているのかも知れない。

 しかし、その世界の中心が、創造主が作った、

「人間らしき者」

 であることは間違いないだろう。

 佐藤はそんな発想を巡らせながら、思わず、笑い出しそうな自分を感じた。

「ふふふ、これこそ、無限に広がる可能性なんじゃないか?」

 と思ったからである。

 人間が悩んだりするのも、要するに、フレーム問題を無意識に解決しているくせに、

「さらに可能性として、無限の向こうを見ようとしているから、悩んだりするのではないか?」

 と考えたのである。

 今の自分が苦しんでいることでも、

「頭の中にある可能性が、どうしても、無限に近づかないことで苦しんでいる」

 のではないだろうか?

 一つの発想を巡らせても、その出る杭を叩いて、戻そうとする人がいる。

「自分の中の自由を、他人によって、抑えつけられるというストレスは、かなりのものであり、反発しようとする力が人間には備わっているだけに、それがかなわない時というのは、苦しみの連鎖を生み、その先に到達するための生みの苦しみを味わわなければならない」

 ということになるのだろう。

 これは、

「創造主に対しての冒涜ではないか?」

 と考えるが、その冒涜を行っているのは、自分ではなく、上司ではないか。

「なぜ、冒涜を行っているのが、上司であり、自分ではないのに、自分がこんなにも苦しい思いをしなければならないというのだ?」

 という思いが、頭の中でクルクルまわり、袋小路から逃れることができないのではないだろうか?

「そのことを考えさせるために、何か見えない力によって、この街に導かれたのだろうか?」

 と考えるようになったのだ。

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