第4話 上司の立場

「世界的なパンデミック」

 は、とてもまだまだ終わる気配もない。

 ゴールなど見えるわけもないこの状態で、政府は完全に国民を見放した。

「経済を優先」

 ということは、

「国民などどうなってもいいから、自分たちの利権と私利私欲だけは確保する」

 と言っているようなものだ。

 そして国民に対しては。

「俺たちは抑えつけたり何もしないから、自分の身は自分で守れ、俺たちには、どうなっても関係ない」

 と言っているわけである。

 それを国民は、

「政府が大丈夫だと太鼓判を押した」

 と思っているから、その温度差は何ともひどいものだ。

 国民も政府も結局、

「巨大なお花畑の上にいるようなもので、一歩踏み間違えると、すべてが台無しになる」

 ということをまったく分かっていないのだろう。

 一番の問題は、

「医療崩壊」

 であり、

「政府も自治体もまったく分かっていない」

 と言ってもいいだろう。

 今から思えば、リモートの時がよかったと考えるのは、佐藤だけではないのではないだろうか?

 会社に行くことが一番の恐怖と思っていた人が多いのは、パンデミックとは別の大変な伝染病が、この日本には根強く張り巡らされているに違いない。

「医療崩壊」

 というものをあれだけ怖がっていた政府だったはずなのに、途中から、急に何も言わなくなった。

 言わなくなったどころか、ノーマスクなどと言い始めたのだ。

 ハッキリいうと、政府が、行動制限をしたくない理由は三つであろう。

 一つは、

「金を出すのがもったいないから」

 という理由である。

「緊急事態宣言」

 であったり、

「蔓延防止措置法」

 であったりすれば、このどちらかによって、金を出すのが政府なのか、自治体なのかという違いがあるが、とにかく、

「補助金」

 なるものを出さなければいけなくなり、予算をねん出しないといけなくなる。

 要するに、自分たちの私利私欲のための金がなくなる、

「そんな金を国民に配るのが嫌だ」

 ということなのだろう。

 そして、もう一つは、

「経済を回す必要がある」

 ということだ。

 これまで何度となく、宣言を出して、経済を疲弊させてきたことで、

「さすがにこれ以上はどうしようもない」

 ということで、経済優先に舵を切ったということである。

 そして、もう一つは、

「国民の支持を得られなくなると、政権の危機に陥る」

 ということであり、ある意味で、この問題が一番大きいのだろう。

 国民の支持が得られないと、

「解散総選挙」

 となり、下手をすれば、

「ソーリの椅子が危ない」

 ということになる。

 ソーリとすれば、それが一番怖いのは当たり前のことで、国庫に金があろうがなかろうが、まずは、政権維持が最優先であった。

「ソーリじゃなくなれば、甘い汁を吸う機会が減る」

 というものである。

 だから、ソーリは、

「経済復興」

 という名目で、自分の保身に走ったといってもいいだろう。

 そんなソーリが政府なのだから、

「国民が死のうが生きようが関係ない」

 とでもいわんばかりであった。

 口では、

「ウィズ伝染病」

 などと言ってはいるが、すべては保身のため、さすがにバカな国民もそのことに気づき始めたようで、若干、遅きに失した感があるが、それでも、まだ間に合うかも知れない。

「今年は、インフルエンザとの同時流行が考えられる」

 と言っておきながら、新型ウイルスの感染者が増えてきて、

「第何波か分からない」

 というほどの流行の兆しがあるにも関わらず、あいも変わらず、ノーマスクを変えようとしない。

 何よりも一番ひどいのは、

「海外からの受け入れを緩和したまま、水際対策を、ザルのままにしている」

 ということである。

 せめて、水際対策をしっかりして、外人どもの流入を抑えていれば、こんな流行はないのだろうが、それを、

「経済復興のためのインバウンド」

 などといって、大切な国民の命を担保にするような腐ったソーリが日本の代表では、SNSでウワサされているように、

「亡国の一途」

 と言ってもいいだろう。

 それが、今の世の中であり、まさに、

「政府は国民の命を担保にして、政治をしている」

 と言ってもいいだろう。

 今でも医療崩壊の危機にはあるのだ。実際に、前回やその前の波などで、

「救急車を呼んだはいいが、受け入れ病院を探してもらっても、なかなか受け入れてくれるところがなく、100軒以上の病院に連絡を取ったが、結果どこも受け入れてくれず、救急車の中で亡くなった」

 という話を皆一度は聴いたことがあるはずだ。

 一度にとどまらず何度も同じようなことになっていて、

「少しでも、患者が少なければ」

 ということで、

「助かる命が助からない」

 ということが、日常茶飯事で起こるのだった。

 まだ、新型ウイルスだけの問題ならいいが、実際に、不治の病で、

「いつ救急車が必要になるか分からない」

 という状態になるか分からない人が、街には溢れているのに、自分が用心もせずに、遊びまくったうえ、新型ウイルスに罹った人間のために、本来なら助かるはずの命が助からないなど、本末転倒もいいところだ。

 遊び惚けて、

「どうせ、新型ウイルスなど、風邪と変わらない。だから、ワクチンも打たない。人が未収しているところに言って、感染対策も一切しない」

 というようなやつが、感染し、そいつが急変したからと言って、そんなやつのために救急車を使い、病院の医者を使うのは、実に理不尽と言えないだろうか?

 そんなやつには、

「新型ウイルスに罹っても、治療無用という覚書を書かせて、一切治療を受けられないようにするなどということにすれば、少しは気を付けるというものだ」

 と考えると、

「そもそも、医療崩壊の状態にまで持ってきた政府、マスゴミ、さらには、バカな若い連中が悪いのだ」

 といえるのではないか?

 そんな甘い考えをする連中のために、死んでいった人たちは、

「人柱ではないんだ」

 と、死んでも死にきれないに違いない。

 残された家族は誰にこの憤りをぶつければいいのか、訴えるとしても、誰を訴えるわけにもいかない。まったく同じ時期に感染し救急車を呼んだやつを訴えるとしても、1人は2人ではないだろう。

 どうせ、国を訴えたって、どうにもなるわけもなく、それを思うと、訴える相手もいない、同然である。

 こんな状態は、

「きっと経験しないと分からないこと」

 に違いない。

 伝染病にだって、罹って初めて苦しい思いをするということが分かるのであって、後悔しても、その時には、

「何人の人間を自分の無知と甘さのために殺しているのか?」

 ということすら考えないだろう。

 これが、まともな裁判であれば、死刑になっていても無理もない。過去の裁判で、自分がウイルスに罹っていると知りながら、人に感染させた場合でも、

「被疑者死亡で、犯罪者のレッテルを貼られたまま、起訴される」

 ということになり、

 死んでから、

「犯罪者」

 ということになるのだった。

 今の世の中は、そんな連中ばかりである。

 だからこそ、

「考えれば考えるほど、ムカついてくるし、いても経ってもいられなくなるのだ」

 と考えるようになったのだ。

 会社で、上司から苛めのような形になる前から、

「何か精神的におかしい」

 と思うようになっていた。

 それがどこから来るのか、すぐには分かっていなかったのだが、

「まさか、このパンデミックが起こってからではないか?」

 と思うようになった。

 この新型ウイルスが、

「精神的なものや、頭脳に影響を与える」

 などというエビデンスが出ているわけではないが、まだまだ未知な部分が大きいので、

「見えていない部分で、どんな影響があるか分からない」

 というのが、専門家チームの話だった。

 しかも、

「ウイルスというものは、絶えず変異している」

 と言われている。

 ここ数年で流行り出した新型ウイルスであるが、毎年のように変異を繰り返し、その特徴がハッキリしてきて、ワクチンが開発された時に、いきなり、また別のウイルスに変異するのであった。

 今回のウイルスも、最初のウイルスは、

「感染力はそれほどでもなかったが、致死率は結構高かった」

 と言われており、1回目の変異後では、

「致死率に変化はないが、感染力が爆発的に増えて、医療崩壊を始めてもたらした」

 と言われている。

 そして、2回目の変異の時には、

「致死率や重症化率はかなり下がったが、その代わり、前の変異よりもさらに爆発的に増えた」

 と言われている。

 最初のウイルスでは、全国で、数千人くらいだったものが、2度の変異を繰り返してみると、数十万人の感染者を出していて、その猛威は、最初から見れば、

「数千倍」

 という、爆発的な増え方であった。

 それでも、

「ノーマスク」

 だという。

「本当に政府は、国民がどうなっても関係ない」

 と言っているようなものであった。

 そして、ある程度落ち着いてきたかと思うと、また、全国で増え始めた。

「これからインフルエンザの季節であり、今年こそは、同時流行の兆しがある」

 というのだ。

 これまでの2年間は、新型ウイルスのおかげで、感染対策をしていたから、インフルエンザにかかる人が少なかったのだが、今回は、そうはいかない。

「ノーマスク」

 などということをしているだけで、インフルエンザの予防にもならないというものだ。

 一つ言えるのは、政府が何と言おうと、

「政府など信じていたら、命がいくつあっても足りない」

 とばかりに、政府のいうことを聞かず、

「自分の命は自分で守る」

 という、まともな国民が増えてきたといってもいい。

 そういう意味で、

「政府がバカだと、まともな国民が増える」

 という皮肉なことになるのだが、本当にこれでいいのだろうか?

 それを考えると、

「他の国民も、早く目覚めてほしい」

 というものである。

 ただ、実際に、ノーマスクの連中は、

「何かあったら、政府がいいと言った」

 とすべてを政府のせいにすればいいとでも思っているのかも知れないが、

「死んで花実が咲くものか」

 という言葉と同じで、死んでしまえば、誰かを訴えるということもできるはずがないといえるだろう。

 特に政府を訴えても、うまくいくはずがない。

 というのは、ワクチン問題でもそうなのだが、最初ワクチンができた時、

「何かあれば、国が補償しますから、できるだけ早く摂取してください」

 とばかりに、国民に訴えてきた。

 しかし、中には、

「摂取してから、数日後に亡くなった」

 という人も一定数いたわけで、そんな状態で、

「政府が保証する」

 と言ったので、政府に保証をもとめた人たちがいた。

 確かに、保証してもらったからと言って、死んだ人が生き返るわけではないが、

「政府が保証をした」

 ということになれば、政府の信用も、指の先の垢くらいに残っていた信用が、少しは保たれることになるだろうが、それすら、あっという間に消えてなくなるほどなので、

「ああ、やはり政府のいうことはあてにならない」

 ということになるのだろう。

 かと言って、

「ノーマスク」

 などの、自分たちに都合のいいことは、すべて政府のせいにして、勝手な行動を取るのだから、

「政府も一部の国民も、その罪は、どっこいどっこいに重たいものだ」

 と言ってもいいだろう。

 そんな状態が、

「世界的なパンデミック」

 という有事の状態で巻き起こっているのだから、ひどいものだ。

 そもそも、世界の歴史の中で、

「有事になった時の、政府の支持率」

 というのは、どんなにひどい政府と呼ばれていても、

「微々たる率ではあるが、上昇する。決して下降するなどということはない」

 と言われていた。

 実際に、世界でほとんどの国の政権の支持率はアップしている。平均でも10ポイント以上のアップはあるだろう。

「対策に失敗した」

 と言われる国でも、5ポイントくらいの微々たる上昇率で推移している。

 下降した国というのは、2か国だけで、

「新型ウイルスなど、風邪のようなものだ」

 と最初に行ったダイトウリョウがいる国と、日本だけだったのだ。

 それだけ、実際に何かが起こったわけではない国の政府が、支持率を下げたというのは、よほどのことだったのだろう。

 確かに、やることなすことすべてが後手後手であり、何かをしても、すべてが、

「私利私欲のため」

 というあからさまな状態だったことではあったが、実際に支持率を下げるというわけでもなかった。

 ただ、それだけ日本という国には、

「有事がない」

 と言われ、平和ボケをした国であったのかということがハッキリしたということであろう。

 有事の際に、支持率が上がるというのは、

「国民、政府が一丸とならなければ、この難局を乗り切ることができない」

 というのを、国民が身に染みて分かっているからだという。

 しかし、日本では、平和憲法。基本的人権の保障というのが、憲法で保障されていることで、

「有事はない」

 のであった。

 だが、災害などは、相手を選ぶわけではない。望む望まないにかかわらず、

「有事というものは、いつなんどき襲ってくるか分からない」

 ということであろう。

 それが今の日本という国の問題であり、国家の一大事だと言ってもいいだろう。

 だから、今のような政府が、どんなにひどい政府でも、支持率が下がらなかったりするのだ。

「自分たちに直接関係ない」

 ということであれば、国民は、政府が何をやっていようと、別に無関心だったりする。

 これがいいのか悪いのかハッキリとしないが、それが今の政府と国民の関係なのだから、

「亡国の一途」

 と言ってもいいだろう。

 そんな状態において、

「その日、病院を見たというのは、何かの偶然だといえるのだろうか?」

 ということを頭がよぎったのだ。

「そういえば、病院なんて、いつから行っていなかったかな?」

 と、佐藤は思った。

 最近どころか、学生時代に行ったとすれば、かなり寒かった冬の朝であったが、

「この電車に乗らないと、遅刻してしまう」

 ということで、急いで改札を抜けて、駅の階段を駆け上がった時だった。

「グキッ」

 明らかに音がしたように感じた。そのまま倒れこんで、意識が朦朧とし、救急車で運ばれた記憶があるのだが、病院で、

「足の骨が折れている」

 ということで、数日間入院し、退院しても、松葉づえの状態だった。

 身体は鍛えているつもりだったが、

「冬の身体が固くなっている時、想像もしないようなケガが襲ってくるというのは、えてしてあることだ」

 と医者は言っていて、さほど驚いている様子もない。

「こんなに、日常茶飯事だ」

 とでもいわんばかりだった。

 精神的なことでも、今の上司に行き当たるまで、そんなに苦しむことはなかった。

 苛めに遭っている時でも、

「今だけのことで、そのうちになくなる」

 というまったく根拠のないことを考えていたが、実際に、忘れた頃に苛めもなくなっていたのだ。

 しかし、今回だけは、そうもいかない。

 会社というところが、本当に未知の場所であるということもあって、自分でもどうすることもできないというのが、本音だった。

 今回、気が付けば、普段来ないが、

「前から一度は行ってみたい」

 と思っていた場所に来たというのも、ただの偶然なのだろうか?

 と感じるのだった。

 昔のサナトリウムの少し大きな病院というイメージのある、展示室になっている病院に入った。

 入場料は、高くもなく安くもない。静かなところに、観覧している人はほとんどいなかった。

 見るからに不気味な様相に、自ら入ってこようという人もあまりいないのかも知れない。

「まるで、肝試しのようではないか」

 といえるのだった。

 肝試しといっても、学生時代から怖がりだったこともあって、最初から興味もなかった。

「あんなもの、何が楽しくてやっているんだ」

 と言いたいくらいだ。

「それこそ、苛めの対象を陥れて、楽しいというくらいなのではないだろうか?」

 というくらいであった。

 今まで病院というと、あの時の外科くらいしかイメージがなかったので、その時の外科と、このサナトリウムの雰囲気が、

「似て非なるもの」

 といってもいいくらいであったが、他の病院というものを知らないだけに、その本当の違いというものが、ハッキリと分からないのであった。

 ただ、サナトリウムというのは、以前昔のドラマで見たことがあった。

 ホラーやオカルトというわけではなかったが、どこか気持ち悪さを醸し出していたのを思い出し。身体に震えがくるくらいだったのだ。

 だが、病院のイメージはないが、薬品の臭いには敏感だった。

 虫歯の時の歯科医であったり、予防接種の時のアルコールの臭いであったり、正直、臭いを嗅げば、注射の痛みを思い出すくらいである。

 それだけ、昔の記憶のはずなのに、まるで昨日のことのように思い出されるというのは、一体どういうことであろうか?

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