六十三 血色の花の未だ咲きたるにや

 日の当たらない場所にいた。

 常に影が薄暗く湿り、淀んだ場所にいた。名前も知らない虫が這い、萎れた草が点々と生え、襤褸をまとった者たちが身を潜めていた。そんな場所にいた。


 血の臭いを覚えたのがいつからだったのか、それは思い出せない。


 小さい頃から、その臭い自体は知っていた。食べ物を争って爪で引っ掻き合うさまも、物乞いをした者が理不尽に斬られるさまも見た。それが当たり前だった。嗅ぎ慣れた臭いだった。

 血の跡がこびりついた壁のそばに小さな窪みがあって、そこに身を縮めるようにして座っていた。地面も壁も冷たくて、冬は襤褸をまとっても足りないくらいだった。その小さな体で気づけば小刀を持ち、それを刀に持ち替え、そうして他者の血を取り込むようにして生き永らえて。

 そうして、「殺し」が生きるための方法の一つとして収まっていた。その力を高めることは、生きるための力を高めることでもあった。だから、あの冷え切った場所で死ななかった。金を手に入れた。その金で食事を手に入れた。殺し屋としての評判を手に入れた。他の仕事の伝手を手に入れた。そしてまた金を手に入れた。その繰り返しだった。


 殺しの仕事を受けるうちに、危ない匂いを嗅ぎ分けられるようになっていた。仕事をある程度選べるようにもなっていたから、崩れそうな橋は避けていた。だから、大金を見せられた時、いつもだったら断って終わりにしていただろう。死んでしまったら元も子もない。


 生き永らえたい理由はなかった。

 ただ、死ぬよりまし・・だから生きていた。

 死は、日の当たらない場所より、もっと陰惨だから。

 

 

 旅なんてつまらない誘いに、どうして乗ろうと思ったのだろう。

 ただ生き永らえるだけでは足りなくなったのか?

 日々を食いつなぐだけでは、欲が収まらなくなったのか?



 わからない。


 


「寒くなってきたから、これを着なさい」

 桜の部屋、その外で過ごす際に使用を許された客間。そこで身支度をしていると、氷雨の父がするりと襖を開けた。

 引き締まった体に真っ黒な着物を纏い、髪を適当に後ろへ搔き上げている。風呂上がりなのだろうか、村長にしては適当な成りだが、それでどこか完璧な釣り合いが取れているようにも見えるから不思議だ。初めて会った時は、ご隠居のように穏やかな雰囲気だったが、今はどこか枯れた色気を持ち合わせている。

 そんな父の手には羽織。雪代は、すっと目を細めて振り返った。

「動きの邪魔になる。不要だ」

「そうかな? 秋風は身にこたえるよ」

「俺に贅沢品は必要ない」

「良いから、使いなさい」

 雪代の言い分を無視し、さっとその肩に羽織をかける父。そしておもむろに畳に膝を立てると、雪代の耳元に口を寄せた。

「氷雨の絵を、屑籠に捨てたね?」

 振り向いたままの雪代に父の影が写り、瞳をさらに黒く見せる。雪代は無表情のまま、その言葉を受けていた。

「氷雨の絵が嫌いかな?」

「……俺には理解できないだけだ」


 血色に染まった剣と、純白の絵筆。

 住む世界が、まるで違っていたから。


「そうか、残念だね。君は、氷雨を守ってはくれるが、『絵描きとしての氷雨』を守ってはくれないのかな?」

 雪代は片眉をひそめる。

「何が違う」

「氷雨には素晴らしい絵の才能がある。あれを失ってしまってはならない。氷雨を守ることこそが私の使命と思っているが、ここの所は私一人の手では足りなくなってしまってね」

 渡り廊下に紅葉が落ちる。その音を耳が捉え、しかしその音を上書きするように、父の声が響く。村の人々の声がする。しかし何を話しているかまでは明確に聞き取れない。

 人々がここで生きているのはわかる。しかし何かを、決定的な何かを掴むことができない。こうして目の前に座っていながら、肚の底が見えない男のように。


「雪代」

 名付け親が、その名を呼ぶ。


 


「氷雨を、守ってくれるね?」




 名を呼び、ゆっくりと笑む。

 それは氷雨の笑みとよく似ている。似ているけれど、明らかに違う。

 ……逸らすことができない。


 逸らした瞬間に討たれそうに思えるからか、それともその笑みが蠱惑的なのか、雪代にはわからない。ただ、本能が逸らすことを拒んでいる。

 木々が揺れる。山の端が暗く光る。

 

 

「俺に何をさせたいんだ」

「させたい、という所まではいかないよ」

 軽く眉に皺を寄せる雪代。雪代の濁った黒さをも飲み込み、作り変えてしまいそうな瞳を細めて、父は口を開いた。



「あの部屋から氷雨の絵を回収して、仕分けておいてほしいんだよ。そうしたら、居間に置いてくれ」



 雪代の髪がかすかな音を立てた。

「……やけに簡単だ。何か裏があるな」

 寒さに凍える肌のように、ひりついた声だった。生命の危険を感じ取り、警戒する声。それをどこか愉しむように、父はふっと口元を緩める。

「裏なんてないよ。氷雨の絵を、私が見て楽しむだけだ。疑うなら、今度私と一緒に氷雨の絵の鑑賞でもするかね? 君にも氷雨の絵を好いてもらえるよう、たっぷりと説明してあげよう」

 揶揄っているような声だが、その目は笑っていない。それは、氷雨を思うゆえか、それとも底知れない企みゆえか。

「不要だ」

「そうかね」


 くく、

 と喉から漏れる声。雪代の目の前で、それはどこか不気味に響いていた。

「君は、氷雨の絵を理解できないと言い、羽織を贅沢だと拒むのか……」

 雪代は答えない。

「我儘だ。随分贅沢な用心棒だね、君は」


 光が閃く。

 疾風が起こり、そして止む。


「……斬るぞ」

 ぷつ、

 首元に血の玉が浮く。それが一筋、襟を赤黒く濡らす。染みになって広がる。臭い立つ。構えた小刀の刃が光る。

「いや、恐がりと言うべきか……」

 刃物を首に突き立てられながらも、なおも煽るようなことを続けて、父は片眉を跳ね上げた。そのしぐさは軽妙なのに、なぜか得も言われぬ圧力を持っている。



 この男は刀を持たない。

 その技量もないだろう。


 しかし、斬れない。

 仮に斬ったとしても、殺せると思えない。



 その瞳のまま、氷雨の父はゆっくりと噛んで含めるように言った。




「私は君を気に入っているのだよ。それを理解しなさい」




 わからない。

 理解ができない。

 この男の言動が、演技が否かわからない。



 今まではそんなことなどなかった。

 人の力量を見誤ることはなかった。だから若くして殺し屋として生き延びることができた。




 この男は、何を企んでいる?




「おや、羽織がずり落ちているよ。寒くなってきたから、気をつけなさい」

 するり、と羽織を持ち上げる両の手。雪代が軽く身じろぎする。それを見ながら、父は思いつきのように言葉を続けた。



「ああ、そういえば名乗っていなかったね。今更だな、私の名は藪蘭やぶらん。いつでも、名を呼びなさい」



 藪蘭。

「そんなもの、契約にはない」

「未だ強がるかね」

 雪代は、いつでも懐に手を伸ばせるようにしていた。しかし、毒つくことはできても、それ以上は動けない。

 動くことができない。

 それを見た氷雨の父――藪蘭は、どこか満足気に笑み、そのまま客間を後にしたのだった。




 その夜、雪代は寝静まった桜の部屋で体を起こした。

 障子窓の向こうに、はらはらと散る花弁の影が見える。隣には氷雨の寝顔。雪代はそれを無表情に眺めると、机の上に無造作に乗った絵を掻き集めた。そして、音もなく影のように部屋を出る。

「これは……花、これは……、林か?」

 なぜこんなことをしているのだろうと考えながら、それでも律儀に仕分けをする。

 しばらくすると、隠し扉の先にある現の世界の渡り廊下に、いくつかの分類が成された。それを少しずつずらして重ね持ち、雪代は居間へ向かう。


 場所は間取り図で頭に入れていたが、実際に行くのは初めてだった。目の前まで着くと、襖は半分ほど開いている。

 それを開けようと手をかけたところで、雪代は手を止めた。

「誰だ」


 感じたのは、見知らぬ者の気配。

 氷雨親子のそれではなく、もっと粗野で、荒い。どちらかと言えば、湿った路地裏がまとう気配に近い。

「手前が雪代とやらか。へ、細っせえ体だな」



 そこにいたのは、屈強な体を持つ男だった。


 

 村人だろうか。適当に着た着物、はちきれんばかりの筋肉。しかし、健康的というよりは、まっとうな者であれば、どこか不安を覚えるような人相をしている。居間の座椅子にどっかりと腰を据え、にやにやと雪代を眺めていた。

 雪代は、ここにいることへ違和を覚えるように眉をひそめた。しかし、臆することはなく居間に入る。


 それは、客間二つ分ほどの大きな空間。

 飴色の机が中央に設えられ、その周りに座椅子が置かれている。障子窓からは紺色の夜が滲むように見える。その夜の色は、桜の部屋と日巡りの連動を感じさせる。端には行灯が用意され、淡い橙色の光を円状に広げていた。

「絵だな。寄越せや」

「ここに置いておけと」

 男が笑う。黄ばんだ歯がちらりと覗いた。

「なんだ手前、俺の務めを奪いてえのか?」

 雪代は、絵を抱えたまま男を見る。男は雪代と同じ、澱んだ瞳をしていた。

「何の話だ」

「その絵をよこしなって話だよ。これは大事な商品だからなあ。花より蝶より丁寧に扱わんといけねえよ。すぐに俺らが回収して、売る準備をせにゃ」

そう言いながら、男は氷雨の絵をひったくると、それを机の上に並べて検分し始めた。


 売る。


「おうおう、毎度のことながら、うっつくしい絵を描くねえ、旦那の息子殿は」

 雪代の瞳に、行灯の色が映る。しかしそれはすぐに黒の中へと飲み込まれ、よりいっそう暗い色に化ける。

「お前、画商か?」

「画商なんて生ぬるいもんじゃねえよ。手前、てんで何も知らねえのか、それとも頭カラッポの大馬鹿野郎か?」

 節の太い指が絵を数える。窓に吹きつける風、変色した爪、行灯の影、薄暗い室内、大事な「商品」、男の薄笑い、底知れない何か。

 絵の内の一枚がちらりと見えた。鮮やかに彩色された花の図。艶やかに匂い立つような花の一輪。




 

 お前は、何を企んでいる?

 ――藪蘭。

 




 男は、口元を不敵に歪めながら言った。

「画商じゃねえ。俺らは……『夢売り』だ」




 

 

 

 


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