六十二 うつくしき嘘にて花の一輪を知る

「あれは何かの術か」

 再び客間に戻り。茶をすすりながら、雪代は淡々と問うた。

「そうだよ。少し待っていなさい」

 氷雨の父はあっさり答えると、少しばかり客間を離れる。そうして戻ってきた彼の手には、抱えて持ち運べるほどの小さな引き出し棚。

 そこから取り出されたのは、折り畳まれた古い紙だった。



「これが、あの白木蓮の部屋だよ」



 雪代の瞳が音もなくきろり・・・と動く。しかし流石に、その黒には数筋の戸惑いが混じっていた。


「この紙は特別でね。この紙に部屋の間取りを描き、花弁を押し花にしてしまっておけば、幻の部屋が生まれる」


 差し出された紙を緩やかな動きで受け取ると、かすかにあの白木蓮の香が立ち上る。しかしそれは古くなった紙の匂いと合わさり、どこか褪せて感じられた。間取りを描いていると思しき墨の線も、薄くなっている。かつてはもっと濃かったのだろう。


 この紙によってあの白木蓮の空間は生まれ、そしてその中に氷雨がいる。


「開いてご覧」

 崩れないよう慎重に開くと、そこには白木蓮の立つ広い空間と、それを取り囲むように造られた渡り廊下。廊下の奥には部屋があり、暮らすための最低限の設えを整えていた。

 その間取りをくまなく眺めながら、ふと雪代は眉をひそめる。

「出入口は無いんだな」


 白木蓮を四角に囲う屋敷。ただそれだけ。

 出入口はない。描かれていない。


「そうしたら、私たちが出入りしたのは一体何だったんだい?」

 氷雨の父が低い声で笑う。確かにその通りだ。あの時、雪代は幻に入り、眠る氷雨を見、そして出た。そう考えれば、出入口はある。

 しかし、この図には描かれていないというのは、どうにも異様だった。


 あるべきものが描かれない違和。


――離れは枡を上から見たような形をしていて、その中心には中庭が広がっています。そしてそれを囲うように、渡り廊下と部屋が連なっていました。

――ぼくたちは、そこに住んでいました。ただ、そこから出ることはできませんでした。中庭に行くことや、他の部屋に行くことはできても、離れの外に出ることはできなかったんです。


 氷雨の脳裏に、連翹――桔梗の話が蘇る。


――翡翠さん、前に出口のない空間の話は聞いたでしょう。おれは、あれとよく似た部屋にいたんです。


 そして、己が発した言葉も。



 氷雨の部屋も、桔梗の部屋も、からくりはきっと同じだった。

 最初から、出口が描かれていなかったのだ。


 

「……貴殿は何を企んでいる」

「企んでなどいないよ」

 鋭さを帯びる雪代の視線。それを感じ取ってか、父は紙を雪代の手から抜き取った。刀を無理やり鞘へ収めて、闘気をそらすように。

「……これでも、他の紙・・・より質はかなり良い方だ。しかし、強い術をかける源になっているから、どれだけ良い紙でも、いつかは駄目になってしまう。だから、替えが要る」


――白木蓮から桜に替える時季だよ。


 そうして父が棚の別の引き出しから取り出したのは、新品の紙一枚。

 新しい間取りと、桜の押し花。


「新しいへやを作り、古い紙をそこに一日重ねておくと、隠し扉の先が新しいものに書き換えされる。その後、二枚に転送印を押すと、古きから新しきへ、氷雨を転送できるのだよ」

 仕組みは何でもいい。

 ただ、二人の話を聞く氷雨の頭に浮かんだのは、雪代が蹴った瞬間に枯れた白木蓮だった。



 形あるものはいつか壊れる。

 初春の花が枯れ、仲春の花に季が移るように。

 たとえ夢幻であっても、それが現から生まれたものならば……。


「君は、ここの唯一の住人ということにしておこう。初めて転送されるわけだから、氷雨も不安だろうからね。君は氷雨を導き、守りなさい。勿論、先日の演技を忘れてはいけないよ」

 父が雪代の手を取り、新しい間取りに指先を触れる。桜の香りがふわりと立ち、雪代はそれから逃れるようにまばたきをした。

「いいね?」

 こくり、と雪代の喉が動く。それを見逃さなかった父は、雪代の手を桜の木に据える。これから住む部屋の側に立つ、一本の桜に。

「家が一軒と、桜が一本。前より造りを簡素にした分、部屋の中身はより細かく工夫できるようになった。例えば……」


 そうして、これから二人が暮らす幻の部屋が立ち現れる。

 目の前の雪代には情報として。

 記憶を遡る氷雨には思い出として。



『汝には、父親から何と告げられていたのか』

『明日、ここを離れる心積もりをしておけと。全ての手筈は済んでいるから、ただ座って待っているだけでいいと』

 そう答えて、氷雨はふっと暗く笑んだ。

『父と、一緒に暮らせるのだと思っていました。そうしたら毎日父に絵を見せて、喜んでもらえると』

 その表情を見取ってか、「浮橋様」は低くくつくうと笑う。

『……その代わりに雪代がいたという訳か』



 新たに誘われし花の香に、小さな夢をぞ見れる者あり。

 其の夢散りぬるのちに現れたるは、雪の形代、桜花さくらばな


 

 翌々日、雪代と父はあの隠し扉の前に立っていた。

「もう部屋の転送は済んでいる。扉を開けなさい」

 その言葉に従って戸を押すと、吹きこぼれるように広がる桜花の香りと花弁。

 それを嗅ぎながら、雪代はふっと父の方を見やった。

「腰の刀は持ち込めないのか?」

「不満気だね。そんな露骨に刀を持っていたら、氷雨が怪しむだろう?」

「これで用心棒とは、形無しだな」

 軽く舌打ちする雪代ではあるが、外見は随分と清潔になっている。さっぱりと髪を切り、新しい着物に替えたその姿は、かつての記憶のまま。しかしその瞳だけが暗く、氷雨の知らなかった色をしている。

『雪代』

 声をかけてみる。勿論振り返ることはない。しかし、部屋に入る前に作り笑顔の練習をしていた。そばかすの顔に浮かぶ、無邪気で明るい笑み。よく見知った笑み。

『雪代……』

 氷雨の声を聞くことのないまま、彼は扉の向こうへと踏み込んでいった。



「雪代」としての定めへ。



 

「……桜を見ているのは、誰?」


 行燈のようにやわらかい白を部屋に広げる障子窓。その向こうには、はっと息を飲むほどの桜花。匂い立つように咲き誇る一輪々々は可憐で、それが群になって一木を成している。


 そしてその手前には、障子窓の縁に腰かけた少年。


 影となった細い体の輪郭を、淡い白が輝きながらなぞる。着流しの中から脚がこぼれ、その筋にもまた、うつくしい桜の色が灯っていた。彼が軽く身じろぎをすると、散った花弁が頬をするっとなぞる。導くように宙を舞う。それを目で追っていた少年は、やがて氷雨と父の方へと顔を向けた。

「これは失礼しました」

 縁から体を下ろし、畳に頭をこすりつける。低く掠れた、少年のあわいの声だった。

「彼はここの住人だ。お前はここで共に暮らしなさい」

「……はい」

 いつまで、とは聞けなかった。ただ、それにしてはこの部屋はひどくうつくしかったから、いつまでなどどうでもよい気がしていた。

 夢の中にいるかのように、ぼんやりとうなずく。氷雨の瞳は未だ、彼に吸い寄せられていた。彼の黒い髪はかすかに乱れているが、姿勢をかたくなに崩そうとしない。

「父さん、同じくらいの年の子と、過ごしたことがありません」

「大丈夫。彼が――雪代が、お前を支えてくれる」

「雪代?」

 父の笑みとともに、ようやく少年は顔を上げた。



「雪代と、申します」



 その瞬間、窓の外の桜が、わっと音を立てて散った。


 それはまるで、雪のかけらが落ちるよう。

 白い光を宿した一片々々は空気をなぞるように、ひらひらと、ひらひらと踊り舞う。春と冬を織り交ぜるようにして風に吹きしく花弁は、やがては命を失ったように畳の上に身を横たえ、後はもう、動かない。

 その中心に、体をいっそう強い影に仕立てた雪代がいた。頬には、少しばかりあどけないそばかす。瞳の表情は、影のせいでうまく読み取れなかったが、少なくとも口元は親しげに緩んでいた。

「……よろしく、雪代」

「よろしく。ねえ、氷雨と呼んでも?」

「……もちろん」



 それは、散りぬる夢の中から新たに咲いた、永き夢の始まりだった。



 すべては幻、嘘の上に咲いている。

 あの部屋も、本当の雪代も、すべては永き幻。



 それでも、雪代と氷雨が出会ったことは真だった。



 


「雪代は、どうしてここに?」

「どうしてだろうね」

 氷雨の心を見透かすようにそう言った雪代の瞳は、黒く濁っていたとは思えないほど澄んでいた。雪代に初めて出会った氷雨も、幻影をたどってここにいる氷雨も、その色に捉えられてしまう。たとえそれが、演じたものだとしても。

「ぼくのことより、氷雨のことが知りたいな」

「そんな、おれのことなんて、つまらない話だよ。おれは昔から絵を描いていただけで……」

「へえ、どんな絵? 見せてよ」

 身を乗り出す雪代。氷雨は困ったような顔で、部屋に設えられていた紙と筆の前に立った。そうして、するすると花の絵を描き出してゆく。

「へえ、上手いなあ」

「そんな……。頭の中に浮かんでくる姿を写し取っているだけ。それだけなんだよ」

 するり、と影が走る。雪代が戯れに紙を手に取り、透かすようにして眺める。氷雨はあっと声を上げたけれど、雪代は笑いながらそれを避けて、そして花が綻ぶように笑う。

「そうとは思えない。すごいよ、氷雨」

「そ、そうかなあ……? ありがとう……、嬉しい」

 頬を赤くして頭を掻く氷雨。そんな彼をちらりと見やって、雪代は風のように軽やかな動きで障子窓へ腰かけた。そして、おもむろに片手の平を氷雨に向かって広げる。

 


「改めて、ぼくは雪代。よろしく」

「うん……。おれは氷雨」



 その瞬間、窓辺に腰掛けた雪代の姿が逆光に包まれた。

 それとともに、青く染まっていた空が一気に赤く染まる。思わず、雪代が体をねじって後ろを見る。血を思わせる赤。桜の色を奪い、飲み込む赤。それが雪代の輪郭を照らし上げる。

 うつくしい夕焼け。

「ああ、もう夕方だ。食事にしよう。氷雨はここに座っていてよ」

「え、でも」

「初めてここに来たばかりだろ?」

 本当はそれは雪代も同じだったはずなのに、間取り図と少しの滞在でもう頭に入れたのか、彼は慣れた様子で部屋の外の方へ向かう。立ち上がりかけた幼い氷雨を片手で制して。その中で、さらりと先ほどの絵を懐にしまう。氷雨はそれを見て少し瞳を揺らしたけれど、何も言わず、代わりに障子窓をそっと閉めていた。


 雪代が襖を閉める。

 

 氷雨は、ごろんと畳に寝転がった。そして、ふっと口元に手を当てて、かすかな笑みを零す。

「父さん以外に褒められたの、初めてだ……」

 雪代のやわらかな笑み、それが桜の花とともに広がる。その色が、その香りが、白木蓮の部屋にいた頃に存在していた、寒さに似た淋しさを癒してくれる気がした。

 懐に収められた紙。

 陽だまりのように明るく発された言葉。



「嬉しいなあ……。おれ、これから毎日、一人じゃないんだ……」



 雪の名とともに春が来る。




 襖を閉めて、雪代は紺色の闇に包まれた渡り廊下に出た。

 ここを進めば、外への入り口に着く。白木蓮の世界より随分簡素になった幻の場を、雪代は滑るように進む。その瞳に、氷雨の前で見せた澄みはどこにもない。

 扉を開ける。

 その先の現には、狙いすましたように二人分の夕餉が置かれている。少し冷めてはいるものの、米と漬物、山菜味噌と、ある程度しっかりとした食事。

 

 量が足りないことも、死んだ虫が混じっていることも、腐っていることもない食事。


 表情のない顔で、懐から先ほどの紙を取り出す。


 滑らかな筆の動きで描かれた、花の一輪。

 血色を知らない、花の一輪。


 うその世界を生きる、演技うそを知らない花の一輪。

 


――ありがとう……、嬉しい。




 無言で指に力を込める。

 雪代の手中で、花の絵が握り潰された。

 




 

 

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