六十四 守られし者、守りを破りたる事
「『夢売り』……」
「そうだ。聞いたことねえのかよ?」
「いや。噂には聞いたことがある。枕に仕込む絵を売るのだろう? 良い夢を見せるための」
「お、それくらいは知ってるか」
男が片手を腰に置く。雪代は直立不動でその仕草を眺め、それからふっと息を吐いた。
「大概が、中途半端な粗悪品と聞いているがな」
『中途半端な粗悪品』
一連のやりとりを耳にしていた氷雨が呟く。
――「浮橋様」が金持ちの夢ばっかり喰らうから、町人は中途半端な代替策で満足するしかなくなったんだよ。そのせいでどうなったと思う。悪巧みで儲ける輩が増えた。そのせいで……!
――効きの悪い眠り薬や、詐欺まがいの商売、悪夢の上書き……なんてものも流行っていると聞くわ。それで、損をしたり寝たきりになった者もいるんですって。
阿形の叫び。美凪の呟き。
それが脳裏を駆けて、氷雨はこめかみに手を当てた。
無論それに気づかない男は、はっと強く息を吐いて首を振る。
「粗悪品? 馬鹿にしてんのか。うちのは粗悪品なんかじゃねえよ」
――これは大事な商品だからなあ。花より蝶より丁寧に扱わんといけねえよ。すぐに俺らが回収して、売る準備をせにゃ。
「うちのはなあ、
神伏坂の紙。
神伏坂は、「浮橋屋敷」がある地域の名だ。
氷雨の脳裏に、自力で飛んでゆく不思議な鳥形が蘇る。
あの日契約を記した、紙の式神。
(紙を「浮橋屋敷」の外に売っているのか? でも、月下藍がそんなこと許すのか? 第一、翡翠さんたちが知らないはずないだろうし……)
誰かがこっそり横流ししているのだろうか。
まさか、身内に裏切り者がいる?
『今は流出していない。
軽やかで、しかし地を這うように低い「浮橋様」の声。ぞくりと背筋が震えて後ろを見ると、彼が口角を歪めているのが見える気がした。
(それについては、この先を見ればわかるということか……)
変えられない過去の先に、氷雨たちの今がある。「浮橋様」はすべてを見通した上で、氷雨に過去を見せているのだ。
氷雨は、底知れない恐怖をうっすらと背筋に感じながら嘆息した。
『それにしても、おれは「浮橋様」の紙に絵を描いていたとは……』
『我の力故に、汝の絵は夢としての力を有していたということだな』
『そういう、ものですか』
想像がつかない。
夢枕として使えば、氷雨の描いた絵がそのままに夢へ現れるのだろうか?
『評判は頗る高かったという。この世の楽園に訪れた心地になるとな』
『楽園……』
桜散る。
うつくしき桜の部屋で描いた夢は、人々に楽園と評された。
……それは本当に、楽園なのだろうか?
『仮初の楽園であろうと、楽園は楽園だったのだろうよ』
くつくつと笑いながら、「浮橋様」が呟く。
『楽園は楽園……』
『人間は欲深い。真であろうが偽であろうが、楽園を求める』
それにつられるようにして、氷雨の脳裏に雪代の笑顔が蘇る。花の香が広がり、たちまちに光が戻る。
――氷雨、ただいま。
その光景が頭を支配すると、途端に切り返す言葉を失ってしまう。氷雨は唇を噛んだ。
うつくしき仮初の桜の楽園に、二人暮らした仮初の日々。
そのうつくしさと淋しさを緩やかに疎みながらも、雪代を必要としていた日々。
黙り込んでしまった氷雨も露知らず、男は雪代の体を遠慮なく眺めては無遠慮に笑っている。
「それにしても、
下卑た笑い声。雪代は眉に深い影の皺を寄せていた。
「ここで片腕を落として見せようか」
男――陣左の片頬がひきつる。
「手前、生意気だな。……ちっ、絵を血で汚されちゃ、たまんねえ」
ふ、と息をつく声。懐に伸ばした手を収め、雪代は腕を組んだ。陣左はもう一度舌打ちして、机に手をついた。
「……まあいい、お前には邪魔者を除く役割をしてもらう」
「邪魔者」
陣左はどこか不気味な調子で低く笑い、氷雨はごくりと唾を飲む。
部屋は暗く、世界は静まり返っている。しかし、見えない糸が張り巡らせてあるように、どこか空気が尖っていた。
「質のいい『夢売り』は、周りから狙われんだよ。技術を奪おうとする輩やら、暴力で潰そうとする輩やら、まあ色々だ」
「……だから、俺か」
殺し屋「雪」を雇った理由。
「そういうこった。ああ、旦那の息子を守るのは引き続きやれよ? 奴らは当然、絵師を血眼で探してるからな。手前が絵師と売り子である俺らを守って、そんで枕里村を守るって寸法だ」
――氷雨を、守ってくれるね?
藪蘭の言葉、その意味が広がっていく。
「夢売り」を行う枕里の核が氷雨であるから。
絵師である氷雨を守ることで枕里の「夢売り」が守られ、枕里へ迫る脅威を除くことで氷雨が守られるから。
男が、氷雨の絵を指先で叩く。
仮初の部屋で描いた絵の数々を。
『……もしかして』
氷雨は、ゆっくりと口を開いた。
『おれがいた部屋……、あれを作った紙も、「浮橋様」の紙ですか』
間取りが描かれた紙。ありふれた紙では、あの部屋を具現化させることなどできないはずだ。何かしらの力が働いている。そして、それに関わるとすれば、「浮橋様」の力しか考えられない。
『是。奴らは我の紙を悉く活用していたらしい』
どこか面白がるように、しかし同時に人ならざるものの響きに冷えた声で、「浮橋様」が答える。
その紙によって作られた部屋でかつて暮らしていた氷雨は、ぐしゃっと髪をかき混ぜてから、軽く息を吐いた。
一枚の紙によって作られた、幻の部屋。
存在を知らなければ、たどり着くことなどできない。
『あの紙の部屋は、絵師であるおれを隠すためのもの……』
氷雨を守り、枕里を守る。
すべてはそれに収束していた。
氷雨は咄嗟に居間を出ると、渡り廊下に飛び出た。そして、冷たい欄干に手を置き、夜に沈んだ村を見回す。全てが黒く塗り潰したように見えるけれど、よく見ると山の端や家々がほんのりと浮かび上がっている。
『この全ての中心に、おれはいた』
現の枕里から切り離されながら、その実は中央にいた。それを何も知らないままに。
背筋が震えた。
藪蘭の底知れない瞳が脳裏をよぎり、そして桜の部屋に彼が一度も訪れなかったことを思った。
どうして?
そう思ったとしても、来てほしいと願っても、来ることはなかった。隠されていた。守られていた。何も知らされなかった。
それでも。
こうして過去を知ることで、かつての守りを破ろうとしている。氷雨が知ることで、過去は何も変わらないけれど、それでも、彼らが知らない内に、隠し事を暴こうとしている。いや、暴いている。父の、雪代の、そして枕里の、知らない一面を見聞きすることによって。
『恐れているか?』
「浮橋様」が尋ねる。
今更の問いだった。
それゆえに、氷雨はぐっと拳を握りしめると、渡り廊下を離れて居間に戻った。
それを見ながら、「浮橋様」はどこか楽しそうに笑う。闇の中にその笑い声が響き渡るさまは不気味ではあったけれど、同時に子どもに似た無邪気を感じさせるのだから不思議であった。
『やはり欲に従うか。人間だな』
見届けたい。
最期まで、知りたい。
ただ、それだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます