四十 涙澄みて朝日の色を喜ぶ

 

 山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ


「『宿主』を連れてきたら、そこに横たえる……」

 側に立つのは、師匠の葉山。その低い声が、青緑色の布の中に響く。「月下橙」の着物の色と、それとともにちらつく、真新しい白。硬い表情の「新月」は、「宿主」役を演じる別の「月下橙」とともに、部屋の中に立っていた。世界は、「月下蛍」の光と夜の闇。

「では、そちらに、お体を、横たえてください……」

 仲春にも拘らず、寒さの中にあるように震えた声。緊張だろうか、葉山は思わずその青ざめた顔をのぞきこんだ。大きな瞳は濡れたように黒々と光り、唇は肌の色に同化しかけている。その隣で、おもむろに「宿主」役が体を横たえる。

「……大丈夫か」


 死んだように動かない四肢。

 音を潜めた和室。

 横たわった時にか、軽く乱れた着物。


 

 しゃぼん玉の色をした空。

 その中で、屍のように生きていた者たち。

 それを射抜いた、黒くまっすぐな瞳。

 


 ぼくを、見るな。



「――ぼくを見ないでくれ!やめろ、こんな姿……!」

「連翹!」

 葉山の声。それが暗闇に轟く中、視界がぐらりと揺れる。反響する自分の金切り声、それがぐにゃりと歪んで、まるであの時の空のように空っぽの音を立てる。冷たい汗、その感覚。頬を、首筋を、もてあそぶように流れる。それを拭いもせず、ただ、小さく呟く……。

「ちがう、ぼくじゃない、ぼくはここに……」


 がくん、と連翹の頭が揺れ、体から力が抜けた。それをしかと受け止めた葉山は、無言で見つめる。ゆっくりと体を起こした「月下橙」が、心配そうな目を連翹に向けながら、ぽつりと呟いた。

「彼は、『捕り役』を免除した方がいいかもしれませんね……」



「年の送り」が終わるとすぐに始まるのが、「年の迎え」である。

 まず、一同に甘露が配られる。赤い漆器に注がれたそれは、明け方の灰色の中に沈む。その甘露に天井の月を映した後、一気に飲み干すのだ。

「これは、『浮橋屋敷』の伝統です。『浮橋様』の最初の『月下』は、そうやって契りを交わしたという伝えがあるのです」

 疲れを微塵も見せない「行事役」の説明に、首を傾ける氷雨。

「どんなひとだったんでしょうか、最初の『月下』は」

「詳しくはわかりません。きっと、『浮橋様』が信頼するほど忠義の厚い方だったのでしょう」

 ともあれ、自分はその「月下」から連なる流れの中におり、その者と同じ行為をしている。



 口の中に広がる甘み。

 最初の「月下」も、それを味わったのだろうか。



 飲み干した器を返すと、「行事役」が速やかに「月下」を導き、広場を囲うように座らせていく。氷雨と連翹はその波を掻き分けて「月下長屋」の入口まで行くと、ちょうど側にいた「食事役」から一杯を再度もらった。そして、そのまま長屋の中へと入っていく。皆が外に出た長屋の階段は、別の世界に迷い込んでしまったかのように静かだった。


 ぎし、と音を立てる階段は濃い飴色。それを抜けた先、声をかけてゆっくりと部屋の戸を開くと、そこに広がるは淡い蛍火と闇。そしてその中心に控える連翹。

 氷雨と引鶴は、そのまま部屋の窓際へと向かった。その姿に、窓の縁に肘を置いた連翹が、独り言のように話しかける。

「いよいよだね、二人とも」

「緊張するね」

「……下で受け取ってもよかったろうに」

「いやいや、一緒に勉強した仲だろ?」



 年明け、皆がひりつくように待ちわびたものがある。それが、試しの合否発表である。

 元旦はめでたい日であるとともに、それぞれの進退が決まる、重要な日なのだ。

 


 連翹が甘露を飲み干した後、窓辺に三人で頬杖をつくと、窓枠は少しばかり手狭になる。しかし、刻々とその時が近づくとともに、心臓が速く打ち始めた氷雨には、その狭さがどこか安心するものとして感じられていた。


 桃色に染まり始めた空の中、「警護役」がおもむろに「浮橋御殿」の扉を開いた。続けて、朝日を灯して恥じらうように光る黒御簾が姿を現す。一斉に身を乗り出す一同。御簾を形作る麻の一本一本が見えるかといえるほど目を凝らした頃、ふと、その黒に点々とした白が混じった。

「わっ、始まった」

 その点は少しずつ大きくなり、数も増えていく。そして、それらは広場中を包み込むかのように広がったかと思うと、次の瞬間、「月下」の前で一羽ずつ、ぴたりと動きを止めた。

 氷雨たちの目の前にも、それぞれの一羽が静止している。……よく見ると、それは紙の鳥だった。「浮橋様」と契約した時の紙の鳥と同じものだ。


「紙の鳥が焼け落ちたら合格、残れば不合格です。残った者は、追試験の説明がありますので、紙の鳥を持って広場の中央まで集まるように。なお、紙の鳥は『浮橋様』の力で護られていますから、自ら燃やすことはできません」



「行事役」の説明が凛と響いた直後、黄金の蜜の色をした朝日が鋭く世界を貫く。



 そしてその光に焼かれたように、三羽の鳥が静かに焼け落ちていった。



 はらりと落ちるは、焦げた紙切れ。

 白い着物は朝日に染まり、橙と化す。


「……合格」

 沈黙、それは一瞬を支配し、そして。


「合格だ!」

 直後、氷雨と引鶴はわっと叫んで飛びついた。その声で、実感がむくむくと湧いて出る。視界がとたんに輝き始め、思わず連翹の布団に大の字になると、引鶴は何が面白いのか大笑いし始めた。

「よし、これで『月下橙』だな」

「うん、これで……」

 そう呟いて隣を見ると、その細い肩は静かに震えている。初日の出を閉じ込めた露がはらはらと零れ、ぱちんと弾けた。


「本当に、本当によかった、連翹も受かって……」

「落ちたかもしれないって、不安がってたしな」


 二人は、両方からその肩を優しく叩く。それで堪えられなくなったように、連翹は嗚咽を上げて顔を覆った。

「落ちたかと、思った……」

「お前はいっつも真剣に勉強してただろうが」

「そうだよ、おれは連翹が受かると信じていたよ」

 幼子のように、ふるふると首を振る連翹。氷雨はその涙を拭い、引鶴は連翹の背中を叩く。

「ありがとう、二人とも……」

「何言ってんだ、水臭いな」

 その濡れ光る瞳の色は、先程からかすかな迷いに揺れていた。

「……連翹?」

 しかし、それがだんだんと濾過され、澄んだものになっていく。涙が迷いを洗い流していくように。


 連翹はかすかに笑んで、そして一瞬、張り詰めた表情を見せた。


 氷雨はその表情に、何かの予感に貫かれる気持ちを覚える。そしてそれに従い、おもむろに障子窓を閉めた。連翹はちらりと氷雨を見、感謝するように軽く頷いた。


「ぼくは……怖かったんだ。この試しに通らなかったら、恥ずべき昔の自分に戻ってしまうようで。昔の自分が明らかになるのは、その予兆のように思えて、怖かった」


 二人は、思わず口を閉ざし、連翹の声に耳を傾けた。


「ぼくは、本当は『桔梗』という。桔梗であった時のぼくは、忘れ去られたように生きていた。無気力で、自分から動くこともせず、ただ蛆虫のように横たわり続けて……。着物が汚れても、腹が減っても、それを正す気すらなかった」


「連翹……」

 翡翠たちに話した時には言わなかったことを、連翹は今、言葉にしている。氷雨はぐっと唇を噛んだ。


「そんな自分と、横たわった『宿主』を重ねてしまうから、『蝶の捕り役』を免除された。でも、他の『新月』が仕事をしているのに、ぼくは何もしないなんで……それこそ昔に戻ってしまう。だからぼくは、古い染め布を回収する仕事をさせてもらったりしたんだ」

 引鶴は、拳を膝の上で握りしめ、まっすぐに連翹を見ている。

 連翹は二人にふっと笑いかけると、京橋家での話を始めた。


 しゃぼん玉の色の空の話を。

 側に仕えていた海松の話を。

 桔梗を貫いた黒い瞳のことを、

 そして、あの火事の日のことを。


「……そんなことが」

 しばらくの絶句の末、引鶴は小さく呟いた。こくり、と喉仏が鳴り、睫毛がふるふると震える。

「ごめんよ、話さなくて。ぼくは臆病だったね」

「なんでお前が謝る」


 狼の唸り声のように、低い声が響いた。

 引鶴の声だった。


「怖いのなんて当たり前だろ。俺だってなあ、伊那の話を……妹の話をする時、すげえ怖かったんだ。一人で抱えるのも怖いけど、迷惑かけるって。お前なんてもっと色々抱えてたんなら、怖くて当たり前だ」

 いつもより少し早口に、それでいて節々に無意識の力をこめながら話す引鶴。連翹は、その言葉に打たれたように固まっていた。



「それにお前は今、自分の力で試しに受かっただろうが。それはお前の力だ。なぜそれを誇らねえんだ。過去を恥じるのは別に構わねえし仕方ないかもしれねえが、今の自分まで恥じなくてもいいだろ」



 引鶴は、ぐいっと乱暴に目元をこすった。

「この野郎、なんで俺が怒ってるんだよ……」

 目を赤く染めた引鶴。その隣で氷雨も静かに頷く。



「おれに『月下藍』という目標を示してくれたのは連翹だ。その事実は本当だし、何より、だからおれは連翹のことを尊敬しているよ」



 ぼろり、と連翹の頰を、透明な雫が伝った。それは澄んだ光を灯し、どこまでも純に輝いていた。



「ありがとう……ありがとう……」



「泣くなよ」

「泣かないで」

 すっかり朝日に包まれた部屋に響く、二人の声。連翹はしゃくり上げながらも微笑み、そしてくしゃっと顔を緩めた。


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