三十九 年の瀬に玉の緒の長きを願う
一人になった部屋の冷たさが、深々と身にしみる。
その冷たさは、火照った頭を静かに包み込み、やがては熱を吸い込む。その熱を受け取ったように、障子越しの空は赤い。
かすかに湿った布団。首筋を拭うと、薄い雫がつき、涙に似た匂いがした。
連翹は、先程氷雨と引鶴が出ていった自室の中で横になっている。
連日、追っ手から逃げるようにがむしゃらに、本を読み続けたからだろう。時折、視界に火花が散る。起き上がって続きを読もうにも、体がうまく働かない。
(静かだな……)
ふと、友人に告げたばかりの言葉が、脳裏をよぎる。それを噛み締めながら、連翹は額に手を置き、ぼんやりと天井を見つめていた。
「今日は寝ていることにする。どうも、体に力が湧かなくてね」
「なんだ、風邪か? 知恵熱か? ちゃんと休めよ」
「蕎麦ができたら、すぐ持っていくよ」
蕎麦。
時は、年の瀬である。
「連翹、大丈夫かな」
「食って寝れば、顔色は良くなるだろ」
「月下長屋」を出ると、目の前には広場。「行事役」が、人参色に染まった空の下できびきびと動き、夜に向けた準備を始めている。
「あっ」
ふと、引鶴が声を上げる。見ると、「行事役」と「月下藍」――「警護役」が何やら話し合っている。それも、「浮橋御殿」の扉の前で。そして、それを開くような仕草をするではないか。
「もしかしたら、『年の送り』では、あの扉が開くのかもな」
氷雨はどきりとして、まじまじと引鶴を見た。
(また、あの黒御簾が……もしかしたら「浮橋様」が――雪代が、おれの前に)
一斉に開く花のような高揚が身を包むが、それも一瞬、慌てて首を振る。
……いけない、「月下藍」になってからだ。また迷惑をかけてしまう。あの黒御簾をくぐり抜け、あの声を聞くのは今ではない。
今飛び込めば、全ては泡沫に帰す。
夢の中、桜と炎の中に消えていった、雪代の姿のように。
その足で厨房に向かうと、山辻たち「食事役」が忙しなく動き回っていた。至るところから淡い白の湯気が上がり、それを追いかけるようにして紅や橙の着物がはためく。
「年末年始は祝いの食事の準備で忙しいらしいとは聞いてたけど、すげえな」
感心したように呟く引鶴。兎のように俊敏な瞳がその光景をあまることなく見渡し、そして目ざとく様々な食事を見つけた。
「見ろよ、あそこで蕎麦茹でてる。あ、あっちは
まな板から湯の中に流し込まれていく、薄灰色の麺。ふわり、と香り高い粉が舞う。
そのそばには、とっぷりと具材を覆う真っ白な液。それを日光に似た黄金色の油に落とし込むと、雨粒のように油の粒が飛び、さくさくの衣に生まれ変わる。
とんとん、と蕎麦や野菜を切る音。それは心地よく響き、冬の厨房を明るく見せた。
「うん、おいしそうだ。知ってるか、蕎麦は長生きを祈願するんだと。玉の緒よ長らえよってことだな」
「へえ、麺が長いからかな」
しばらく厨房の様子を眺めていると、「食事役」の山辻が二人に気づき、手を振った。
「もう少しだけ待っていてくれ」
「承ー知。楽しみだな、氷雨」
「うん。山辻さん、すごくおいしそうです」
湯気をかき分けながら動く、山辻の筋肉質な体。二人の言葉を聞き、彼はふっと笑んでみせた。
そして、奥に一旦引っ込むと、ぽんぽんと何かを放る。
見ると、それは味噌まんじゅうであった。
ふかふかの生地に包まれた、まろやかな白あん。そして、その風味を際立てる甘い味噌の香り。
しかしそれを頬張ることなく、手のひらに乗せる二人。しばらくしてからぱっと顔を上げると、ゆったりと笑う山辻と目が合った。
「もう一つ、持っていくか?」
静まり返った部屋の中に横たわる友が、それを手に取り、ゆっくりと頬張る姿が、頭に浮かんだ。
「はい、ありがとうございます」
ぽん、と放り投げられたまんじゅう。それを受け取り、二人は礼をして踵を返す。湯気が薄く煙る中、山辻はその背中に声をかけた。
「この後会えるかわからないから、先に言っておく。良い年を迎えろよ」
「はい、山辻さんも」
「年の送り」が始まる時間になると、「月下」たちで広場はひしめき合う。篝火の側に立つ「行事役」は、目線を鋭くして彼らを統制していた。
ピィーーーーーッ
ふと、甲高い音が響く。指笛だ。それに伴ってざわめきが一気に減り、紺碧の空に浮かぶ月に相応の静けさが与えられた。
その中を、独特の靴音が貫く。毎朝聞いている音。「献上役」の靴の音。
人並みが自然と割れ、そこから、紺色の縦列が歩み出る。同じ色の最中でも、決して引けを取らない姿に、皆は息を飲んだ。
「献上役」は、黒蝶を献上する時のように、一直線に「浮橋御殿」へと向かっていく。しかし、その手にあるものだけが違う。
よく見ると、それは蕎麦らしい。美しく盛られた蕎麦は漆器に収まり、篝火の橙を受けてきらきらと光っていた。
「『浮橋様』に、蕎麦を献上するんだな」
にやりと笑みながら、引鶴が呟く。氷雨は曖昧に頷きながら、何とも言えぬ顔で「献上役」の後ろ姿を見守っていた。
ぎい、と音を立てて、扉が開く。
紺色の着物が、黒御簾の中に消えていく。
しゃらり、と御簾が擦れる音。
(あれは、誰が食べるんだろう……)
――黒蝶を捕るのは、「浮橋様」に献上するためだ。それは「浮橋様」の食事になる。
――しょくじ……?
――お前がこうやって粥を食べるように、「浮橋様」は「宿主」から捕った黒蝶を食べる。そうやって、「浮橋屋敷」は成り立っているんだよ。
ある春の日、布団の傍らに立った深山が教えてくれた、「浮橋屋敷」の仕組み。氷雨はまだ火傷が癒えず、布団に横たわったまま上目で深山を見ていた。障子越しの光に包まれて、深山の黒髪が生糸のようにきらめいていた。
(そう、「浮橋様」は黒蝶を食べる。あの蕎麦は飾りの献上品なのか、それとも……)
人のなりをした、人とは異なる存在。
玉の緒の絶えし人の姿を借りた、氷雨の主。
一連の儀式が終わるまで、氷雨は目を水晶玉のように大きく開き、じっとそれを見ていた。
儀式が終わり、ざわめきが大きくなった頃。「食事役」がたっぷりの蕎麦の桶と天麩羅の皿を抱えて広場にやってきた。
広場には「月下」が集い始め、ぽっかりと丸い月の下、蕎麦の器を持って並んでいる。二人も器を受け取ると、そこに醤油、蕎麦、天麩羅が調子良く放り込まれた。
「蕎麦はもう食っていいらしいな」
ずぞぞ、と派手な音を立てて蕎麦を食らう引鶴。献上の際の静けさの反動か、「月下」は盛んに喋りながら蕎麦をすすっている。氷雨も思いきり口を開けると、ふわっと優しい香が広がるとともに、コシのある麺の旨味が口いっぱいに溢れた。その素朴な風味が、からっと揚がった天麩羅と濃く温かいつゆによく合うこと。
一同が蕎麦を食らっていると、ふと「月下長屋」の一室の障子窓が開いた。ほとんどは蕎麦に夢中で気づいていないが、氷雨と引鶴はすぐに視線をやる。なにせ、覚えのある部屋位置だからだ。
すぐさまその近くまで駆けると、窓辺には頬杖をついた連翹がいた。
「連翹、体調はもういいの?」
「まあまあだね。でも、大分良くなったよ」
「そうかい、年末に寝通しとは残念なこった。……手ぇ出せ」
猫のように目を細めた引鶴が、狙いを定めて振りかぶる。きょとんとしていた連翹は、次の瞬間慌てたように手を伸ばした。そして、放られたものを確かに受け取る。
「……味噌まんじゅう?」
それは、厨房で山辻からもらった味噌まんじゅうだった。
「よく噛んで食べて。蕎麦も、これから持っていくから」
「味もそんな濃くねえし、病み上がりでも食べやすいだろ」
二人が窓辺に向かって叫び、そして笑う。連翹はしばらくその味噌まんじゅうを見つめていたが、やがてそれをゆっくりとかじった。
口の中に広がる、優しい、穏やかな甘み。
「……おいしい。すごくおいしいよ」
そう言った瞬間、わっと地上が湧いた。どうやら年を越したらしい。「おめでとう」という声が、至るところから聞こえる。
「おめでとう」
それに伴うように連翹に言うと、
「おめでとう」
と笑みをはらんだ声が返ってくる。それにほっとしながら、氷雨はふと空を見上げた。
(もうすぐ、ここに来て一年か……)
冬にここへ来て、春に療養をし、夏から「蝶の捕り役」を始め、友ができ、目標ができた。
は、と息を吐く。白い息が広がり、紺の中に溶けていく。鈴の音のように、冷たく澄んだ空気。
全身に火傷を負い、治療を受けていた頃は、その空気がひどく無愛想で、そっけないように思えた。
しかし今は、蕎麦で温まった体にその空気は心地よい。
(『浮橋様』も……、雪代も、そう思っているといいな……)
年が明ける。ささやかな温かさとともに。
今を生きる人々の玉の緒が、長らえますよう。
絶えける人の玉の緒も、願わくば。
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