三十八 雪に隠れし真の迫る音
「連翹、お前に謝らないとならないことがある」
そう翡翠が切り出したのは、年の瀬も近いある日のことだった。
外では、真白な雪が音を奪いながら降り注いでいる。そのせいか、常に耳鳴りが響いているように感じられていた。
「俺たちは少し前から、『桔梗』を知っていた」
思わず、そんな風に連翹は顔を上げた。
その瞳には、鋭い刃のような冷たさと、その冷たさゆえの戸惑いと怯え。
「待て、落ち着け。言っておくが、試しの前に話しかけた時は知らなかったんだよ。あれでお前の気分を害してしまったのは申し訳ない。ただ、それとは違う経緯だ」
氷雨は、ぎゅっと拳を握りしめながら、翡翠の声に耳を傾けていた。
「以前からここに通ってきている『宿主』がいる。京橋家の長男坊だ。そいつが少し前、氷雨に聞いたんだよ。『桔梗という者がここにいるか』と。ここにはいろいろな子らが集うからな。それで、いるかもしれないと踏んだんだろう」
訝しげに眉をひそめる海松。連翹は、先程の姿勢のまま、微動だにしない。
翡翠は苦い顔をしながら、話を続けた。
「氷雨が『似顔絵』を描いたら、それがどうも連翹にそっくりでな。それで氷雨が相談に来たわけだ」
「その件は……」
地を這うような、連翹の低い呟き。それを目で制し、翡翠はなおも続ける。
「もちろん、『連翹』という名前だとか、ここにいるとか、そういうことは、あの長男坊には何も伝えちゃいない。ただ、俺の情報網じゃ『桔梗』という京橋家の関係者はいないんだよ。糠に釘だろうが調べを入れてみようと思ったら、海松が『桔梗様』と呼んだわけだ」
「なるほど……」
海松が頷き、それからすぐに首を傾けた。
「しかし、今までのお話を踏まえると、よくわからないことになってきますね。どうして、離れに閉じ込められていた桔梗様を、京橋家の方がなぜご存知なのでしょう?」
「確かに」
離れから、桔梗たちは出ることができなかった。
中にいる者は外へ出られない、不思議な戸。
それなのに、あの長男坊は桔梗の顔を知っている。
「……その答えは簡単です」
ふと、石像のようだった連翹が身じろぎし、その口を開いた。
「あの離れに入る前に、会ったことがあるからです」
「……どういうことだ?」
なおを降りしく雪は世界の音を、色を奪い、静かに積もっていく。障子窓越しに雪片の舞いをちらりと見て、連翹は軽く息をついた。
「海松が仕えるよりも、ずっと昔。ぼくは京橋家の長男と、兄弟のように扱われていました。……彼は正妻の子で、ぼくはそうではありませんでしたが」
氷雨は、思わずあの「宿主」の青年を思い返した。
疲れ切り、柳の枝のようにやせ細ったあの青年が、連翹の――桔梗の兄として暮らしていたと。
「とはいえ、ぼくが6つの時、急にあの屋敷を追い出されましたけれど。理由は、はっきりとはわかりません。しかしその翌年、町で隠れるようにして暮らしていたぼくたちは、あの屋敷に引き戻されたのです。しかも、ぼくはあの離れに……。それからは一度も、彼と会うことがありませんでした」
海松が、「桔梗様も大変な生活を送っていらっしゃったのですね」と小さく呟く。それに同意するように頷きながら、翡翠はがりがりと頭を掻いた。
「いずれにしても、急にお前を探し出すのは、どうにも解せないがな。まあ理由は何であれ、あの長男坊がお前を探しているのは間違いない。その上で、『案内役』の方で手を打って、『そんな奴はいない』と通すことも、兄貴にもう一度会う機会と捉えることもできる。どうするかは連翹、お前次第だが、どうする?」
雪が音もなくはらりと散る。連翹は唇を引き結んだまま、ただ障子窓を見つめていた。
「桔梗様」
そっと海松が声をかける。……その声にはっと意識を取り戻したように、大きな瞳に光が戻る。しかしその光は乾き、どこか疲れて見えた。
「……兄弟同然に育ったと言っても、何年も前のことですし、今の生活を、『連翹』としての生活を脅かされるのは、御免です。それに、兄と会うことが、後顧の憂いを無くすことになるのか、それとも裏目に出るのか、ぼくには判断がつかない……」
過去に関わる全てが手を組み、逃れられない「定め」として迫り来る。
それは蝶の鱗粉のように連翹を惑わせ、行き先を隠す。
翡翠は茶を一口飲み、暗中の灯火のように、指を一本立てた。
「じゃあ、これはどうだ。俺の情報網を盾にする。俺が町人を当たってみるから、代わりにどうして『桔梗』を探しているのか教えろ、とな。それで、後は『見つかりませんでした』とでも言っておけばいい。あの長男坊の目的次第では、会うという選択肢も残せるだろう」
「なるほど」
素直に頷き、そのまま連翹の背中をとんとんと叩く氷雨。その間隔は鼓動のように響き、連翹の体を静かに揺らした。
「すみません……」
「謝ることなんて、何もないよ」
遠くから歓声が聞こえる。
降り積もった雪で、「月下」たちが遊んでいるのだろう。土塀沿いに、それぞれの雪だるまが並んでいるのかもしれない。連翹はそう思いながらも、布団にくるまって書物を開く。今手に取っているもの以外にも、何冊もの書物が側に積まれていた。
冬眠の準備のように書庫蔵へ向かった連翹に、「本の番役」の菜摘は訝しげな視線を向けた。
「やけにたくさん借りるな。試しはもう終わったろうに」
「いえ……」
言葉を濁すように、奥の棚へと向かう。香草の図鑑や歴史物の書物、とにかく目についたものから重ねていく。埃が舞い上がり、ゆっくりと地面へ沈んでいく。
「あまり、無理するんじゃないよ?」
「いえ、趣味のようなものですから……」
頁をめくる。
知識が頭に浸し、嫌なことを隅へと追いやっていく。勉強している間は、何もかもから距離を置いておける。眠りたくない。
怠惰になったら、離れにいた時に逆戻りしてしまう。空っぽになってしまう。積み上げてきたものが、全て崩れ落ちてしまう……。
だから、頁をめくり続ける。全てめくってしまったら、次の書物を手に取る。また次の書物を手に取る。
連翹は唇を噛みながら、夜通し本を読み続けていた。
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