三十七 うつくしきに廃れたるは恥の色
あの離れは、さながら死後の世界。
神隠れのように、稀に迷子が入り込む。
一度だけ見た、黒尽くめの少年は、両の瞳だけを表に出していた。
しゃんと背筋を伸ばしたその立ち姿。一言も発しなかった声。鋭く磨かれた宝石のように輝く黒の瞳が、しゃぼん玉の空や中庭を、そしてぼくたちを透かすように見た時、ぼくは心の中で叫んでいた。
見ないでくれ。
こんなぼくを、見ないでくれ。
数日後。
「新月」が「蝶の捕り役」に向かい、静まり返った渡り廊下。そこに、小さく床をきしませる音が響いていた。
(誰かが忘れ物でも取りに来たのかな……)
自室で古布の選り分けをしていた連翹は、耳をそばたてながら手を動かす。「宿主座敷」から回収した、色や香の落ちた「手招き草」の布。それは、状態によって分けられ、「秋の送り」で灰にするための布や掃除用の雑巾など、様々に再活用される。「月下蛍」の灯りの中、連翹は淡い青緑色の布を籠から引き上げ、静かに選別していたのだった。
足音はしばらく響いていたが、それはふと止まる。水が引いたように一転、静けさが広がった。
(ぼくの部屋の前か……)
緊張をはらんだ予感が広がる。連翹は、ゆっくりと手元の布を置いた。そして懐に手をやると、甘く懐かしい「手招き草」の香とはまた別の、切ない思い出を立ち上らせる香がふわりと広がった。
「……海松でございます。今、お時間よろしいでしょうか」
体に入れていたらしい力みが、少し抜けた。しかし完全には抜けきらない手で戸を開けると、そこにはちんまりと片膝を立てた海松がいる。
「……いいよ」
と言うと、海松は一礼して室内に滑り込んだ。
「突然お訪ねした無礼をお許しください」
きっちりと頭を下げる海松。連翹は眉をハの字にして、首を傾けた。それにつられたように、ころころと部屋の隅を転がる綿埃。
「そんなに
「
「……相変わらず頑固だ」
連翹はそう言いながらも、かすかに笑んでいる。そのまま海松の柔らかい髪をわしゃわしゃと撫でると、海松は「おやめください」と言いながら、子犬のように拗ねた顔をした。そのどこか幼い表情に、引きずられるように、連翹はくしゃっと顔を緩める。
「生きていたんだね……」
その言葉は、夜闇を照らす「月下蛍」の光のように、ふわりと部屋に広がった。
「……はい」
応えた海松の声もまた、震え、掠れていた。
「……私が知っていることを、一番に桔梗様へお伝えしたいと思い、参りました」
海松がそう言うと、連翹は軽く目を見開く。そして記憶の中を泳ぐように、少し視線を巡らせた。
「ぼくが火の中で倒れた時、海松が見えたんだ。その時のこと?」
「はい」
こくりと頷く海松。そして、初めて空を飛ぶ雛のような面持ちで、ゆっくりと口を開いた。
「私は、火事に関する詳しいことは存じ上げません。なぜ火事を起きたのかといったことです。ですから、お伝えできるのは、私が知る限りのことだけ。どうか、それをご承知おきください」
「わかった」
連翹は、すっと息を吸い、それを止めるようにして海松の話に耳を傾けた。
「火が出たのは、私が床掃除をしている時でした。私たちは、桔梗様たちのお世話とともに、屋敷の中で別の仕事も任されていたのです。床掃除もそのうちでした。いつも通り掃除をしていると、屋敷の中が急に騒がしくなりました。走ってきた丁稚によると、なんでも屋敷内で火事があったと言うのです」
海松は、瞼の裏にその時の光景を思い浮かべながら語る。
「丁稚は皆桶に水を汲んで火を止めるよう命が下されていました。火事場に行って驚きました。あの離れからそう遠くない場所が燃えていたのです。あの戸が燃えてしまったら、桔梗様たちは一生外に出られないかもしれない。そう思い、一人その場を離れて離れの方へと向かいました。その頃には火はかなり広がっていて、私は水を被って走りました。真夏の太陽の元に置いた鉄板のように、床が熱くなっていたのを覚えています」
逃げ惑う人をかき分けて、かき分けて。
焦げ臭い煙の充満する煙の中を駆けて、駆けて。
そして辿り着いた先は、今にも焼け落ちん夢幻の庭。
「おそらくそこで私が見た光景は、桔梗様が見たものと同じことでしょう。剥がれ落ちる空の膜と、そこに入り込んでくる火の渦。戸の前で立ち尽くしていると、地面に今にも倒れ込みそうな桔梗様がそこにいました。私は慌てて抱きかかえ、そのまま外に出ました」
「そうだったのか……」
海松は首肯して、それから言葉に迷ったように、小さな声で続ける。
「その直後、火が移った離れが派手な音とともに崩れていきました。そして……あの戸も。おそらく、あそこに留まったままだった者たちは……」
そこで一旦言葉を切り、海松はしばらく黙祷した。それが答えだった。
「そこからは正直、記憶が曖昧です。私も煙と火にまかれ、何とか桔梗様を外に連れ出してからは気を失ってしまい……。その後は別の場所で治療を受けたりしていたのでしょう。もしかしたら、桔梗様の顔を知る者はほとんどいませんから、たまたま巻き込まれた町の子と思われたのかもしれません。……申し訳ございません。私が気を失いさえしなければ」
「いいんだ、ありがとう、海松」
がばっと頭を下げる海松。連翹は、その肩をそっと叩いた。
やはり、海松が助けに来ていたのだ。あの炎の中を。
海松は頭を上げない。
「海松、やめてくれ、そんな畏まらないでくれ。ぼくはそんな人間じゃない。京橋家の血を引いているからといって、頭を下げられるような相手じゃない」
ゆらり、と揺れる影。「月下蛍」の灯りによって引き伸ばされた連翹の影は、どこか不安定で、今にも消えてしまいそうで。
「ぼくは弱いよ。あの時――海松が『連翹』を見つけた時、ぼくが桔梗であると、一目でわかってしまうということが、ひどく怖かった。桔梗と連翹は、切り離された別人だと思っていたかったから」
海松は俯いたまま、膝の上で拳を握りしめていた。
「覚えている? 昔、一人の少年が離れに迷い込んだ時のこと。あの時の自分の姿をよく覚えてる。彼は遠くにいたのに、その瞳に、自分がはっきりと、映っているのを感じたんだ」
鋭く磨かれた宝石のように輝く、黒の瞳。
「……皆には深く語らなかったけれど、火事の日まで、ぼくはあの離れの
海松は黙っている。
ただ、顔を上げ、瞳を雨の水面のように揺らしながら、連翹を見つめている。
「あの少年に覚えた強烈な恥が、火事の日にぼくを突き動かしたんだ。もちろん、母や海松への思いもあったよ。でも、本当のことを言えば、ぼくは恥ずかしかった。だらしなく頽廃した自分が……」
揺れる海松の瞳の奥に、ふと蘇る記憶。
確かに、今に比べれば、彼は頽廃していたと言えるかもしれない。しかし、見るには同時に思い出す姿がある。
しどけない格好で横たわりながらも、自らの力で立ち上がろうと、強く唇を噛んでいた桔梗の姿。海松の手から椀を取り自ら飯を掻き込んだ後、静かに柱にもたれたまま、大きな瞳で何かを求めるように遠くを見ていた、その横顔を。
当人は意識してすらもいないような、変わり映えのしない日々の中でふと仄見える、暗闇から光に向かって手を伸ばすような表情を。
「ぼくは皆に、うつくしい話を、うつくしい記憶を話した。本当に恥ずかしいところ、醜いところは、言えなかった。そんな自分が恥ずかしくて、醜くて、仕方ない……」
「桔梗様」
びくり、と連翹の体が揺れる。それを空気の震えとともに感じながら、海松は迷いながらも、ゆっくりと声をかけた。
「どうかそんなことをおっしゃらないでください。貴方はあの空間の中でも、生き続けようとしていらっしゃった。だから貴方は、細い糸を引き寄せるようにして、生き残ったのだと思います。誰がそれを醜いと言えるでしょうか。私は貴方のそういうところに、お仕えしたいと思ったのですから……」
「海松……」
「月下蛍」が揺れる。
冬も半ば、澄んだ空気が、二人の頬をなぞる。
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