三十六 定めは蜘蛛糸の如し

 空を覆い尽くしていた淡い玉虫色は、泡のように消えていく。連翹たちは、それをただ呆然と見ていた。その破片が若草色の中庭の草に触れ、そして醜い黒に変色していくのを。

 炭のようにちぢれたそれは、やがて勝手に火がつき、跡形もなく消える。現れる青。それに続けて、鼻を激しく突く焦げ臭さが広がった。それは、鮮やかさを取り戻したばかりの空からだけでなく、もっと近く、開け放たれた戸から。


 ……戸の奥の景色が、いつもと違う。


 今まで、桔梗たちに見えていたのは、中庭の草むらだった。それは、たとえ海松が戸を開けて、外へ出ていった時であっても。彼は外界へと行き、桔梗たちにはそれができなかった。それなのに。

 

 それなのに、今は、そこから見える景色が違う。

 床をなめるように燃え盛る炎、黒く焦げついた柱、どす黒い煙。これが外界。


 これが……現実。


 熱風が体をあおる。今まではどうしようもなく淡かった輪郭が、熱さによって、半ば強制的に、浮き彫りにされる。四角い空間を、火の粉が覆い尽くす。世界の終わりのような光景に、桔梗は歯を食いしばった。


(ここを出て……何になる?)


 熱い、苦しい、でももう疲れてしまっていた。立ち上がるのなんて久方ぶりだった。体がふらつく。火の海のさなか、畳に身をあずけて、そのまま眠っていたかった。必要がないから、ここに置かれたのだ。だったら、必要とされないまま、あのしゃぼん玉のような膜も一緒に、うつくしかった世界とともに心中してしまったほうが、ずっと楽なのでは? 誰が僕を必要とする? 意図的に忘れ去られた存在を……。


 空っぽだと忌み嫌っていたうつくしい夢はやはりうつくしい夢で、現実よりはずっとましではないか?


 桔梗は踵を返した。その足取りは、幽霊のように頼りない。火の粉が離れにも飛んできている。それは流星のように鮮やかで、それでいて容赦のない恐ろしさをもって落ちる。じじ、と着物に落ち、細い煙を上げた。

 激しい熱風が吹く。離れの中で荒れ狂うそれがふと、桔梗の背中を突き、思わずつんのめる。その拍子に、懐から何かが落ちた。


 咄嗟にかがむ。目の前には、古布をかき集めて作った、小さな袋。

 はっとして拾い上げると、それは海松を経由して母がくれた、匂い袋だった。


(母さん……)


 もう薄れ始めた記憶の中で、時折響く声がある。普段は優しく、穏やかに笑っていた母の、最後の声。

 うつくしく酷に、住まう者を否定する空間。それを破るように響いた、力強い記憶の声。



――死んじゃだめよ、こうなったのは、貴方のせいじゃないの。だから、貴方は生きなさい。



 京橋家の追手によって引き離される中に聞こえた、鋭い悲鳴のような、掠れた、母の声。身を捕らえられながらも叫ぶ母の姿は透明な雫によって歪み、そして気づけばこの離れにいたのだ。


――生きなさい。


(母さん……!)

 匂い袋に鼻を寄せた。匂いはほとんど失せている上に、この焦げ臭さで見分けもつかない。それでも、記憶の中から鮮やかに蘇ってくる気がして、桔梗は思わず唇を震わせた。目元から雫が溢れ、空からしゃぼん玉の膜がはらはらと落ちた。


 唇を噛む。雫が、火の色を灯して弾け散る。桔梗は、ばっと戸の方に体を向けると、そこに向かって大きく一歩を踏み出した。

 空から火がが落ち、離れをも焼き焦がしていく。脆くなった柱が悲鳴を上げ、次々と崩壊していく。拳を握りしめて、振り返らず、戸の向こうへ行く。ぎゅっと目を閉じ、戸をまたぎ、そして目を開ける。


 ……そこには夢のような草むらではなく、紛れもなく現実の、火の庭があった。


 途端、激しい咳が出て、桔梗はうずくまった。視界がくらくらする。煙を吸い込みすぎていたらしい。緊張が解けた体にそれは毒のように回り、桔梗の視界は白黒に揺れる。せっかく外に出たのに、このままじゃ……。


 薄らいでいく、ぼんやりした視界。その中で、必死に何かを呼びかける海松の顔が、桔梗の目の前に見えていた。



「気がつくと、ぼくは見知らぬ町人の部屋にいました。ぼくを看病してくれていたようです。京橋家の屋敷は全焼しましたが、屋敷が大きかったものですから、延焼は少なかったと聞きました。それはまるで、京橋家への罰のように思えたことを覚えています。僕を看病してくれた人は以前『浮橋屋敷』の世話になったようで、彼の勧めでここに来ました。『連翹』として……」

 障子窓から透ける色は、すっかり濃い藍色になっている。長い話を続けてきた連翹は、大きく息をつき、疲れたような上目遣いで、三人を見やった。



「これが、嘘つき花の話です」



 氷雨は、しばらく無言で連翹を見つめていた。その瞳は水面のようにゆらゆらと揺れ、窓の光を写し込んで切なく輝く。

「なんで、氷雨くんが泣きそうになってるんだい」

 ほろ苦く笑う連翹は、いつもより幼く見える。それは桔梗の面影であったのかもしれない。目を伏せて前髪に触れる連翹を見ながら、氷雨は唇を噛む。何か言葉を発しようとするけれど、唇が震え、うまく言葉にならない。それを横目で見ながら、翡翠が口を開いた。

「色々考えなくてはならないことや疑問点はあるが、今は疲れただろうし、後に回そうか。……こうやって話をしなければならない状況を生んだのは、俺のせいでもある。すまなかったな」

 連翹はふるふると首を振った。


「いえ……。どのみち、明らかになることだとは思っていましたから。……定めは蜘蛛の糸のようなもので、糸はぼくを離れから引き上げるとともに、桔梗としてのぼくを忘れるなと言うように、逃れられぬ定めへと手繰り寄せるんです」


 掠れた声の直後、静かに満ちる沈黙。

 翡翠は、おもむろに連翹の肩を叩き、軽くさすった。

「対策は共に考えよう。ひとまず、話してくれてありがとうな」



 翡翠に頼み、氷雨はその日の「蝶の捕り役」を休んでいた。半端な気持ちで取り組んでは、「宿主」に迷惑をかけてしまうと考えたからだった。 

 静まり返った「月下長屋」の廊下を渡り、氷雨が連翹の部屋を訪れると、連翹は壁にもたれたまま、静かに笑った。

「ありがとう、氷雨くん。すごく疲れて、一人になりたいと思ったのに、こうやって一人でいると、急にたまらなく淋しくなる時があるんだ」

 氷雨は、こくんと無言で頷き、連翹の隣に座る。畳の冷たさが、滲みるように氷雨の体に伝わった。


「……ここでの生活はいいよ。生きている実感があるから。良い香もたくさんあるしね」


 反対側の壁を見つめながら、連翹が呟く。部屋には「月下蛍」の灯り。それが淡く光り、朝の光と混じり合い、壁を照らしていた。

 あれだけ熱心に香を研究していた連翹のことだ。ほとんど変化のない空間は、さぞかし窮屈だっただろう……。氷雨はそう思いながら、無言で頷く。


「母も海松も見つけることができなかった。でも、こうやって『連翹』として、仲間に恵まれた」


 静まり返った「月下長屋」。その中で、ぽわんと声が響く。ほんのりと、匂い袋の香がする。



「ぼくは馬鹿だなあ。こんなに皆は優しいのに、ぼくはまだ怖いんだ……」



 ちかり、月下蛍が瞬く。

 氷雨は思わず、連翹の顔をじっと見つめた。

 その横顔は、闇と光に包まれ、子どものようにも、大人のようにも見えた。


「連翹、」

「ごめん……」

 ふと、声が途切れた。見ると、連翹は壁にもたれたままに、静かに寝息を立てている。その目元には薄い隈が広がり、頬は青白い。しかし、口角は少しだけ上がっていて、不思議と安らかに見えた。


 澄んだ沈黙が広がる中、ふと、連翹を見守る氷雨の唇が震え、透明な粒が伝っていく。それはいつしかとめどなく続き、どうやっても、止め方がわからなくなってしまった。

 ぽたり、と畳に落ちて弾ける、光の粒。氷雨はそれを拭いながら、揺れる瞳を部屋の中に灯し続けていた。



(どうして、こんなにも涙が止まらないんだろう……)






 

 

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