三十五 うつくしき夢に生くるは儚し
さびしさに 堪たへたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里
薄くらがりの中にいる。
聞こえるのは、
浮きしずみしているように、ぼんやりと、生きている。体がさらさらと音を立て、砂のように朽ちてしまわないのが、ふしぎなくらいに。
やけくそのように開けはなたれた障子窓の向こうには、しゃぼん玉の表面のような色の空。透きとおっているけれど、どこかぼんやりした色合い。それから、幻のようにうつくしく、そしてうつくしいだけの中庭。
ぼくは、部屋の中でうずくまっていた。何もしない。にぎしめた小さな袋に、ただ顔をよせるだけ。
よすがのように、かすかな香をたどるだけ。
それはまるで、細い細い蜘蛛の糸を探すように。
……どうか、枯れてしまいそうな桔梗花を、その透明な糸で、すくい上げてください。
「何から話せばいいのか……」
人払いをした、「案内役」の詰め所。紙や墨の匂いが染みついた部屋に、氷雨、連翹、翡翠、海松の四人が集まった。大して広い部屋ではないから、四人も集うと少々手狭に見える。
その中で、連翹は目を伏せ、独り言のように呟いた。
「ゆっくりで、大丈夫だから」
「ありがとう……氷雨くん」
茶を一口含み、それをゆっくりと飲み干す。成長のさなかにある小さな喉仏が、角ばった輪郭を作り出していた。
「……ぼくの本当の名前は、桔梗といいます。ここに来てから、名前を変えました。それは、ぼくの出自を隠すためであり、過去を捨てるためです」
すう、と息を吸った連翹が話し始めたのは、しばらくの時が立ってからだった。
湯呑みを置き、正座した膝の上に置かれた手は、かすかに震えている。それを一度ぐっと握りしめて、彼はまっすぐに三人を見据えた。
そして、ゆっくりと、話を始めた。
ぼくは……ずっと、出ることのできない離れにいました。仕組みはよくわかりませんが、空にはいつも、しゃぼん玉のような覆いがありました。
離れは枡を上から見たような形をしていて、その中心には中庭が広がっています。そしてそれを囲うように、渡り廊下と部屋が連なっていました。
ぼくたちは、そこに住んでいました。ただ、そこから出ることはできませんでした。中庭に行くことや、他の部屋に行くことはできても、離れの外に出ることはできなかったんです。
あの部屋は、本当にうつくしかったと思います。ただ、それだけでした。……空っぽなんだな、とふと気づくんです。ここでの暮らしとは比べようもないほど、実感がないんです。輪郭が薄くなって、自分が何をやっているのか、わからなくなる。でも生きてはいるから、お腹もすくし、虚しさもあるんです。毎日がどうしようもなく長かった……。
ぼく以外にも、何人かの子どもがそこにいました。ぼくたちには共通点がありました。あの場所は、いわばうつくしい肥溜めなんです。ぼくたちの親は、京橋家の一員です。
彼らの、本当は存在してはいけない子どもたち――いわゆる妾の子たちの住まう場所。
ぼくは、最初からあそこにいたわけではなく、母からその事実を聞いていました。母はぼくを守るために、京橋家から隠れて暮らしていました。しかしぼくが7つの頃、母は女中として連れ戻され、ぼくはあの離れに置かれました。秘密は彼らの膝下に置いておくのが最良だったのでしょう。母がその後どうなったか、ぼくは知りません。しかし、他の子どもたちのほとんどは、物心ついた頃から、あの離れにいるようでした。
彼らの目は、空を覆い尽くすしゃぼん玉に似ていました。色ではなく、その在り方が。
……あの空間は、本当に不思議でした。僕たちだけが、なぜか出ることができないんです。出口はあるのに、ぼくたちが出ると、いつの間にか中庭に立っている。たとえ、外から来た者が出るのを追ったとしても。
……そう、出入りできる者がいたのです。それが、海松たちでした。彼らの多くは田舎の次男坊、三男坊や出稼ぎにきた少女たちで、屋敷に仕えていたのです。海松は、ぼくたちに食事を届ける役をしていました。そのせいで外で悪口を言われることもあったかもしれないのに、海松はとても親切でした。
海松、さっきはあんな態度を取ってごめんよ。ぼくは、恩義を感じている人に会った時、感謝より先に、恐怖が出てしまう人間であったみたいだ。あの、何も無い部屋への恐怖が。
海松たちが来てくれるのは嬉しかった。でもその分、彼らがいない時間が淋しくて、淋しくてしかたなかった。同じ境遇の子どもたちは、多くが自分の部屋に閉じこもっていました。最後まで、彼らが心を開くことはありませんでした。
うつくしさは、長く続くと虚しい。ぼくが空っぽだと言われているようでした。ぼくの輪郭がひどく曖昧になる。それに、忌み子たちの巣という事実を知っているからこそ、ぼくにはそのうつくしさが酷なものに見えました。お前にはこの程度の世界を与えれば十分、と静かに言われつづけているようでした。
ぼくが辛うじて生きていられたのは、海松と打ち解けられたことと、母の形見の存在があったからだと、思います。
母の匂い袋を届けてくれたのも、海松でした。あの時だけは、母が生きて京橋家の中にいることを感じさせてくれました。……あの匂い袋が、ぼくの支えだった。懐かしくて、懐かしくてしかたない。あの香りは、母がまとっていたものでした。
氷雨くん、前に匂い袋をあげたろう。あれはその香の記憶を元に、調合したものなんだ。まったく、気持ちの悪い話だろう。
……ありがとう、ごめんよ、氷雨くん。だめだね、弱っているとすぐ、自虐に流れてしまう。
もう香りが薄れてしまったけれど、あの匂い袋はぼくの宝物なんだ。
あれから、何年が経ったろう。正直、あの時はまるで浦島太郎のように暮らしていたから、よくわからなくなっているんだ。でも……でも、それが終わった日のことは、よく覚えています。
あの日、もう何年も忘れていた青空を見たんです。しゃぼん玉の色は、薄膜のように破れ、その隙間から、目を貫くほどの青を……。
そして、それを飲み込まんばかりの、鮮烈な赤を……。
あの日、閉じていた部屋は開かれた。
ぼくが見たのは、空を覆い尽くす青と、大蛇の舌に似た赤。そして、その赤に飲み込まれ、黒くなっていく屋敷。
あの日は、京橋家の屋敷が燃えた日でした。
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