三十四 浮き海松の流れ着きし先は

「桔梗という少年が、京橋家の関係者にはいないって……、それはどういうことですか?」

 眉をひそめた氷雨が問うと、翡翠は目を伏せて肩をすくめた。

「あくまで俺の情報網の中で、という話だがな。京橋家の中にはいないはずだ。友人は名のある家の者だろうが、そこにもいない。お手上げさ」

 しかし、情報通の翡翠が知らないとなると、大方の者が桔梗の存在を知らない可能性が高いだろう。

「そうすると、あの『宿主』が探し回っている理由がわかりませんね……」

 ぐい、と再び茶をあおる翡翠。絹布のように揺れ肩を流れる黒髪。それを見ながら、氷雨はぽつりと呟く。


「居場所がわからず、関係する者の中にも名前が見つからないなんて。隠されているのか、隠しているのか、独りになりたいのか、独りぼっちなのか……」


 それはまるで、誰かのようで?

 黒髪にそばかすの少年が脳裏をよぎり、思わず首を振る。彼とは別人だ。


 氷雨の内心を知ってか知らずか、翡翠は嘆息した。

「そうだな……。とりあえず調査は入れてみるが、そう簡単に出てくるとも思えない。しばらくは様子見だな」

「はい」

 唇を噛み、氷雨は素直に頷いた。

 


「とにかくまずは、例の丁稚の件だ。屋敷の案内を手伝ってもらってもいいか?」

「わかりました」



 例の丁稚がやってきたのは、その三日後のことだった。


「初めまして。海松みると申します」

 とある夕暮れ。

 やわくなりつつ闇色の中、丁稚――海松はそう言って、静かに頭を下げた。

 手の平の中で丸めた柔らかい紙のような質感の髪に、少しばかり緊張をはらんだ目。拾われたばかりの子犬のような少年に、氷雨は続けて頭を下げる。

「氷雨です。翡翠さんに頼まれて、屋敷の案内をしに来ました」

「よろしくお願いします。ここで根を張れるよう、精一杯努めます」

 

 根を張る。

 どことなく不思議な言い回しに、首を傾げる氷雨。言いたい意味はわかる。しかし、何かそれだけではないような……。

(まるで、今まで根を張っていなかったみたいだ)


 そんな氷雨の表情を見て取ってか、海松が苦笑いした。

「最初に奉公した家が不幸に遭い、その後は色んな家で、浮き草のようにふらふらと奉公していました」

 納得したような、それでいて複雑な表情をさっと見せた氷雨のそばで、翡翠が海松の頭を撫でた。そのそばを、すっかり乾いた冬の枯れ葉が風に流されていく。枯れ葉は地面に落ち、静かに黙り込んだ。

「たらい回しにされていたもんで、あっちこっちで顔を見てね。そういうわけですっかり顔馴染になったもんだから、前々から何とかしてやりたいと思っていたのさ」

「そうだったんですか……」

 

 浮き海松は流れ着いた。この「浮橋屋敷」へ。

 

 氷雨はふと思う。

 「新月」として過ごしてきた、自らの数月を。


「おれは、初冬の頃からここにいるんだ。ここは、とても不思議で、居心地の良い場所だと思う」


 一歩、海松の方に踏み出した。

 そして、ちらりと「浮橋御殿」を見やる。


 初冬ということは、もう一年もここで過ごしていることになる。で、気を失ったまま、どうやってここに来たのかもわからないまま、たどり着いた時から……。


 火中、崩れ落ちる櫓に最期まで立っていた雪代。

 黒い御簾の向こうに深く隠された、「浮橋様」の姿。


――隠されているのか、隠しているのか、独りになりたいのか、独りぼっちなのか……。


 春の長雨が降っていたあの日――「浮橋様」との対面の日のように、「浮橋御殿」の中に飛び込んでしまいたいという思い。それが、消えてしまったわけではない。

 しかし、「月下藍」という目標ができた今、不思議とその思いは落ち着いている。あてもなく囂々ごうごうと燃え盛っていた火が一転、長く燃え続けるための術を見つけたかのように。



 そうして穏やかになった火を灯りにして、透かし見た世界を――「浮橋屋敷」の日常を、思う。


「蝶の捕り役」たちの手元で揺れる竹籠と黒蝶。

 籠いっぱいに集められた、「手招き草」の布。

 厨房から届く、胸がいっぱいになる夕餉の匂い。

「月下長屋」に戻る「新月」の着物を染める夕暮れ。

 まどろみの中で見える、「月下蛍」の光。

 友の隣でたいそう笑った後の、心地よい疲れ。


 そして、最初こそ遠目から見るようだったその日常が、いつしか自身を取り巻く温もりになっていたことを、思う。



「海松君が、ここで、心穏やかな日々を過ごせればと思う」



 氷雨の言葉に、海松は静かに目を見開き、そしてくしゃっと顔を歪めた。



「ありがとうございます」


 

 その言葉に応えるかのように、産まれたばかりの陽光が空を刺し、夜を手放した雲はゆっくりと空を滑る。氷雨は少し照れくさそうに頭を掻いた。

「氷雨先輩ってか」

「からかわないでくださいよ、全く翡翠さんは」

「言った本人が一番面映ゆい顔をしていやがるな」

その姿を見ながら、海松がふと口を開く。

「氷雨さんからは、なんだか懐かしい匂いがします」

「懐かしい? 何だろう。匂いと言えば、『手招き草』……いや、懐の匂い袋?」

 懐に手を当てて首を傾げる氷雨。その側でふるふると揺れる、柔らかな髪。

「わかりません……。ただ、どうしてかわからないのですが、ひどく、懐かしくて――」



 さっ、と太陽が隠れた。星が強く瞬き、現れた黒い人影を迎える。その色の対照に氷雨は幾度か瞬きをし、それから目を見張った。


「あ、連翹」

「や、氷雨くん。気が早いねえ。試しの結果が出る前から『案内役』の仕事かい?」

 いつものようにどこかのんびりとした口調。それを明け方の中に溶かし、そして、ふと隣の海松に目を向けた。

「彼は」

「ああ、ここに来たばかりの子で、」


 雲が流れる。陽光が伸ばした手のように広がる。それは何かを求めるように、捕らえるように空を覆い尽くし、闇の色を奪い、白へと塗り込め、そして目も眩むほどに輝いた。



「……桔梗様」



 え、と氷雨の口から声が零れた。

「桔梗様」、確かにそう言った海松は、口元に手を当てて、水晶玉もかくやというほどに目を見開いている。その中にいっぱいに陽光が映り込み、ゆらゆらと揺れた。

「お久しゅうございます……」

 恐る恐る、海松の視線の先に目をやる。そして、思わず息を飲んだ。


 鋭い剃刀の刃のように光る髪。こくんと動く喉仏。空の色を吸い込んでしまったように顔は青白く、唇は明らかに乾いている。普段はどこか飄々として見えるその体は小刻みに震え、彼を、ひどく、幼く見せた。



「どうして」



 そうして朝の光の中に落とされた言葉は小さく、掠れていた。


「連翹……」

 氷雨の声。

「わかっていたんだ。いつか誰かが『桔梗』に気づいてしまうはずだとは。わかってはいたのに、それなのに……」



――居場所がわからず、関係する者の中にも名前が見つからないなんて。隠されているのか、隠しているのか、独りになりたいのか、独りぼっちなのか……。

 


 連翹は、ぐしゃっと前髪を掻き上げると、大切なものを全て奪われてしまった子どものように、ほろ苦く笑った。



「ここが、嘘つきの花の、流れ着く先か」


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