三十三 春花の香は甘し、秋花の蜜は苦し
その日の午後。
氷雨が「案内役」の詰め所に行くと、いつものごとく翡翠がいた。
しかし、今日の氷雨は少しばかり緊張する。考えてみれば、翡翠が氷雨を呼んだのだから、そこにいて当然なはすだ。そうとはわかっていても、手のひらに汗が滲む。
「今日お前を呼んだのは、一つ話があるからだ」
まさか、もう気づいている?
そんな予感が頭を走り、瞬間、連翹の顔が頭をよぎった。香について嬉しそうに話す連翹の顔が。
あの「宿主」の言う、桔梗という少年は、あまりに連翹に酷似していた。
しかし、氷雨はあの場でそれを誰にも告げなかった。もちろん、「宿主」にもだ。
(翡翠さんと話した時辺りの連翹の様子のおかしさからしても、連翹は何か隠している。でも……あれだけ青ざめていたんだから、きっとむやみに明らかにすべきことじゃない)
連翹花を、自分のせいで手折ってしまいたくはないからだった。
「この前、『蛍見』に行ったろう。あの時の丁稚を迎える準備ができてな」
あ、と思わず変な声が漏れた。それが乾いた空気の中に響き、震え、「ああ、違う話だった」という安堵が広がる。
「ああ、あの丁稚が……良かった……」
続けて、翡翠の言葉が意味を持って体に染み渡る。体の力の抜けた氷雨は、思わず体を折り、大きく息を吐いた。
翡翠は、怪訝な顔をしながらも、再び口を開く。部屋に積まれた過去の組み分け表が、静かに、どこ緊張感をはらんで、佇んでいる。
「そういうわけで、お前にも手伝いを頼みたい。屋敷内の『案内役』、といったところだが……」
途中で話を区切ると、翡翠は茶を一口含んだ。
「お前、何かあったな?」
いざそう聞かれてしまうと、「ああやはり、この人は気がついてしまうか」という、妙な安堵が立ち上った。
それでも、気は緩められない。翡翠は連翹に関わる何かしらの鍵を持っているからだ。
――……連翹。もしかして、どこかで俺と会ったことあるか?
(ここで話すのがいいのか? いや、連翹にとって裏目に出てしまわないか……。でも……)
唇を噛む。着物の裾を掴むと、その痕は汗に塗れていた。灰色にくすんだ生地。はっと手を離すと、その勢いで翡翠と目が合った。
「もしかして……連翹がらみか」
そのまま、息が止まりそうに思えた。
「お前がそれほど取り乱すってことは、大方親しくしている者に何かあったってことだろう。その中で、何か動きがありそうなのは、連翹がらみだけだ」
「どうして……」
すると、翡翠は軽く嘆息し、ぐしゃぐしゃと髪を掻いた。
「あの時……試しの前、連翹が俺の言葉で青ざめたのがわかった。あの表情がずっと気にかかっていてな……」
氷雨は、思わずまじまじと翡翠を見た。
「それに、以前から、連翹という少年には何かあるらしいことは知っていたよ。名前だけしか知らなかったがね」
「と…言うと」
「この『浮橋屋敷』には、訳ありな奴が入ってくることが多い。身寄りがない、郷里を追い出された、とにかく色々だ」
翡翠は、腕を組んで氷雨を見やった。氷雨は、神妙な顔で頷く。自身も所謂「訳あり」だからだった。
「訳ありにも二種類いる。分け方は簡単だ。『蝶の捕り役』に差し障りがあるか否か」
「と、いうと?」
「これは『案内役』だから知りえる情報であり、お前は試しに受かると見込んで話す。受かろうが受からまいが、間違っても口外するなよ」
そう前置きし、翡翠は再び口を開く。
「……前者は農村の出だとか、『蝶の捕り役』をしていても特に問題のない奴。後者は……あまり多くはないんだが、お前の時のように療養中だとか、特定の状況を異様に怖がるだとか、名のある家の出で顔が割れるとまずいとか、まあそういう奴だね」
「なるほど……」
「後者は特例で、『蝶の捕り役』が免除される。だがしかし、組み分け表から漏れるわけだから、『案内役』の間じゃ目立つ存在になる。詳しくは知らないが、とにかく免除されている者、ってな。つまり、連翹は、その内の一人だったわけだ」
「だから、連翹と会った時、翡翠さんはあの連翹なんて言ったんですね……」
氷雨は話に頷きつつも、首をかしげる。
「ええと、つまり連翹は、『捕り役』をやっていなかったと?」
「『早めに終わった』とかなんとか、誤魔化していたんだろうよ」
部屋に満ちる沈黙。差し込む光は場違いなほどに眩しく、氷雨は思わず目を細めた。
――蝶を渡してきたところ?
――うん。連翹は?
――……ぼくは、『蝶捕り』が早く終わったから、葉山師匠に頼まれた仕事をやっていた。香の褪せた布を、『宿主座敷』で回収して、交換するんだよ。……淡い香も、なかなかに乙なものだと思わない?
――『新月』から布を回収していたら、遅くなって……。
――さすが薫の君は優秀でいらっしゃる。『蝶の捕り役』を誰よりも早く終えられるから、『染め布役』の仕事ももう任せられているって噂だぜ。
――違うって、そんなんじゃないさ。
「……連翹は『捕り役』を早く終えて、香りの落ちた布を『新月』から回収していると思っていたんです。確かに、詰め所に黒蝶を持っていくのは見たことがなかった。でも、それは早くに仕事を終えているからだと思っていて……」
冷たい空気が埃と混じり合い、床に落ちていく。その銀粉のような輝き。雪のように静まり返る世界。
それを拒むような、深呼吸の音。
「……翡翠さん、誰にも言わないと、約してくれますか。そうしたら、話せると、思います」
「言いづらいんだったら言わなくてもいいが、言ってもらえるなら口外しないと約束しよう。だから、話してくれるか」
同時に零れた言葉。それに気づいて、二人は思わず顔を見合わせ、そしてゆっくりと笑んだ。
翡翠がおもむろに立ち上がり、部屋の近くに人がいないことを確かめる。そして部屋の戸を閉め、正座している氷雨を近くに呼び寄せた。
「よし、声を低めて話せ」
「実は――」
人相書きの一件を話すと、翡翠は額に手を置き、大きく息を吐いた。
「それは、色々と面倒な状況だぞ……」
氷雨は、話し続けたせいでからからになった喉を茶で潤しながら、首をかしげる。
「……名前を変えているからですか?」
「いや、それはよくある話だ。問題は、あの『宿主』が京橋家の人間だってことだよ」
「京橋家……」
「『江戸野』の名家の一つさ。あの『宿主』は、あの家の長男坊だ。やせぎすな姿に気を取られていただろうが、良く見りゃ仕立ての良い服を着てる」
さすが、よく見ている。氷雨は、薄暗がりの中で見た彼の姿を思い浮かべた。確かに、暗闇の中で薄光りする着物は、氷雨の着物の質感とは異なっていたような。
彼と桔梗には、どんな関係があるのだろう。
「だが……問題はそれだけじゃない」
翡翠は、酒でも飲むように茶をあおった。爽やかな茶の匂いとは裏腹に、不味いそれを飲んだかのように苦い顔をしている。
「あの家に関係する者で、桔梗という、お前くらいの年の奴はいない」
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