三十二 浮世は夢幻の青に沈みき

 青の中にいた。

 光を受けた布のように青はゆらゆらと揺れ、それにともなって、青の濃度を様々に変える。つなぎ目の無い、「手招き草」の大きな布を思わせる世界。いや、布にしては立体感のようなものがある。青の塊。それは寒天のように柔らかく、体を動かすたびに姿を変える。温かいのか、冷たいのか。青が、肌を染める。

 

 氷雨は、その中にいた。

 自分の影が、遥か下に落ちている。その遠さで、暗さで、青の底知れなさを感じる。すとん、と簡単に落ちて行ってしまいそうな、しかしそれでいて不思議と安心感もあり、ただ、氷雨はそこにいた。青の中に浮かんでいた。


 ……瞬間、空間の青が奪い去られた。

 底の暗さが呪いのように広がり、体を冷たく覆っていく。青はするりと手から逃れ、全ては塗り込められ、しかし上の方にぼんやりと、浩々たる青白き光。……あれは月光だ。水面に差し込む、月の光だ。

 それに手を伸ばした瞬間、背の方から――海の底から、声がした。


「氷雨」


 途端に、喉元からせり上げるような感情が湧いて、叫び出したい気持ちになる。その声はどこまでも優しく、透き通り、切なく、苦しいほどに穏やか。


「雪代……」


 思わず、その声を手繰るように、水をかき抱く。しかしそれは雪代ではなく、しかし確かに声は聞こえているのだった。


「こっちに来てはいけない、氷雨……」

 その声とともに、漆黒の中に、ぼんやりと何かが滲む。黒に近いが黒ではなく、そして青でもない何か。紅葉の色、それに近いけれど、それよりも暗く、それはまるで……。



「血、が」

「来るな」



 はっとした。

 黒御簾の向こうから聞こえた声にそれはよく似ていて、あまりにもよく似ていて、言葉を失う。言葉を……。



「罰を受けるのは、僕だけで良いんだ。だから氷雨、お前だけは……」



――周りの者は、貴方をけがれさせたくなかったのやもしれないけれど?

「橙の試し」、美凪の言葉が、脳裏に閃いた。


「雪代、雪代! 待ってくれよ!」

 叫びも虚しく、声が遠のいていく。自分の声が反響し、それが届いているのかいないのかわからないうちに、消えていく。消えていく。消えていく……。


 ふと、血の臭いがした。

 血の臭いだと確かに頭では思ったのに、それは正確に言えば、そうではなかった。


「雪代!」


 もう、彼の声は聞こえない。黒が遠のいていく。元の青が姿を取り戻し、それはひどくうつくしく、きらきらと輝き、そしてどこか淋しく、揺れる。

 もがいても、もがいても、届かず、そしてついに体の力は抜け、代わりに何かが力強く氷雨の体を水面へと導いていく。それに伴って月光が氷雨の体を包み込み、それに溶け込んでいってしまうような、そんな虚しさと、苦しさが湧く。


 底に向かって手を伸ばすように、氷雨は呟いた。




「お前の血は、涙の匂いがする……」




  氷雨は目を覚ました。

 「……『捕り役』に、行かないと」



 試しの合否は、すぐには出ない。

 年末頃、まとめて掲示されるのだという。だから、それまでは「新月」であり、必然的に「蝶の捕り役」はまだ続ける必要があるのだ。

 時は、試しの数週間後。

 氷雨はいつも通り「宿主座敷」に足を運んでいた。「献上役」の詰所で竹籠を受け取り、翡翠手製の組み分け表を元に、決められた時間までに決められた部屋へと向かう。部屋を整え、「宿主」を迎える準備をする。


「ようこそ、『浮橋屋敷』へいらっしゃいました」

 玄関まで「宿主」を迎えに行った後、思わずはっとした。その姿に見覚えがある。


 細く、折れてしまいそうなほど背の高い青年だった。暗がりでもわかるほど、顔が生白い。氷雨の声にはぼんやりと反応しているようだったが、その瞳は明らかにうつろ。

「……あっ」

思わず呟くと、青年はゆっくりと顔を上げ、氷雨を見つめた。そして、その瞳が軽く見開かれる。



 彼は、氷雨が何度か「蝶の捕り役」を務めている青年だった。



(未だ、黒蝶に苦しんでいるのか……)

 蝶を捕るのは、根本的解決にはならない。深山の言葉が脳裏をよぎる。そうとわかってはいても、彼の暗い表情を見れば自然、遣る瀬なさが胸をつく。

「月下蛍」の提灯を携え、部屋に向かい、襖を閉める。うす暗い部屋の中、「手招き草」の覆う部屋の奥へ案内すると、ふと不思議と彼と視線が交わった。

 いや、彼が氷雨を見ている。


「あの、」

 氷雨はその声の方へと顔を向けた。

「いかがいたしましたか?」

 すう、と引きつれた音。それが青年の深呼吸の音だと気づくと同時に、彼の声が響いた。



桔梗ききょう、という名前の少年を、知りませんか」



 氷雨は、訝しげに首を傾けた。

「桔梗……ですか」

「貴方と、ちょうど同じくらいの、年のはず、なのですが」

 口の中で繰り返してみる。覚えがない。


「私は幾分新人なもので、その者がいることを知らぬだけやもしれませんが、生憎私には聞き覚えがございません」

「やはり、そうですか……」


 青年は嘆息する。

「ここにいるかもしれないと思ったのですが……」

 そのせいで彼の影が濃くなったようで、氷雨は居たたまれなかった。

 そのまま彼はふうっと大きく息をつき、憂いに身を沈めるように目を伏せる。そして、独り言のように小さく呟いた。



「こうやって夢を見続けるのは、罰なのかもしれないな……」



 罰。

 揺蕩うようにして見た夢を思い出す。



――罰を受けるのは、僕だけで良いんだ。だから氷雨、お前だけは……。



 その言葉に応えられず、浮かんでいった体。

 血の匂いとともに、消えてしまった体。



 氷雨は、ぐっと拳を握りしめた。

「あの、おれは、絵を描くのが得意です。もしよければ、人相書きを描きましょうか。それを町中に貼ってみては……?」

 青年が、ゆっくりと、ゆっくりと目を見開いた。そして、かすかに震える唇とともに、くしゃっと柔らかな笑顔に変わった。

「ありがとう。貴方は優しいですね……」

 一瞬、丁稚をいじめていた「宿主」の姿が頭をよぎったが、それを無理矢理追い払い、紙と筆を用意する。青緑の布の隙間を縫うようにして紙を広げ、静かに墨を摺った。その間、「宿主」の青年は目をつむり、桔梗という少年の姿を思い浮かべているようだった。

「それでは、特徴を教えてくださいませ」

「はい……」

 青年は、言葉に迷いながらも口を開く。繊細な綿毛に息を吹きかけるように、慎重に、少年の特徴を並べていく。


「髪は首筋くらいまでの長さで、光の加減でこげ茶色に見えた……。肌は……外に出ていなかったから白かったけれど、外に出るとすぐに日焼けしていたな。ああ、兎のようにくるくると動く目をしていた。嬉しいことがあると、それをきらきらと瞬かせて……」


 多少抽象的なところもある説明ではあったが、なるべく汲み取るようにしながら描いていく。その中で一人、予感のように脳裏をよぎる人影。心臓の音がだんだんと早くなっていくのを感じながら、氷雨は唇を噛み、筆を進めた。どうしても、見覚えのある顔に近づいてしまう、と感じながら。

 冷たい空気が頬を刺す。細かな埃が銀粉のように散る。


 「……ああ、そう、そんな感じだ。もう少し幼いけれど。さすが……とてもお上手です」



 明るみ始めた世界。窓から差し込む空の色は、未だ夢の中にいるかのような、美しくも淋しい青。

 氷雨は思わず口を押さえ、体を起こして紙を見つめる青年から顔をそらした。

 


 紙に描き出された少年の姿。それは、氷雨の馴染とあまりにもよく似ていた。



(連翹……!)


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