三十一~四十

三十一 真水が如き生の岐路に立ちて

 氷雨は、すうと息を吸った。


「もっと……色んなことを、知りたいと思うからです」


「案内役」の「月下紅」――美凪は、柳のように麗しい眉を片方跳ね上げた。

「それはどういうことなのか、詳しく説明してもらっても良いかしら?」

 

 その髪の奥に透ける、柔らかな色の壁。氷雨は胸に手を当てる。そこで打つ早鐘に緊張を感じ取りながらも、ぐっとその手を握りしめた。

 そして、口を開く。布を伝う一針々々のように、不器用でもいいと心の中で呟きながら、言葉を紡ぎ始める。


「おれは……、良くも悪くも、真水まみずのような人間だと思います」


 試験官二人は、訝しげに首を傾けた。


「何も知らない、純粋な水……。石がけがれを濾過し、木の葉を風がさらい、そうやって、おれは今まで、生かされてきたのだと思います。ただ、流されるようにして生きてきたのだと……」


 氷雨の呼気、その音が、薄い光をまとう部屋に大きく響く。

 

「だから、おれは何も知らないんです。おれを助けてくれた人たちは、おれの知らない部分を……知らなかった部分を持っている。隠している。このような秘匿は、彼らの優しさ故かもしれないし、別の理由かもしれないし、それはわからないけれど……」


 握り拳。それをさらに強く、握る。爪が柔らかい皮膚を刺し、それに引きずられるように、氷雨は目を伏せ、唇を噛んだ。

 試験官は、黙って氷雨の言葉に耳を傾けていた。


「でもおれは、この先ながく、澄んだ水でいるのは……苦しいんです。申し訳が立たないとさえ、思います。おれだけが綺麗なままなんて。周りにいた人たちのおかげで、今のおれがあるのに……」


 震える声。それは水面のように空間に広がり、ゆっくりと反響する。氷雨はそれに耳を澄ますように、少し顔を上げた。


「おれは、周りの人たちが隠している部分を、無理に暴きたいわけではないし、それを非難したいわけじゃありません。ただ、おれが本来背負うべきであった部分を、元のように背負いたいと思っています」


 握り拳を緩め、そっと膝の上に置く。背筋を再び伸ばし、静かに、前を見据える。


「そして、それが誰にでもあるということを理解した上で、世話になった人に少しでも寄り添えたらと思うんです」


 美凪は、その視線を一身で受け止めるように、じっと氷雨を見つめていた。その口角は、かすかに上がっているようにも思われた。


「だから、もっと知りたい。おれが大切だと思っている人のことを。いえ、彼らだけではない、もっと色々な人のことを……。それが今のおれにできる、恩返しであり、罪滅ぼしであると思うんです」


 部屋に灯るは、真昼の水面のようにきらめく、澄んだ瞳。氷雨のその瞳は、彼の言葉を裏づけるように、純な美しさを持つ。

 美凪は目を細めながら、穏やかに口を開いた。


「周りの者は、貴方をけがれさせたくなかったのやもしれないけれど?」


 その言葉に、軽く目を伏せる氷雨。しかし、後に再び目線を上げた。繊細な硝子細工をも思わせる睫毛の奥に宿る、どこか危ういほどに力強い光。



「……それでも、おれが知らずにいた苦しみを、周りの人たちが代わりに背負っていたのなら、そのせいで汚れてしまっていたのなら。おれは、己の無垢を捨ててしまいたいと、そう思います」



 その言葉が心の中に染み渡っていくのを感じながら、氷雨はゆっくりと口を閉じた。



 朝方。

 試しを終えた三人は、氷雨の部屋に集っていた。 

「勉強した時間に比べたら、試験の時間はあっという間だったな」

 引鶴がぼやく。天井の木目は変わらず静かに三人を見下ろしている。

「出来はどうだった?」

「まあ、いい方だろうよ。質問に全部ちゃんと答えられたしな。それに、最初は緊張したんだが、だんだん落ち着いた」

「そっか、おれもそんな感じ」

「……」

 当然続くと思っていた連翹の声がない。氷雨は不思議に思い、連翹の方を見やった。

「連翹?」


 見ると、彼は思わしげに目を伏せ、頬をこわばらせている。

 その冷たい頬に温かい光が当たるも、その表情によって冷たいもののように見えた。


「なんだ、容易く通過しそうだと思ってたんだが、思わしくなかったのか?」

 引鶴が連翹の側に寄る。その気配で意識を取り戻したように、連翹ははっとした顔で引鶴を見返した。その表情は厳しい冬の中で凍りついてしまったように厳しく、引鶴は思わずたじろいだ。

「何だよ、どうしたんだよ……」

 瞬間、掠れた声が響いた。



「ごめん、おれは正直、受かるか心もとない」



「そんな、なんでそんなこと言うの」

 氷雨が思わず身を乗り出すと、連翹は寿命の近い蜉蝣かげろうのように弱々しく笑んだ。



「試しの間、頭がうまく回らなくて、何を話したのかさっぱり覚えていないんだ。だから、きちんと回答できたのかも自信がない。こんな自分が恥ずかしい……」



 肩膝を立て、そこにもたせかけた肘。それはどこか危うく、崩れ落ちてしまいそうで……。


 氷雨と引鶴は無言で目くばせすると、笑みを作って畳を軽くたたいた。

「まあお前のことだから、口が覚えていてちゃんと答えられてるだろ。大丈夫だ。心配することなんか何にもねえよ。ほら少し寝ろ寝ろ、隈できてるぞ」

「……こら、痛いよ」

 引鶴が連翹に手を伸ばし、わざと大袈裟にその目元を擦ってみせる。すると、連翹は思わずといったように、ほんの少しだけ笑った。そして、「わかったよ」と言いながら、畳で横になる。

 氷雨が己の匂い袋をさっと差し出すと、連翹は素直にそれを受け取る。まるで恋うるかのような表情でその香を吸い込み、そして、ゆっくりと目を閉じた。


 しばらくの後。

 ふっと緊張の糸が切れたのか、連翹の寝息が響き始めた。


「連翹がこれだけ余裕ないの、初めて見たかもしれない……」

「普段がかっこつけなんだろ。人のこと言えねえけどな」

 そういう引鶴の声は、言葉とは裏腹に真剣だった。


「試しが始まる前から、あいつ、何かおかしかったな。氷雨が先に試しの部屋に行った後、あいつずっと何かを考えこんでたんだよ。俺が声かけてもしばらく気づかないくらい」


 氷雨は首を傾けた。

「試しが始まる前って……翡翠さんに会った時?」

 思い返してみると、あの後辺りから表情が硬かったように思われる。

 引鶴は、同意するように手を打った。

「やっぱそうだよな。でもそんな深刻な話だったか?試しに影響を及ぼすほどの…」

「わからない……」


――……なあ、連翹。お前、どこかで俺と会ったことあるか?


(翡翠さんは記憶力の良い人だ。二人は会ったことがある? でもそうだとしたら、どうして連翹はあれだけ青ざめたんだろう……)



――よくある物語みたく、昔、どこか別の場所で会ってたりしてな。



 障子窓を見やる。そこから差し込む光は柔らかく、眠る連翹を照らす。

 しかしその穏やかさとは対照的に、氷雨の心は、小雨降りしく湖面のようにざわめいていた。

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