二十七 墨薫る部屋にて赤紅葉の美を知る
翌夕、氷雨は翡翠の部屋にいた。
淡い色に染まった障子窓を開けると、甘く懐かしい香がふっと鼻をくすぐる。「月下長屋」でも、比較的「役事所」の染め布工房の近くに部屋があるらしい。窓から視線を内に向けると、翡翠は硯に墨を
氷雨は、すいっと氷雨の傍らに寄った。
「翡翠さん、今は何を?」
「組分け表を作るのさ。『宿主』と『宿主』が廊下でかちあったら、まずい場合があるからね。人数や時間を勘案して、使う部屋と時間を割り振る。頭を使うんだな、これが」
墨を摺り終えると、翡翠は白紙と既に何かが書かれた紙を取り出す。よく見ると、そこには『宿主』の名が記されているらしい。
「『宿主』の情報を覚えているんですか?」
「一日に来る『宿主』の数は、べらぼうに多いわけではないからな。それくらい、一度で覚えられる」
とはいえ、数十人の名前が連なっている。しかし翡翠は、木々の隙間を縫って飛ぶ鳥のような器用さで、「宿主」ごとの部屋割と時間割を決めていく。
「『月下』の名前も、全員覚えてるんですか?」
「当たり前だろう? 氷雨、お前が夏から『蝶の捕り役』に参加したのも覚えてるよ。急に知らん名前が来た、と思ってね。何だったんだ、あれは?」
「……春はずっと、療養していたので……」
紙に書かれた「宿主」と「月下」の名と備考、そして今しがた仕上がっていく組み分け表。それを交互に見ながら、氷雨は翡翠の手つきの鮮やかさにしばし見惚れていた。
「どうしてこれだけ覚えがいいかわかるか?」
「……賢くていらっしゃるからでは?」
「まあそれもあるが、」
筆を動かしながら、翡翠はにやりと笑う。
「ここに来る前、物覚えが良くなけりゃ死ぬ仕事をしていたからだよ」
氷雨は、訝しげに眉をひそめた。
「部屋の間取り、いつなら
「はあ……」
冗談か、それとも
「おっといけない、口が滑ったね。口外したらどうなるか、わかるだろう?」
……す、と風が切れる音がした。
気がつくと、目の前に筆の柄。染みついた墨は黒々と飛び散り、物言わぬまま氷雨を見返す。それが首元に据えられていると悟るまでに、少しばかりの時間を要した。気づいた直後、ごくりと喉が鳴る。
「……お戯れを」
途端に牙を剥く秋の空気。それが産毛を刈るように肌を撫で、そして。
瞬間、噴き出すように翡翠が笑い出した。
「冗談だ、冗談。そんなに俺が
「否定はしません」
「……左様で」
苦笑いとともに、長い髪を結ぶ紐をほどく翡翠。ぱさりと乾いた音を立て、
「まあ、
前髪の向こうに揺らぐ流し目。
「それに、『ここの家の息子は今状況が思わしくないから、悪夢を見ているかもしれない』と予測を立てやすくなる」
「なるほど……」
だから、翡翠はあれだけ町人と親しいのだろう。
「まあ、俺はお前みたいに深入りはしない
「蛍見」で赤紅葉を手にした時のように、翡翠は親指と人差し指の先を重ねて見せた。氷雨は、何とも言えない顔で翡翠を見返す。
「そういうのを頭に入れておけば、格段に組みやすくなる。その点、『案内役』は他の『月下』とは少し立ち位置が違うということになるな。『宿主』一人だけではなく、その関係性に対しても視野を広げていく必要があるからね」
うまく組み上がっているのか、自然に翡翠の口元が上がる。頬が軽く染まり、瞳に流星のような光が走る。滑らかに走っていく筆。
その筆に乗っているのは、決して筆と墨の重さだけではない。
翡翠は、本人が言うように、「人に深入りはしない質」。
そして、かつて氷雨に言ったように、「宿主」を嫌うこともある。
しかし、そうだとしても、彼が今握る筆に乗っているものは、あまりに大きく、重い。
(翡翠さんは、自分の仕事に誇りを持っているんだろうな……)
氷雨と翡翠は、違うものを見ている。
違う色の紅葉を拾った時のように。
氷雨は、その仕事に関わる「者」を。
翡翠は、その仕事「そのもの」を。
あれは、氷雨にとって、最もしっくりとくる色の紅葉だった。
勿論、あれを捨てるわけではない。
ただ、赤紅葉も美しいのだと、気づいたのだ。
「翡翠さん」
ふと氷雨が上げた声に、翡翠は少年のような無邪気さをもって顔を上げた。
「おれは、最終的に、『月下藍』になりたいと思っています。『浮橋様』のことを知りたいと思っているから。でも、その前に……、もっと、周りの人のことを知りたいと、最近、そう思ったんです」
眠り続ける妹がいることを隠しながら、活発で才気ある友として側にいた引鶴。
丁稚にはひどい言動をしつつも、妻子や「月下」には態度を和らげた「宿主」。
嫌味で口が悪く、意地悪な部分がありながらも、賢く町人に慕われている翡翠。
もっと、知りたい。
色々な人のことを。
翡翠はしばらく目を見開いて氷雨を見つめていた。その間、硯の墨が少し乾き、部屋の隅の埃が少し奥に寄った。かすかに残っていた、甘い懐かしい香りが鼻をつき、着物がどこかくすぐったく肌をなぞる。
「だから、おれ、まず、『案内役』の『月下紅』を目指そうと思います。色々な人のことを知って、その上で『浮橋様』に会ったなら、きっと今より、『浮橋様』に……寄り添える気がする。理解できるような、気がするんです」
翡翠はその言葉を噛んで含めるようにして、何度か独り言のように頷いていた。
「そうか、そうか……」
ぐ、と氷雨は己の白い着物の襟を握りしめる。「新月」――新人の印。これから「月下橙」、「月下紅」、そして「月下藍」という道のりを歩んでいくのだろう。
その道が少しずつ、硬くなっていく。雨が降っては固まる道のように。
そしていつか、「浮橋様」――雪代の元に……。
三日月のように美しく口角を上げて、赤い着物の襟を直して。
翡翠は、不敵に、それでいてどこか優しく、笑んだ。
「お前が試しに受かるのを、楽しみに待とうじゃないか」
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