二十六 斑紅葉にぞ人の五色を見ゆる
「あの時の、『宿主』……」
ぽつりと呟いた氷雨の隣で、翡翠は軽く肩をすくめた。
「あの商家の旦那は丁稚の扱いが悪いと評判でな。それで評判や店の売上が下がっているんだが、その理由に気づかない愚か者。だから、『蝶捕り』に救いを求める」
――黒蝶を取り除いても、そいつが産みつけた卵が『宿主』の中に残っていたら、また悪夢は『宿主』を苦しめる。……だが、我々の仕事は『黒蝶を取り除くこと』であって『卵』を取り除くことではないし、それは我々にはできないのさ。
いつか、深山が言っていたことを、氷雨は思い出す。
「蝶の捕り役」はあくまでその場しのぎの対処しかできない。その言葉は理解していたつもりだったのに。
「申し訳ございません」
丁稚の、悲鳴に似た声が響く。氷雨は、ぐっと唇を噛んだ。
「あなた、そんなに怒らないで。人に聞かれたらどうするの」
ふと、商家の中から別の声が響いた。ちらりと視線をやると、主人の隣に立ち、その腕を取る女性。その足元にすがりつく子ども。
その姿を見た途端、主人の声色と雰囲気が一気に変わった。
「ああ、ごめんよ。見苦しいところを見せたね。新之丞も。ほらほらおいで、茶でも飲もう」
蜜を混ぜたように甘く優しい声で妻子の肩を叩くと、主人は店の奥を目で示した。二人は心配そうな顔で主人を見つめるも、その視線に従うように奥の方へと向かった。
「ささ、行こう、人目につかないうちに。ほら、お前はさっさと茶を用意しろ」
「……承知しました」
声色を使い分けながら、主人は妻の手を取った。薄暗い室内にぼんわりと響くその声は、やがてすり潰されるように消える。
……完全に消えた瞬間、氷雨は息をついた。
いつの間にか体に入っていた力が、ゆっくりと抜けていくのを感じていた。
隣の翡翠が目を細め、その隙間から氷雨を見やる。その視線を感じながらも、あえてそれに目を合わせない。
「あの丁稚は」
「俺の紹介で、もうじき『浮橋屋敷』に来る手筈になってる。……だからひどくいじめられてるんだろうが、時間の問題だ」
「……そうですか」
「さあ、行くぞ。あいつは、自分が虐められているさまを見られるのを嫌がる。あの主人より、よっぽど誇り高い」
氷雨はゆっくりと商家から離れた。草履の裏で石ころが擦れる。乾いた風が吹く。からからと石を転がしていく。
長屋が並ぶ道の外れ、紅葉の木が一本立つ場所まで歩き、氷雨は足を止めた。淡い橙色の木漏れ日は、地面の代わりに一転二人の体に落ち、この世から誰もいなくなったような淋しさをもって揺らめく。
氷雨は、ひとつ息を吸う。翡翠は故意か、瞳を髪の奥に隠していた。
「……あの男のことが、嫌いになったか?」
翡翠が、低い声で問う。
氷雨は少し瞳を揺らしてから、やがて首を横に振った。
「わからなくなりました。あの人は確かに、丁稚にひどいことをしていました。それなのに、奥さんや子どもには優しくしていたから」
黒く長い髪が揺らぐ。翡翠が肩をすくめた証だった。
「そりゃそうだろ、ああいう人間は身内や自分に利益のある奴には、優しくするもんだ」
紅葉が落ちる。それはひとひらの雪のように氷雨の肩に触れ、やがて彼の手元まで落ちる。
「たぶんあの丁稚だったら……あの人を恨めしいと思うのだろうし、あの人の子どもであれば、立派な親と思うのでしょう。たとえ同じ人に対してであっても、抱かれる感情は、全く違う……」
氷雨は、その一葉を手に取った。
それにつられるようにして、翡翠も顔を上げる。そして、その頭上に降った一葉を、静かに手にした。
「人には……色々な面があるのだと、思います。おれに向けて『ありがとう』と言ったことも、あの丁稚に対してしていたひどいことも、全てが本当のことなのだと……」
手にした紅葉をじっと見つめる。
氷雨の手元には、赤や橙、黄、緑、茶などが複雑に混じり合った、
一方の翡翠の手元には、一目でその色を断じられるほど鮮やかな、赤紅葉。
「だから、わからないんです。とても、難しいことだと、思います」
風が吹く。紅葉が舞う。
――氷雨。
脳裏をよぎる、懐かしい声。その響きに胸がつかえるような気持ちがしながら、氷雨は思う。
雪代にも、おれの知らない一面があるのだろうか?
翡翠は、しばらく黙って赤紅葉を見つめていた。その間に幾度も風が吹き、紅葉の木が揺れた。
「……悪かったな」
すっと顔を上げた翡翠の顔は存外真剣で、氷雨は思わず目を見張った。
「な、何がですか」
「氷雨、お前を試すような真似をしたことだよ。この前のといい、今日といい」
ふっ、と白く細い翡翠の手に宿る赤紅葉。
「俺の方が嫌な奴だったろう」
ぶわ、と強い風が吹いて、翡翠の髪をあおる。その風は、彼の今しがたの言葉を震わせ、そして遥か彼方へと遠ざかっていく。
「否定はしません」
翡翠にちらりと視線を向けて、氷雨は軽く嘆息した。
「貴方の一面しか、見ていなかったので」
翡翠は町の人々から随分と慕われているようだった。それはきっと、彼が良くも悪くも、人をよく見ているからなのだろうと、氷雨は思う。よく見ているから人に気に入られ、人の嫌な部分にすぐ気づいてしまう。
氷雨は目を細め、紅葉の木漏れ日を受ける翡翠に目を向ける。翡翠はその姿を見て、どこか切なそうに目を細めた。
「氷雨、お前は純粋で、優しく、それ故に脆く、強い……」
あくる日。
茶が温かな湯気を立てる厨房の一角。深山は、向かいの氷雨とその隣に座る翡翠に視線を向けた。
「で、本題だが、翡翠お前、氷雨にまたちょっかいかけてるのか?」
「いや……」
「あっ、そうではなくて、おれが頼んだんだ。『案内役』の仕事を見せてくれって」
衣が擦れる音。翡翠が軽く身じろぎした音らしい。
「氷雨には謝ったよ」
「翡翠、お前が謝るなんて……珍しいな」
怪訝そうな顔をする深山の前で、翡翠は随分としおらしい。「きつく言っておく」と以前深山が言っていたが、随分と絞られたのだろうか。
「まあともあれ、和解したなら良かったよ」
深山が身を乗り出し、ばんばんと翡翠の肩と叩く。それに対し、「うるさいな」と低い声で呟きつつも、されるがままの翡翠。
(この人のことだから、嫌味の一つでも言いそうなのに……)
そう思いながら翡翠を覗き込んだ瞬間、氷雨は驚いたような困ったような変な顔になった。
「どうした、氷雨?」
「あ、いや、深山、えと、何でもない」
じろり、と俯いたまま氷雨を睨みつける翡翠。
その頬は、初々しくも赤紅葉のごとく染まっていた。
(これも、人の色々な面……なんだろうか?)
意外やら、微笑ましいやら。
氷雨は苦笑いしながら、ただひたすら固まる翡翠の横顔を見守っていた。
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