二十五 紅葉落つる頃、蛍見へ行けり
菓子を口に含む。それにつられるように、「役事所」のそばに生える紅葉の木から一葉、はらはらと落ちた。「月下紅」を思わせる色。世界は、その色に染められたような夕暮れ。
それが厨房の窓辺に落ちるから、氷雨が手に取ってぼんやりと眺める。すると、その中に、紅葉よりかすかに薄い色の着物が混じっていることに気づく。
(「月下紅」だ)
かがんでいるから、紅葉拾いでもしているのだろうか。そう考えながら氷雨がしばらく目をやっていると、その人影はくるりとこちらに向いた。瞬間、食べかけの菓子が喉に詰まり、焦がし醤油の香が混じった咳が零れる。
「ひ、翡翠さん」
「……何してんだよ」
着物についた葉を払いながら、かがんでいた「月下紅」――翡翠は、軽く眉をしかめながら、気まずそうに前髪を手で
「夕餉です。翡翠さんこそ、何してるんですか」
雲の隙間からこぼれた日の光が、翡翠の着物を透かして煌めく。頭上を彩る五葉も、それに伴って赤を明るく見せた。
「まあ……『案内役』の仕事の一つみたいなものだ。夢を喰わせるための代金を支払った証として、季節の葉を『宿主』に渡してるのさ」
「へえ……」
秋は紅葉、ということらしい。
氷雨は空咳をしながら茶を飲み干すと、少し首を傾けながら再び翡翠に声をかけた。
「拾った紅葉、見せてください」
「何だよ。言っておくが別に面白くもなんともないものだ」
怪訝そうな顔をしながら、一仕事終えた老人のように翡翠は立ち上がる。そして、すたすたと厨房の方まで歩くと、身を乗り出した氷雨に向かって籠を突き出した。
「ほれ」
籠の中を見る。そして一枚を手に取って、思わず目を見張った。
「……綺麗だ」
「まあ、仕事は仕事だからな」
欠けていたり、色がくすんだ紅葉は一葉も存在しない。形や色の良いものだけが、丁寧に選り分けられている。
鮮烈な色の詰まった籠に目をやりながら、氷雨はしばらく考えにふけっていた。
風が吹く。紅葉が音を立てる。
氷雨は、ゆっくりと顔を上げた。
「もし時間があれば、『案内役』の仕事について、教えてくれませんか?」
数刻後、氷雨は門の前にいた。
「さて、これから『
手に風呂敷包みを持った翡翠が門を開くと、目の前には「
氷雨は目を細め、眉の近くに手を添えて日差しを遮った。
「何をしに?」
指先を奥から手前に動かし、翡翠は不敵に口角を曲げる。
「『宿主』を招くのさ」
「要するに、客寄せですか」
竜のように美しく輝く川を渡す橋を越えると、「蛍見」の名を冠する町に辿り着く。威勢良く笑いながら話をしている商人、忙しく走っていく丁稚、茶屋で世間話をする看板娘、夕方ながらも、町人の活気が塊のように氷雨に押し寄せ、彼の肌はそれにつられてびりびりと震えた。
「ま、そうだ。ほれ、これ持ってろ」
風呂敷包みをするりとほどいた翡翠は、その中から紙の束を取り出した。そして、半分を氷雨に放る。
「これにはこつがあってな。紙は、息災そうな奴に配る。今は悪夢に苦しんでいなそうな奴だ。いつか困った時に思い出してもらうわけさ」
喋りながらも器用に紙を捌いていく翡翠。
「おお、翡翠くんじゃないか」
「どうも、商売はどうだい?」
「順調だよ。最近は豊漁でな」
「そりゃ何より」
すらりと整った目鼻立ちの彼は目を惹くのか、紙をぞんざいに渡されても、町人はどこか嬉しそうに紙を受け取っていた。むしろ、彼らは親しげに翡翠へ話しかけたり、肩を叩いたりといった様子を見せている。
「そんでもって……」
翡翠は、人波を器用に縫いながら、ちらりと氷雨に視線を向けた。
「今にも困っていそうな奴には、直に話しかける」
向かいの道にある茶屋で、ぼうっとしながら団子を食っている男。青髭が生え、目はどこか別の場所を見ているかのように黒い。時折嘆息をつき、誰かを追い求めるように、きときとと視線を動かしている。
翡翠は口角を麗しく上げると、着物の襟を直して男の前に立った。
「ああ……『浮橋様』のところの……」
男は一瞬落胆した顔を見せたものの、すぐにその瞳に光が入る。
「ええ、『月下』にございます。貴方、黒き蝶に悩んでおいでで?」
「そう、そう、よくわかったなあ……」
「『浮橋様』はいつでも貴方をお待ちしております
「そうか……」
うわごとのように呟く男。その手に紙をそっと握らせて、翡翠はその名にふさわしく、美しく澄んだ笑みを見せた。
瞳は太陽の光を透かし、髪は天女の衣のように柔らかく揺れる。
「人の悪夢は黒き蝶。貴方の蝶、『浮橋屋敷』で取り除いて差し上げます」
紙に書かれていた宣伝文句をさらりと読み上げて、翡翠は男に軽く手を振った。
それをぼうっと見つめていた氷雨は、途端に慌ててその後を追う。猫背になって紙と向き合う男の姿が、ちらりと見えた。
「鮮やかな手管で……」
水の流れのように無駄のないその姿に、思わず漏れた氷雨の独り言。それに軽く鼻を鳴らしつつ、翡翠はすっと氷雨の耳元に口を寄せた。
「あの男、女がらみの悪夢だな」
「え?」
思わず顔を向けた氷雨に、翡翠はにやりと笑んでみせた。
「目つきでだいたいはわかるものさ。それに、俺が去る時、紙を見つめながら、女の名を呟いていた」
「……」
氷雨は自分の目に触れた。この目は節穴なのだろうか。
それをちらりと見て、翡翠がひょっと肩をすくめる。
「俺の頭と勘が良いだけさ」
「おれの思考を読まないでください……」
そしてしばらく町を練り歩く中で、ふと翡翠は足を止めた。
「この
氷雨は首を傾げながら、がらんと広い商家の中に目を凝らした。
「この野郎、店に客が来ないのはお前のせいだからな」
「申し訳ございません、申し訳ございません……」
奥の方に、主人と思しき男と、細い体の
さらによく見ると、その主人には、どこか見覚えがある。あの豪奢な着物、大きな腹、豊かな口髭。
「もう出ていけ、疫病神め」
主人は手を大きく宙にかざし、次の瞬間、丁稚を勢いよく叩いた。
その音とともに、氷雨の中の記憶が、答えを手繰り寄せる。はっきりとした、答えを。
――ありがとう……。
「あの時の、『宿主』……」
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