二十四 夾竹桃が枝の燃ゆる朝よ



「随分と他人に肩入れをするようだ、氷雨とやらは」



 門扉が閉じるとともに響いた声に、氷雨は思わず振り返った。

「どうして、おれの名前を……」

 明星とともに降り注いだその声の主は、その身を紅色の着物で覆っている。その鮮烈な色がありながらも、影のような不思議な雰囲気を併せ持っていた。


 そこに確かにいるのに、声をかけられなければ気づかないような。音も立てずに地面に落ちる柳の葉のような存在。しかし存在感が薄いというわけではな、先の尖った葉のような鋭さや迫力も持ち合わせている。


「どなたでしょうか」

 そう問うた氷雨の声は、かすかに掠れていた。

 すらりと伸びた背。肩まである髪を乱雑に結んだその男は、獲物を見つけた鷹のように妖しく笑む。その笑みを助長するような冷たい風が、不敵に吹きすさぶ。



「ああ、名乗っていなかったな。俺は『翡翠ひすい』。『受付役』だ」



「受付役」。

 黒蝶を抱えた「宿主」の応対をし、実際に「黒蝶」を取り除く「蝶の捕り役」へと引き継ぐ役。

「先程の宿主の方は、あなたが?」

「……あの中年野郎のことか?」


 翡翠と名乗った男は、閉まった扉の方にちらりと視線を向けた。そして、袖の中に手をしまいながら氷雨に視線を向ける。


「そう、さっきの『宿主』の応対をしたのは、俺だよ。汚い金をたんまり持っていそうな、嫌味な腹の男だったろう?」


 氷雨は翡翠を上目に見る。

「月下紅」の男は、実に淡々と言い放った。書物を読み上げるようによどみなく、ぼうっと聞いていれば思わず同意してしまいそうなほど自然だった。

 しかし毒は確かに毒で、ゆっくりと氷雨の体の中を回っていく。


「……翡翠という、澄んだ名前らしからぬお言葉で」

「どうせあの『宿主』とは一夜の付き合いだろうに、随分とお優しいことだな」


 こわばった表情のまま氷雨が放った皮肉を適当にかわして、翡翠は斜めに氷雨を見やる。結びきれなかった髪が、艶っぽく頬をなぞっている。氷雨はそれを眉をひそめたまま見つめていた。ぴりぴりと指先が震える。それは明け方の寒さのせいか否か。

 明星はだんだんと空を昇っていく。それに伴い、空は染め布の工程を巻き戻していくように、静かに白み始めていた。静かな世界の中で、氷雨はゆっくりと息を吸い込む。


「ありがとな」という、引鶴の言葉が蘇る。

「ありがとう」という、「宿主」の言葉が蘇る。


 そして、氷雨の脳裏に走る、そばかすが混じった頬の少年の笑み。

 礼も言えないままに去ってしまった、少年の笑み。


――氷雨、心配しないで。僕はすぐに戻るから。



 どうして、いつも礼を言わずにいたのだろう。

 大切な人が永遠にそばにいることなど、あり得ないのに。



「おれはここに来てから、誰かからありがたいことをしてもらった時には、いつも礼を言うように努めています。言わないと、悔いを残してしまうから。だから、礼を言われるのは嬉しいことです」



 ざあ、と風が吹く。それが血色の紅葉を一枚、落としていった。



「たとえあの『宿主』が、あなたの言うような人であったとしても、礼を言ってくれた人の悪口を言うあなたに、おれは礼を言おうとは思えません」


 

 身を貫くようなしびれが背中を走り、氷雨は思わず唇を噛みしめた。そのしびれが全身に広がっては熱と化し、蛇のようにうねる。それを抑え込めるように、肌の産毛が逆立つ。


「……へえ」

 翡翠と名乗った男は、落ち場を足裏で踏みつけながら口元を歪めた。そして、まじまじと氷雨を見やる。



「怒っているのか」



 手の平を見つめた。熱が指の端まで伝わり、ぐらぐらと煮立つ鍋のような震えが広がっている。すうっと一筋の氷のように、翡翠の言葉が喉を落ち、それを飲み込み、そして氷雨は、ゆっくりとその手を握りしめた。



 おれは、怒っているのか。



「怒っている」

 噛んで含めるように、呟く。どうしてこれだけ怒っているのか、自分でもうまく掴めない。先ほど落ちていった紅葉のように、それは追うたびに手をすり抜け、実感だけを残す。

「怒っている……」

 今しがたの呟きは炎をかき消す冷たい雨のように響き、その色を多分に含んだ氷雨の瞳が、翡翠の瞳を貫く。



 すっかり褪せた藍色の代わりに空を覆うのは、太陽を待ち受ける蜜色。

 その中に据えられた氷雨の体は、不気味なほどに細く、冷たく、鋭い。



(夾竹桃きょうちくとうの枝のような男だな……)



 翡翠は思う。

 夾竹桃は淡い桃色の美しい花を咲かせる。

 その側に控える枝は地味な色で楚々として見えるが、じつは毒を含み、燃やすと毒の煙を発するのだと言う。



(不用意に燃やしてしまったか)



 紅色の着物の袂で口元を軽く拭うと、翡翠は髪を乱暴に掻き回し、肩をすくめた。

(温厚な奴だと言ったじゃないか、深山……)



「……金持ちを、俺が嫌っているだけだ」

「え?」

 ひらひらと手を振る翡翠。そしてふいに踵を返すと、彼はそのまますたすたと歩いていってしまった。門扉の前に取り残される氷雨。その瞳からは既に毒気は抜かれ、凪いだ水面のようないつものそれに戻っている。

「何だったんだ……」

 氷雨はしばらく、その場で白い着物を黄金色こがねいろに染めていた。しかし、頭に上った疑問が、彼の意識を引き戻す。


「そういえば、何でおれの名前を知っていたんだろう?」



「遅い」

「ごめんなさい……」

「宿主座敷」の一部屋に戻った途端、正座の深山が憤然と構えていた。開けるとともに膝をつく氷雨。

「連翹か引鶴と話していたのか?」

 氷雨は少し迷うように唇の合わせをずらしながら、ゆっくりと口を開いた。

「『受付役』の『月下紅』……につかまっていた」

「翡翠か?」

 あっさりとその名を口にした深山の姿に、氷雨は思わず、魚のように目を大きく見開く。

「どうして、その名を」

 すると、深山は形の良い眉を軽くハの字にした。


「あいつは、私の同期でな。性格は……まあ、素直という言葉を知らぬ、かなりひねくれた奴だが……、すこぶる頭の出来が良くてな。あっさり『月下紅』になった」


 人を見透かすような、射干玉の黒を灯す瞳。

 人のつつかれたくない部分を鋭く刺すような物言い。


「だから、あの人はおれの名前を知っていたんだ……」

「おそらく、さりげない会話の中で、お前の名前を出したくらいだったんだが、あいつは随分と物覚えが良いからな……。詰まる所、お前が今日つかまったのは、私のせいかもしれないな。大丈夫だったか?」

 氷雨の返答代わりの沈黙に、苦笑いする深山。その頭上で、青緑色の布が静かに揺れていた。

「まあ、今度会ったらきつく言っておくよ。とりあえず、部屋の片づけをしよう」

「ありがとう。それと、深山のせいじゃないよ」

「お前はいつも優しいな」

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