二十三 ひとり黒蝶を捕りて明星を見ゆ


 闇のうちに 和幣にきてをかけし 神あそび 明星あかほしよりや 明けそめにけむ(久安百首)


 一人、渡り廊下にいる。

「月下長屋」ではない。「宿主座敷」の渡り廊下だ。すぐ近くにある戸の向こうには、青緑色の布が滝川のように垂れ下がり、静かに儀式の始まりを待つ部屋。「月下蛍」がぼんやりと瞬き、氷雨の白い着物を照らす部屋。

 手提灯を取る。床に反射する光は水面のように淋しい。氷雨は、ゆっくりと立ち上がり、「宿主」を迎えに出た。


 その少し前、室内に正座をして控える深山が言った。

「前にも言ったと思うが、お前は一人で『蝶の捕り役』をこなせるようになる必要がある」

 氷雨はこくりと頷く。「橙の試し」を受けるための条件だ。

「私はこの先この部屋に控え、お前が正しく『蝶の捕り役』を務められているか確かめる。万が一があったら対応できるようにな。ただ、万が一でない限りは、何もしないし言わない。わかったな」

「わかった」

 そういうわけで、氷雨は今一人で廊下に立っているのである。


「宿主座敷」の東階段から一階に降り、「宿主」を迎えに上がる。「受付役」が緻密に組み上げた時間割により、「宿主」同士が鉢合わせしないように設定されているから、座敷の入り口にいるのは一人だけだった。その姿が、「月下蛍」の光だけに支配された世界に、ぼんやりと浮かび上がる。

「ようこそいらっしゃいました」

 乾いた冷たい空気が肺を満たし、声となって消えていく。それを感じながら、氷雨は一礼した。

「……よろしく、お願いいたします」

「はい。さ、こちらに」

 そう言うと、「宿主」は氷雨に従い、階段を上り始めた。ぎい、ぎい、という重い音が響き、思わず唾を飲む。


 青緑と黒の支配する部屋へと続く渡り廊下へたどり着くと、その先を先導するように、黙って進む。船頭の灯りのように揺らめく「月下蛍」。

「こちらの部屋になります」

 提灯を持っていない方の手でゆっくりと戸を開く。すると部屋にこもっていた、甘く懐かしい香が、優しく抱くようにして氷雨と「宿主」を包んだ。

 黒蝶を引き寄せる香。

 室内には、黙って正座をした深山が控えている。その姿は闇の中に沈んでいるが、凛とした背中は、氷雨をぴりりと緊張させた。


 部屋に入るに伴って、「宿主」が顔を覆っていた黒い布を取り去った。中年の男性。豪奢な着物を身にまとってはいるが、覇気がないせいで、妙に浮いて見える。その衣が、たっぷり膨らんだ腹を覆っている。髭を豊かに蓄えてはいるが、手入れをしていないせいか、弱々しく見えた。そんな「宿主」は、無言のまま青白い顔でちらりと氷雨を見る。

「いかがいたしましたか?」

「……いや……」

 薄暗い部屋の中には、「手招き草」の染め色と香りが染み込んだ青緑色の布が、幾重にも垂れ下がっている。その下には、障子紙と竹ひごで作った、小さなかまくら型の灯りが置かれている。灯りの中にいる青白い「月下蛍」が、を導いていた。

「お茶でございます」

 茶碗を差し出す。特別な香草とまじない粉を調合した薬膳茶だった。「宿主」は畳の上に腰かけて、それをゆっくりと飲む。湯気がほんのりと広がり、部屋をかすかに潤した。かちゃ、と陶器が擦れる音が響いたのを合図に、氷雨は畳の上を手で示す。

「こちら、灯りの近くにお体を横たえてください」

 しゃらり、と衣擦れの音が響いた。仕立ての良い絹布が、恰幅の良い体を覆っている。

「目を閉じて……」

 自らの居場所を見つけたようにして横たわった「宿主」は、それに従って目を閉じる。しばらく彼は寝返りを打っていたが、ここにやって来てから半刻はんときが経った頃、ふと、「宿主」の口が動いた。


「ありがとう……」 


 そしてその直後、すうっと眠りに落ちていく音が聞こえた。


(なぜ、おれに礼を言うのだろう)


「浮橋様」に言ったのだろうか。しかしそれを問い返す間もなく、彼は言葉を閉ざす。彷徨う言葉は黒蝶とともに「浮橋様」に託せばよいのか、それとも自分が受け取ればいいのか。そんなことを考えてかすかに手が震えつつ、それでも「宿主」から視線を外さない。


 布が揺れる。「月下蛍」の灯りがちらつく。

 氷雨は、長方形の竹籠、その一側面に据えられた扉を手前に引いた。ごくり、と唾を飲む。部屋中に広がる甘い香り。眠り続ける「宿主」。


 ……その眉が大きく歪み、瞬間、「月下蛍」の光が消えた。


 訪れた暗闇と引き換えに、突然ぱっと「宿主」の額辺りが明るくなった。そしてそこから、黒い硝子片のようなものが二つ、姿を現す。濃い赤紫色の光を振りまくそれは、浮かび上がる泡のように、少しずつ姿をあらわにしていく。氷雨は、竹籠を構えながら一歩前に進み出た。


 そして額から現れる、一羽の大きな黒蝶。


 世界に全身を現した瞬間、蝶は大きく羽ばたき、宙に体を躍らせた。夜闇を舞う踊り子の衣のように繊細な羽。氷雨は素早くその軌跡を追う。そして、垂れ下がった布の端あたりに竹籠の入り口をかかげると、蝶は魅了されるように竹籠の中に飛び込んでいった。

 

 籠の扉を閉じる。一息つくと、再び「月下蛍」が光を放ち、部屋には平穏が訪れる。続けて、その光の中で深山が頷くのが見えた。


 竹籠の中の黒蝶は、静かに羽を休めている。それに従うように、青緑色の布もなりを潜め、暗闇に同化する。

「氷雨、よくやった。上出来だよ」

「ありがとう」

「後は、『宿主』をお見送りするだけだ」

 深山の声に頷き、「宿主」が目覚めるのを待つ。夜が明ける頃まで。


――ありがとう……。


 独り言のように響いた声を幾度も反芻し、それをゆっくりと溶かしていると、やがて「宿主」が身じろぎをする。そしてゆっくりと目を覚ますと、呆然とした顔で軽く目礼をした。

「黒蝶は解き放たれました」

「……良かった……良かった……」

 氷雨の声に「宿主」は両手で顔を覆い、しばらく震えた声でそう呟いていた。その声を、「月下蛍」の光が照らしていた。氷雨はそっと彼の背中に手を回し、立つのを手助けする。

「本日はこれにて終いです」

 戸を開け、渡り廊下を進む。入ってきた時より明るく見える板目に沿って歩いていくと、やがては「宿主座敷」の玄関に辿り着く。

「ありがとうございます……ありがとうございます……」

 そう低く呟き続ける「宿主」をそっと座敷の外に案内すると、染め始めた藍布のような色へと姿を変えた空が、彼を照らし出す。つんと鼻先を突く冷たさと、雲一つない夜明け前。


 そして「月下蛍」のように煌々と輝く、明けの明星みょうじょう


「明星が足元を照らすしるべとなることでしょう。お気をつけてお帰りください」

「はい……ありがとうございました」

「浮橋屋敷」の門前で、氷雨はゆっくりと頭を下げた。その衣擦れに、屋敷内に響き始めた音が重なる。朝餉の準備が始まっているのだろう。


 厨房から香る醤油の匂い。

 詰所へ「黒蝶」の竹籠を運ぶ音。


 氷雨が部屋に戻ろうとすると、ふと後ろで人の声がした。低く掠れた笛のような、それでいてどこか冷たさのある声。



「随分と他人に肩入れをするようだ。氷雨とやらは」



 思わず振り返る。そこには、夜闇に咲く花のように美しい、紅色の着物があった。その色を瞳に染み込ませながら、思わず氷雨は呟く。



「どうして、おれの名前を……」


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