二十二 白き鳥、月夜を飛びける事
見る人に 物のあはれを しらすれば 月やこの世の 鏡なるらむ(風雅608)
「匂い袋だけではなくて、食べ物も送った方がいいかもしれない」
「妹さんが食べるものはどうしているんだい?」
「世話になってる寺の住職が、面倒を見てくれてんだよ」
「そうなのか、じゃあやっぱり食べ物は必要だね。滋養のつくもの。粥は喉に詰まるかもしれないから……湯に溶かして飲むとか……」
三人は、あらかた「植生倉」の掃除を終え、厨房の一角で食事を取っていた。それでも、会話の内容は倉の中と大して変わらない。違いは、手にあるのが薬草ではなく、つやのある米が目を引くおにぎりだということ。
「このおにぎり、おいしい」
「見てごらんよ、中に味噌が入ってる」
朝餉をろくに食べていない引鶴の腹がぐうと鳴る。恐る恐る口に運ぶと、ふわりと米の優しい甘さが舌をなぞった。
「……うん、うまい」
伊那に食べさせてやりたい、と思う。だから「月下藍」になり、「浮橋様」に近づく。一粒一粒、噛みしめるようにおにぎりを味わうと、引鶴はゆっくりとそれを飲み込んだ。
「この味噌も送れたらいいけど……駄目になるかな」
「味噌に混ぜ込んであるものを、山辻さんに聞いてみるかい?」
「何だ、少しぴりっとするから、『さんざく』でも入ってんのかな」
「『さんざく』か……。引鶴、確か、血の流れを良くする効果があったよね?」
氷雨はちらりと引鶴を見る。食べ物を取ったからか、顔色が良くなってきているらしい。胸のつかえが少し和らぐような心地を覚えながら、引鶴の茶碗に茶を注ぐ。
「氷雨も連翹も、着々と草木の名を覚えてきてるな」
「まあね」
「ぼくは、ある程度覚えてはいたけどね」
「はいはい、薫の君」
温かい茶の湯気と香が充満する中、三人はしばらく鳩首凝議を繰り広げていた。
そうして数日間、引鶴の郷里への送り物を考えた末。
三人はある日、示し合わせて集合した。
部屋の外に出るとまず目に入るのは、墨をとっぷりと含んだ夜空。そこにぽっかりと澄んだ月が浮かび、開きたての花のように新鮮な乳白色を、世界に零していた。月の文様さえも、はっきりと見える。冴え渡った風が、氷雨たちの着物を揺らしていく。それが筆を走らせるように幾重にも拭くから、白い着物はすっかり夜の色を取り込んでいる。
「捕り役」の前に集まった場所は、「献上役」の詰所の隣の建物。そこには、「月下藍」が務める「飛脚役」の詰所があった。
「飛脚役」は特殊な職である。
「月下藍」という「浮橋橋」に仕える職であるにもかかわらず、主に「月下」に関連する業務を行う。具体的には、「月下」の郵便物をやり取りする役を担っている。
しかし、彼らが「月下藍」を名乗る正当な理由は存在するのだ。
「荷物を」
「はい」
引鶴は、食器として用いられることもある「きふ」の大きな葉で覆った包みを、「飛脚役」に手渡した。
その中身は四つ。
一つ、妹のための匂い袋。おおむね、氷雨にあげた匂い袋と同じ薬草が入っている。ただ、それに加えて「
一つ、布に包まれた薬草。滋養のある薬草を乾かしたものが、中に入っている。これを煮出した汁を少しずつ摂ることで、栄養の不足を防ぐ。
一つ、栄養があり保存がきく食べ物。干した魚や野菜、豆腐などを詰めた。
「飛脚役」が包みを受け取る。そして藍色の懐から、白い手の平ほどの大きさの紙を取り出すと、その脚に包みを結わえつけた。
「あ、この鳥……」
思わず、氷雨が呟く。白い紙でかたどられた鳥。
それは、「浮橋屋敷」で見た紙の鳥と、よく似ていた。
「飛脚役」はちらりと氷雨を見ると、微妙に首を傾ける。
「厳密に言うと、少し違う。この鳥は確かに『浮橋様』の式神だが、目的が違ってな。この鳥は、飛脚を担う。『浮橋様』の力で、お前たちの荷物を届けてくれるんだ」
「へえ……」
「飛脚役」が、鳥から手を離す。簡単に破れてしまいそうななりをしている鳥だったが、案外力強く、その脚で包みを優に支えながら宙に浮かんでいた。
「『浮橋様』の力で、あれが郷里に届くのか……」
ふと、流れ星のように夜闇に響く、引鶴の低い声。氷雨と連翹が顔を向けると、彼は髪をぐしゃぐしゃと撫で回しながら、白い鳥を見つめていた。
「飛脚役」に託した中身は四つ。
最後の一つ、それは、引鶴の文だった。
その末尾、荷物に関する説明の後に付け加えた一言。氷雨と連翹には、意地でも見せなかった一文。
『おどろきし時に言ひたきことまさりはべりき。いとまめやかなる友のことなり』
伊那が目覚めた時に、話したいことが増えました。たいそう誠実な、真面目な友のことです。
「あ、飛んでいくよ、引鶴」
今は包みの中に隠されたそれも、月の光を等しく浴びる。清らかな質感に満ちた世界に、紙の鳥が舞い上がっていく。その輪郭が白く輝き、夜闇の中にその姿をはっきりと現した。
「雨風は心配ない。『浮橋様』の紙鳥は、その力によって、護られているからな」
月の影に隠れた鳥は、今度は影となって四人を見下ろす。「飛脚役」が、鳥に向かって手を振った。
「綺麗だ」
「うん、しかもとても力強いよ」
その白い脚に結わえられた荷物は、やがて点の大きさとなる。そしてついに、鳥は気流を捕まえたかのように、すうっと遥か頭上を飛んでいった。
「包みが届かなかったことは、ほとんどない。安心しろ」
「そうか……良かった……」
氷雨は、引鶴の背中をぽんと叩いた。連翹も、同じように背中を叩く。
その動きで、思わず溢れてしまったように……ふと、引鶴の頬が光った。そしてそれは、細い滝のように頬を伝い、そして地面に落ちていく。
満月のように、鏡のように輝く一雫。
それ以上は耐えて、一筋だけで抑えて、後は笑い泣きをする時のために取っておく。その代わりに、引鶴は懐に手を伸ばすと、そこからするりと匂い袋を取り出した。
「……今日は、良い夢を見られるといいね」
「お前もだよ、氷雨」
氷雨も、そして連翹も、懐から匂い袋を出す。三人、同じ香木を入れて作った匂い袋だった。それを空にかざすと、布が夜を含み、鮮明な藍色に染め上がる。
「ありがとな、二人とも」
それぞれの手元で、匂い袋がしゃらりと揺れた。
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