二十一~三十
二十一 藍に染む折に逢はんとぞ思ふ
気がつくと、板張りの床の上に立っている。
油断していると飲み込まれてしまいそうなほど、辺りは静かだった。窓の隙間から零れる日光は不気味なほどに美しく、それによって生まれる影は筆で塗りつぶしたように黒い。漆喰の壁が、迫るようにそそり立つ。ここはお堂の中。
その中で、少女が一人、眠っている。
黒い髪が影によっていっそう暗く沈み、頬はぞっとするほど青白い。唇はしおれた花のような紫で、体はその枝のように細い。
「……伊那」
引鶴は、ぽつりとその少女の名を――妹の名を呼んだ。
「なあ、伊那、目を覚ましてくれよ、頼むよ……」
横たわるその身のそばに座り込み、細い細い手を掴む。包み込むようにして、手の平の熱を伝えるようにして。
すると、彼女の瞳が薄く開く。は、と息を飲む音。
「お前……」
そして、漆黒の瞳が瞬間、引鶴を貫いた。
「どうしてあたしを目覚めさせてくれないの?」
乾いた唇をかすかに動かし、伊那は引鶴の手を掴み返した。その手の力は、先程まで眠っていたとは思えないほど強く、骨ばった彼の手を蛇のように締め上げていく。
「ねえ、兄さん。兄さんは何のために『浮橋屋敷』に来たの? どうして何もしてくれないの?」
「違う、俺だって一生懸命やってる、早くお前を目覚めさせてやりたいのに、」
「どうせ、あたしは死んでると思ってるんだ」
ひゅ、と息がひきつれた。
「まさか、そんなわけない、俺は」
粉のようなものが、引鶴の手の甲に触れた。見ると、伊那の手の表面が灰のように崩れ、そこから古びた建物の柱のような骨がむき出しになり始めている。それは全身に広がっていき、死神が蝋燭を吹き消すように、伊那の体は、骨と、灰と化していく。
「馬鹿野郎、何で、嫌だ……!」
「兄さんに、あたしを助けることはできないでしょ?」
引鶴は、はっと意識を戻した。
気がつくと、目の前からは伊那も灰もあの部屋も忽然と消え失せている。辺りを見回しても、それは再び現れる気配を見せなかった。
……耳鳴りがして、引鶴は思わず耳を押さえる。手の平は身震いするほど冷たく、汗のせいでかすかに湿っていた。
「夢……」
確かめるように、部屋のあちこちを触る。寝間着の色、冷たい畳、障子窓の向こうに見える夕暮れ。あの場に――郷里の一部屋にあるはずのないものを。そうしていると、やっと血が回り出し、手の平をぬるい空気が温め始めた。
「夢か……」
薬と、水の入った
落ち込んだ気分を、上向ける効能。
……思わず、額の上に両手を乗せた。その温度に、引鶴は思わず唇を噛む。生きている。その事実が、鉛のようにのしかかる。
気がつくと、頬が濡れていた。それが手の平をさらに湿らせ、降り始めの雨粒のように零れていく。声を漏らさないように、引鶴は布団を強く握りしめた。
「俺は、伊那になんてことを言わせてんだ……」
もうじき、起きて「蝶の捕り役」の準備をしなくてはならない。それをわかっているから、引鶴は唇を噛む。
「伊那が一番、生きたいと願っているはずなのに……」
自分のためではない。人の悪夢を取り除くために、今日も白い着物に袖を通すのだ。
少しだけ、少しだけ……引鶴は涙を流した。
紙の切れ端と、すぐ文字の掠れる古い筆で。すっかり年季の入った硯で墨を摺って。郷里の家族は字が読めないから、伊那を預けている寺の住職に文を送るのだ。この筆と硯は、郷里を出る時、住職がくれたものだった。
「『
眠り続ける伊那のそばで、霧雨のように穏やかな声で語っていた住職の声が、引鶴の脳裏に蘇る。それに急き立てられるようにして、彼は筆を進めた。時折字が掠れたが、それでも構わなかった。
『寒冷の節。伊那はおどろきたりや。けふもゆめ見はべりき。いかでかおどろかさむと思はざることあらむや』
冷たい空気が広がり、寒くなり始めました。伊那は目を覚ましましたか。俺は今日も夢を見ました。どうして伊那を目覚めさせようと思わないことがありましょうか。
筆を置き、溜め息をつく。「月下蛍」だけがそれを聞いている。そして、ただぼんやりとした光をもって返答とした。
誰もが寝静まった部屋。いやきっと、氷雨と連翹は起きている。「橙の試し」のための……ひいては「月下藍」になることを見据えての勉学に励んでいる。
――なんでも、人の悪い夢を取り払ってくれる神様なんだそうな……。
住職の言葉は半分正しいが、半分誤っていた。
引鶴は思い返す。初めて「浮橋屋敷」に来た時、黒い御簾の向こうから飛んできた紙の鳥に書かれていた言葉を。
『汝が
お前の着物が藍色に染まる時、彼女は目を覚ますだろう。
その言葉を是とし、「契」と書かれた紙に「約」の字を返した時。自ら書いたその字の具合を、引鶴はよく覚えている。墨が掠れても、振り絞るようにして書き切ったその文字。
その紙が御簾の向こうに吸い込まれた瞬間、引鶴は「月下」になったのだった。
「月下藍」となることを約した「月下」に。
「……早く、『月下藍』にならねえと……」
小さく呟いて、冷たい指先で文を折る。引鶴は、それを静かに懐へ入れた。
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