十八 竹を編みて月下の務めを知る
今日の「宿主」は、細く、折れてしまいそうなほど背の高い青年だった。
暗がりでもわかるほど、顔が生白い。氷雨の声にはぼんやりと反応しているようだったが、その瞳は明らかにうつろ。
青緑色の布の下に彼を寝かせ、黒蝶が額から出てくるのを待つ。手には竹籠。しばらくすると、赤紫の光に染まった黒蝶が、ゆっくりと姿を見せる。人の拳ほどもある、大きな蝶だった。
「良し」
それを捕らえると、「月下蛍」の灯りの中に深山の声が響く。氷雨は一息つき、籠の中で羽を休める黒蝶に目をやった。「宿主」の青年は、未だ眠り続けている。
氷雨と深山は、この客に見覚えがあった。
以前、やけに大きな黒蝶をその身から出した青年だ。
「この前の蝶が、卵を産みつけていたな……」
「その卵を取り除くことは、おれらにはできないの?」
「ああ。我々の仕事は、あくまで応急の手当に似たものだからな」
深山が竹籠に視線を向けながら、眉をしかめる。
「黒蝶を取り除いても、そいつが産みつけた卵が『宿主』の中に残っていたら、また悪夢は『宿主』を苦しめる。……だが、我々の仕事は黒蝶を取り除くことであって卵を取り除くことではないし、それは我々にはできないのさ」
「……そうなのか」
「卵は香じゃ誘引できないだろ?」
そう言って、深山は氷雨の肩をぽんと叩く。白い着物の上で、薄紅色の爪が揺れた。氷雨は、鼻先をかすめる「手招き草」の香を感じながら、しばらく唇を噛んでいた。
「意外といるよ、何度もここに来る者は。悪夢の源を解決できないとわかっていても、な」
闇の中に浮かび上がる、薄橙色の着物。それを妖しく染め上げる、赤紫色の燐光。
「……何がそんなに、彼を苦しめているんだろう」
すると、深山は苦笑した。
「それはお前も同じだろう。お前、己の中に巣食う黒蝶をどうやったら殺せるか、自分で理解しているか?」
脳裏に蘇るのは、焼け落ちる物見櫓。そこにいるはずの少年。血に濡れた包丁。
「……わからない。少なくとも、簡単ではないと思う」
「そうだろう。誰も知らない、本人でさえも知らない場所に隠れた本当の理由を探し出すのは、森の中に隠れた針を探すような所業……」
深山は、そっと「宿主」の傍らにかがみ込む。彼は寝息を立てながら眠っていた。氷雨はそれに少し安堵しながら、深山の所作を見守る。
「ここでは、『宿主』の卵を全て取り除くことができない。ただ、『蝶捕り』によって、少しでも『宿主』の苦しさを和らげることができる。そしてお前は、その苦しさに心を寄せることができる」
「心を寄せる」
思わず、胸に手を当てる氷雨。
「お前は『宿主』の苦しみに寄り添った上で、『蝶の捕り役』を務める。要は心構えの問題だ。『蝶捕り』自体は毎日同じ作業だが、『宿主』は基本的に毎回違う」
氷雨はこくりとうなずいた。
「我々『月下』は、『浮橋様』に仕える者であると同時に、『宿主』に尽くす者でもある。それはすなわち、『黒蝶』を取り除くこと……。そして、『宿主』ひとりひとりの生を支えることでもあるのだから」
「月下蛍」の光が青緑色の布を照らし、夜の水面のように美しく照らし出す。窓の無い部屋。黒蝶が「宿主」の体から離れる場所。「宿主」が悪夢から解放される場所。たとえ一時であっても、解き放たれる場所。
「……とまあ、これが師匠からの助言だ。『橙の試し』を受けるためには、『蝶の捕り役』を一人で務めている必要があるからな」
氷雨は、竹籠を畳の上に置いた。そして、深山に向かって頭を下げる。
「ありがとう、深山。師匠としておれを導いてくれて」
「大袈裟だな。まあ、きちんと礼が言えるのは、お前の長所か」
「礼は、言える時に、ちゃんと言っておくべきだと思っているから」
しばらく、深山は無言で氷雨を見た。大人び始めた体と、どこか子どもらしさの残る顔。黒い御簾、その彼方に座す者を、ひたむきに追い求める瞳。
ふっと満ちる、ろうそくの火がかき消えた時のような沈黙。
そのすぐ後、彼女は氷雨の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「受かれよ。まあ、お前は真面目だから、きちんとやり通すんだろうがな」
「もちろん。深山と同じ色の着物になってやる」
「馬鹿め。私は『紅の試し』を受けて『月下紅』になるのだ。私と同じ立場など、まだまだ早いわ」
そう言って、深山は歯を見せて笑った。
試しは年明けに行われる。少しずつ「書庫蔵」に通う人も増え、空気が乾くに従って、皆の緊張感も高まっていく。
氷雨と連翹、引鶴の三人は、早起きして「役事所」の一角に集まっていた。そして夕方の縁側に並び、黙々と竹を編んでいる。
「うまいね、氷雨くん。器用だなあ」
「連翹のは穴が不揃いだよ」
「うるさいなあ」
三人の隣には、「竹籠役」の
三人がやってきたのは、「竹籠役」の工房。
捕らえた黒蝶を入れておく、長方形の竹籠を作る場所だった。
とはいえ、蝶が逃げないような竹籠を作るのは、そううまくはいかない。というわけで、三人はあくまで体験として、竹細工の真似事をしているのである。
「この竹は、『浮橋屋敷』の裏手に生えてるもので、丈夫でしなやかなんだよ。だから、長持ちする竹籠になってくれるんだ」
「確かに、籠をうっかり落としても、全く壊れないですよ」
「引鶴くん、籠を落としたのかい?」
「あっ、いや、狭霧さん、全くそんなことは……」
「いいよいいよ、そんなこともある」
「月下紅」の証たる紅色の着物を着た狭霧は、三人よりかなり手慣れた手つきで竹の細工を進める。すいすいと、型でも取っていたように、綺麗に籠へと仕上がっていく竹の束。それを見ながら、連翹がぼやく。
「どうやったら、あんな上手な竹籠を作れるんでしょうか……」
「なあに、慣れと修練だよ」
鮮やかな紅葉が目につき始めた昼下がり。たっぷりの日差しを浴びた竹は白く光り、穏やかな温もりを閉じ込めている。仄かに香る土の匂い。鳥がどこか遠くで鳴き、それにつられるように、からからと音を立てて木々が揺れた。
「なんだか、布を織っているみたいだと思わない?」
「まあ確かに、あれも縦糸と横糸を組み合わせるしな」
連翹と引鶴が話しながら手を進めている。そんな中、氷雨は針の穴に糸を通すように集中力を高め、竹を操っていた。
――我々『月下』は、『浮橋様』に仕える者であると同時に、『宿主』に尽くす者でもある。それはすなわち、『黒蝶』を取り除くこと……。そして、『宿主』ひとりひとりの生を支えることでもあるのだから。
縦の竹と横の竹。それぞれが支え合って成り立つ芸術。
一本の竹だけでは成り立たない、それでいて一本一本がしなやかな強さを持つ竹細工を、氷雨はゆっくりと作り上げていく。
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