十七 月下蛍を黄泉へ送りて


「見て。あれが『月下蛍』。『浮橋屋敷』の灯りにのみ登用される、特別な蛍」


「おお……」

 三人は目を凝らした。地上に星が住むならば、きっとああであろうと思わせるほど、その光は美しく、小さい光ながらも目を奪う魅力に満ちていた。


「普通の蛍は夏の終わりにはもういないんだけど、『月下蛍』は特別。伝え聞いた話によると、『月下蛍』は我々『月下』より古くから、『浮橋様』に仕えていたらしいの」

「『月下蛍』がおれたち『月下』の名の由来になったんですか?」

「そういう説もあるわ。とにかく、『月下蛍』は普通の蛍よりも長生きするし、何より我々の素晴らしい仲間なの」

 そう言った岩魚の隣で、薊が大きな包みの内の一つを取り出した。それに、連翹がすぐさま反応する。

「『手招き草』の布」

「ええ。これは、『手招き草』の布で覆いを付けた、『月下蛍』のための竹籠。この香が、彼らへの合図になる。『月下蛍』はとても聡いのよ」

 薊が、川面に向かって竹籠を何度か振る。静寂を色にしたような薄青の空に、濃い青緑色の布がはためく。


 ……すると、それに惹かれるように、あの光が幾つも空に浮かび上がった。


「天の川みたいだ」

「綺麗でしょう」

 青白い光の群れは、女王蜂を追う働き蜂のように、すうっと竹籠に引き寄せられる。そして最後の一匹までが見事に収まる。おお、と三人はどよめいた。

 その隣でうごめく、橙の着物。

「俺も説明してもいいですか。まったく、たとえ見習いとはいえ、機会をくださいよ」

「ああ、ごめん。じゃあよろしく、薊」

 後ろで髪をくくった薊は、軽く肩をすくめて、それから竹籠をかざして見せた。扉を閉めた竹籠の中でまばゆい光が灯り、籠は四角い提灯のようにも見える。

「岩魚さんが、さっき『月下蛍』が賢いって言ったけど、こうやって、自らが『浮橋様』に仕える時が来たとわかっているんだ。それに、『蝶の捕り役』の時、黒蝶が出てくる直前、いつも『月下蛍』は明かりを消すだろう? ああやって、俺らを手伝ってくれる」

 氷雨は、捕り役の一連の作業を思い返した。確かに、黒蝶が「宿主」の額から現れる直前に、いつも「月下蛍」の光が消える。それが合図だった。

 薊が、もう一つの包みに目を向ける。

「『月下蛍』は『浮橋様』のために、我々『月下』を助けてくれる。だから、俺らは『月下蛍』が育つ環境を整えるようにしているし、彼らが死んでしまったら、葬式もする」

「葬式?」

 そして、封を解くように慎重に、包みを開いた。


 その中身は、竹籠より一回り小さい、内部の見えぬ黒い箱だった。


「この中に、『月下蛍』の亡骸を燃やした灰が入っている。彼らの葬式も、我々『月下蛍の補佐役』が行うんだ」

 

「灰……」

 氷雨は静かに呟いた。

「葬式というのは、この灰を川岸に撒くこと。そこから、新たな『月下蛍』が生まれるという伝説がある」

 三人は、薊が持つ箱の周りに集まった。かぽ、と音を立てて漆塗りの箱が開かれると、そこには明け方の空の色を瞬間的に吸い込んだ灰が収まっている。

「さあ、三人も」

「はい」

 手の平で灰を少し掬い、それをゆっくりと地面に落としていく。ゆっくりと、ゆっくりと。

 灰の色は均一で、元の形などもうわからない。それでも、氷雨は押しつぶすことなく、丁寧に、撫でるように、灰を手の平から放った。

「皆、『月下蛍』なんだな……」

 引鶴が低く呟く。その隣で、連翹が目を軽く潤ませながら頷く。


 しばらく、五人は無言で灰を撒いていた。その間にも空は着々と朝を迎える支度を始めている。東のかたが蜜色に輝き始め、天頂は淡い桃色に色づく。鮮やかな布模様の世界の中で、灰はそこから確かに光を捕らえ、白銀にきらめいていた。


「『月下蛍の涙』……」

 小さく、薊が呟く。岩魚も、灰を見送りながら静かに頷いた。


「『月下蛍』がいるから、初めて私たち『月下蛍の補佐役』の仕事がある。彼らが死んでしまうのは……やっぱり淋しいわ」

 風に流され、空気に溶けていく灰。それは川岸に降り積もり、やがて朝日をいっぱいに浴びるのだろう。


 灰を全て撒き終え、手の平から灰の粒を落とすと、五人は川に向かって並んで立った。川は空と同じ色を克明に映し出し、それを上からなぞるように幾度も白波を立てていた。


「長きに渡り、大変お世話になりました。ゆっくりお眠りください。そしていつかまた出会えることを、心より願っております」


 二人の「月下蛍の補佐役」が、深々と頭を下げる。その声が水面を揺らし、その瞬間、応えるかのように一筋、東の方から日の光が差した。

「お世話になりました。ありがとうございました」

 三人も頭を下げる。そのうなじを黄金色の光が照らし、川岸が心なしかきらきらと輝いているように見えた。氷雨はその光景を目に焼きつけながら、ゆっくりと顔を上げた。



「……さあ、戻ろうか」



 小窓から、今や真っ白に姿を変えた日光が差し込んでいる。

「月下蛍の補佐役」と連翹、引鶴と別れた後、氷雨は部屋の畳の上で寝転がっていた。目の前に見える、天井の木目。ほんの少しだけ湿った、逝く夏の匂い。

「『月下蛍』、か……」

 そう呟いた氷雨は、ゆっくりと体を起こす。そして部屋の隅にある、かまくら型の蛍の灯りに手を伸ばした。

 障子紙と竹ひごで作った、小さなかまくら型の灯り。それを畳から持ち上げると、その中には小さな「月下蛍」がいる。もう空は明るいから、青白い光はつけていない。小さな、「浮橋屋敷」に欠かせない虫。


 この「月下蛍」とは、初めて「浮橋屋敷」に来た日からの付き合いだった。「浮橋様」との対面を終えた後に案内された自室に、すでにいたのだ。かまくら型の灯りの中で、「月下蛍」は静かに光を放っていた。物悲しくもどこか涼やかな、青白い光。「浮橋御殿」にも同じ光があったはずだけれど、穏やかな空気を醸し出す和室の中では、不思議と氷雨の心に染み渡る温かさがあるように感じられた。

 

 あの日からずっと同じ灯りが、すぐそばにある。


「どうか、長生きしてください」


「書庫蔵」で、「月下蛍」に関する指南書を借りよう。一日でも多く、この部屋を明るく照らしていてくれるように。

 氷雨とともにこの部屋へとあてがわれた「月下蛍」にそっと声をかけて、氷雨はゆっくりと目を閉じた。

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