十六 逝く夏に青白き光を見たり

「氷雨、頬に墨がついてる」

 深山がそう言って、氷雨の頬を指差した。頭上で静かにはためく青緑色の布。それをちらっと見てから、手の甲で頬を拭う。

「うん、取れた。勉強熱心だな」

「『橙の試し』のために、いろんな草花を見て、その形を描いてみているんだ。木切れや、紙の端に。同じ種類の草でも、少しずつ形が違って、楽しい」

 氷雨は、自室に置かれた写生の束を思い返す。描いてはそれを保存しているから、今や氷雨の部屋には、幾枚もの草木の絵が置かれていた。画集や展覧会もできるかもしれない。

「細筆を使って、すうっと丁寧に線を描くんだ。難しい時は、葉を手折って、それに墨をつけて、魚拓のようにする」

「へえ、面白いことをやっているな」

「うん、そうすると、植物の名や効能が、すっと頭の中に入ってくるんだ」


「橙の試し」は、全員が受ける必要がある試しだ。

 試しでは、主に二つの問題が出る。

 一つは基本知識。蝶捕り、草木の栽培、薬作り、染め布など「浮橋屋敷」での仕事で必要となる知識を満遍なく得ていることを証明する。

 もう一つは、自らが進みたい仕事への意欲表明。自分が極めたい部門を一つ選択し、それに対するやる気や展望を述べる。

 なお、「月下藍」を目指す意欲のある者を除き、基本的には皆、秋から冬にかけて勉強を始めるという。


「試しに受かる自信はあるか?」

 氷雨は、少し首を傾げた。それから、それを緩く左右に振る。

「自信というより……受からなければという気持ちの方が、強いかもしれない」

「そうか。あまり無理はするなよ。染め布のことであれば、いつでも私に聞け」

「わかった。ありがとう、深山」

 そう言って、氷雨は畳の上から立ち上がった。「宿主」を迎え入れる準備を始めるためだった。


 外の風は、夏を手放し、秋を迎え入れ始めている。

 しかし、一匙ほどの夏は残っていて、冷たく乾き始めた空気の中にふと甘苦い匂いを感じると、少し名残惜しいような、不思議な気分になるのだ。水は澄み、木の葉は色づく準備を始めている。そんな中で、ひっそりとく夏。

「遅れてごめんよ」

 連翹の声がした。息をきらして走っている。白い着物にまだ明けぬ空の色を灯し、閉じた障子窓の色のように薄暗く沈んでいる。氷雨と引鶴は手を振り返した。

「『新月』から布を回収していたら、遅くなって……」

「さすが薫の君は優秀でいらっしゃる。『蝶の捕り役』を誰よりも早く終えられるから、『染め布役』の仕事ももう任せられているって噂だぜ」

「違うって、そんなんじゃないさ」

 困ったような顔で、連翹は首を傾けた。


 さて。

 三人は、屋敷の入り口にある門の前で待ち合わせていた。入り口は「浮橋御殿」の南、「役事所」の中央を貫く廊下を抜けた先にある。黒い屋根の装飾がついた門扉には二つの扉があり、中央には「宿主」のための二重開きの扉、その左右には「月下」のための片開きの扉がついていた。

「お疲れ様」

「ありがとう」

 そしてそこには、氷雨たちの他に、紅と橙の着物の「月下」が一人ずついる。「月下紅」は提灯を持ち、氷雨たちの方に向かってゆらゆらと揺らした。

 引鶴が軽く咳払いをし、二人を手で示す。


「氷雨、紹介しよう。『月下蛍の補佐役』の、『岩魚いわな』さんと、『あざみ』さんだ」


「岩魚です。『草木の世話役』の『月下紅』と知り合いなの」

「どうも、薊です。最近『月下橙』になったばかりだから、まだ新米だけど」

「月下紅」である岩魚が、引鶴の師匠の師匠の知り合いらしい。氷雨と連翹は、感心したように引鶴を見る。引鶴は実に得意そうに笑った。


「それで、君たちは『月下蛍』について知りたいって聞いたけれど?」

 柳の葉のように細い目の岩魚が、三人をゆっくりと見つめる。その隣で、薊はどこか飄々とした風に彼女を見やった。その手には、大きく四角い包みが二つ。

「岩魚さん、緊張させてますよ」

「そう?」

 岩魚は三人よりも背が高く、短く切った髪が凛々しかった。ただ、初対面の氷雨と連翹は、借りてきた猫のように軽く緊張している。

「連翹は、そんなに人見知りしないと思ってた」

「何馬鹿なことを言ってるんだ。ぼくが最初から緊張しないのは、良い香相手だけだよ」

「……さようで」

 

 世間話は置いておき、空を見れば、「月下藍」の着物を思わせる色から、藤花のように澄んだ薄紫色へと変化している。

「さあ、行くよ」

 門を抜けて右に曲がり、ゆるい下り坂になった大通りを行く。両脇には商店や食べ物の店が並んでいる。しかし今の時間は閉まっているため、それが淡く染まった空の色と混ざり合い、調和していた。淡く地面を駆ける影を踏むようにして、道を抜ける。

「着いた」


 歩いてすぐ、視界が開ける。

 そこには、澄んだ川が広がっていた。


 空の色を余すことなく映し込んだ川面は、時折真珠のような白波を立てる。それを覆うように広がる川べりの草は薄暗く、妖しく沈む。川幅はさほど広くないが、それでもこじんまりとした家々が続く視界の中で、川は一際目立って見えた。

 川は屋敷の東西方向に流れており、一方で南北方向に渡る橋が、「浮橋屋敷」のある坂道の多い地域と、その対岸にある平らかな地域を結んでいる。「浮橋屋敷」は、坂道の中途に門を構えているのだ。


 そして、その川の中に点々と見える、冬の夜空に光る青白い星の色に似た、小さな光。


 岩魚が、それを手で示してみせた。それにつられるように、三人は首を伸ばす。



 「見て。あれが『月下蛍』」


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