十五 魚捌きてその血色に惑ふ

 もやの彼方から聞こえるかりの声のように、厨房の奥からくぐもった音が聞こえる。野菜が瑞々しく切られていく音。鍋と木べらがぶつかる音。水を流す音。それらが混じり合い、一つになって氷雨たちの耳に届く。

「ほら、湯だ」

「ありがとうございます」

 山辻が、氷雨、連翹、引鶴の座る卓までやって来て、急須に湯を注いだ。三人は礼をして、ふんわりと立ち上がる甘く爽やかな茶の香に酔いしれる。

「早いな。今日も、試しのための勉強会か?」

「はい。でも今お茶を飲みに来たんです。これから勉強するための気合いを入れようと」

「そうか。茶のお代わりはいつでも頼めよ」

 歯を見せて笑う山辻。その背景では、幾人かの「月下」が忙しそうに働いていた。氷雨は、そちらの方にふと顔を向ける。

夕餉ゆうげの支度ですか」

「ああ。今日はうまいたけと……『わじく』が手に入ったんだよ」

「あ、『わじく』ですか?ちょうどさっき見ていたところで……」

 思わず三人は、先ほどまで書庫で広げていた参考書を懐から出し、卓の中心に広げた。その中には、「わじく」の名前と絵、説明が書かれている箇所がある。

「『わじく』は捌くのが難しいって書いてありますけど?」

「どうして難しいかわかるか、引鶴?」

「……毒、はないはずだし……」

 山辻が一旦厨房に引っ込む。そして彼はまな板の前まで立ち、ちらりと三人に視線を送った。

「ちょっと来てみな」

「はーい」

 まな板の上には、丸々と肥えた白い腹を覗かせる黄金色の魚。これが実物の「わじく」らしい。

「よく見てみろ、皮が分厚いだろう?」

「へえ……すごい、つやつやしてる」


 そしてその隣には、よく研いだ包丁があった。


(包丁)

 氷雨はさりげなくまな板から距離を取る。そして、まな板の目の前を陣取る山辻の左右に並んだ連翹と引鶴の隙間から、恐る恐る「わじく」の姿を見やった。


「まず、内臓と鱗を取る」

 水を流しながら、包丁を使い、丁寧に鱗を剥がしていく。天の川の中で光る星々のようにきらめきながら、鱗がまな板の上を流れていった。氷雨は、それを無言で見送る。

 続いて、山辻はの辺りに包丁を入れ、袋の中でも覗き込むように、その中に指を入れた。

「うわっ」

 つんと鼻を貫く生臭い匂い。連翹は咄嗟に飛びのき、引鶴は「わじく」の目から視線をずらした。

「俺、山村出身だから、魚を調理する機会はそんなに多くなかったな……」

「ぼくも……。山草ばかり摘んでいたよ」

「鹿や猪を解体することはなかったのか?」

 山辻が不思議そうに尋ねる。

「見たことはあるけど……。ぼくは苦手だった」

「慣れたけど、目を見つめないようにしてた」

「そうか」

 まな板の上を滑っていく、鮮烈で生々しい血。その赤がまな板の端で滝のように落ち、そして消えていく。それが幾度も氷雨の目に映る。


 包丁についた、血の色。


 ……夢で見た光景が瞬間、脳裏に蘇った。

 べったりと濡れ光る、黒い血。


 ガタンッ

「大丈夫か、氷雨」

 ふらついた氷雨に目ざとく気づいた引鶴が、その腕をさっと取る。途端に歪み始めた視界の端で、茶椀のありかを訪ねる連翹の姿が見えた。そして、包丁を置いて慌てて動き出す山辻の着物の紅も。

「……大丈夫、ちょっと立ち眩みがしただけ」

「無理をさせたか、悪かった。座ってな」

 山辻が、厨房の端の方にある卓に茶碗を置き、がっしりとした腕で氷雨を支える。連翹はくるくると光る大きな瞳を、引鶴は少し垂れ目がちの瞳で、うろうろしながら氷雨を見ていた。

「ありがとう……ございます……」

 差し出された茶を、舌を湿らせるようにしてゆっくりと飲む。喉が動き、そのかすかな痛みのようなものがぴりりと広がる。それをたちまち、まろやかな香の茶がやわらげていく。氷雨は、ほうと息をついた。

「配慮が足りなかった。済まなかったな」

「……おれの方こそ、急にすみません」

「もし辛ければ、部屋に帰った方がいい」

「いえ……。山辻さんの解説が聞きたいですし、血がなくなったら大丈夫だと思うので」

 また一口、茶を飲む。時を止めたようだった血流が、ゆっくりと回り出していくのがわかった。

「……そうか。無理はするなよ」

「はい、ありがとうございます」

 そうして氷雨は卓で目を閉じ、山辻たちの声に耳を澄ませた。


「鱗と内臓を取った『わじく』を冷水で綺麗に洗う」

 ざあ……と厳かに響く水の音。

「これを、丸ごとの状態で軽く湯に通す。厚い皮が縮まないようにする工夫だ」

「なるほど」

 熱い湯が波打つ音とともに、菜箸と鍋が触れる金属音。続けて、連翹と引鶴の小さな歓声が響いた。

「そうしたら、三枚におろす」

「すげえ、山辻さん捌くの上手い」

「引鶴は褒め上手だな」

「氷雨くんー、『わじく』の身は見たことあるかい?」

 連翹の声が聞こえる。氷雨は中途半端に首を振った。

「生のは見たことがないかもしれない。煮つけになっているのはあるけど」

「じゃあ持っていくよ。ちょっと待っていてくれ、手を洗うから」

 水音の少し後に、切り身を得意げに持って走ってきた連翹の足音で、氷雨は再び顔を上げた。

「……白くて、透き通ってる。蜉蝣かげろうの羽みたいだ」

「うん、そうだろう?」

「連翹、その切り身を煮つけの汁に入れるぞ」

 竈に置いた鍋では、醤油や刻み生姜を入れて煮立たせた煮つけ汁が沸騰しているらしい。ほんのりと焦げたような香ばしい醤油の匂いが、氷雨の元まで漂ってきた。

「よし、それで蓋をする。……後は、お前たちが皿の上で見る姿だ」

「ご指導ありがとうございます」

 引鶴と連翹が頭を下げる。氷雨も立ち上がって、山辻に見えるように頭を下げた。すっかり血の気は元に戻り、指先までがじんじんと熱を持っているように感じられた。



「お前ら、夕餉の時はきちんと『いただきます』と言うんだぞ」

「はい」


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