十四 刹那、淋しき黒蝶を見たり


 花は根に 鳥は古巣に かへるなり 春のとまりを 知る人ぞなき 


 桜咲く。

 夜闇を含んだ花弁が風に揺れるたび、紐から解き放たれた数珠玉のように、ぽろぽろと舞い落ちていく。枝はそれに多少の未練を見せるように揺れ、幹はただ黙々と見送っていた。

 障子窓は、氷雨たちがいる部屋の中と外を切り分ける枠のように広がる。そしてその境界線に立つように、窓のへりに腰かけた少年。

 片足を縁に乗せ、桜を背景にして、滑らかな横顔を浮き彫りにしている。漆のように艶やかな黒髪。鼻から頬にかけて広がるそばかす。きめの細かい睫毛。その中に灯る、永遠の薄明を閉じ込めたように仄暗い色の瞳。かすかに開いた薄い唇。着物の隙間から見える脚。その場だけ時が止まったかのように、どこか隔たりのある景色。


「……雪代」

 

 呼びかけてから、後悔する。幻想的な景色との距離を置いたままの方が、ずっと楽だった。そうすれば、いつの間にか目が覚めるだけ。話しかければ、雪代に会えぬ現実との乖離で辛くなる。


 ……それでも、今この時、雪代に声をかけずにいることは、氷雨にはできなかった。



 なんて……なんてうつくしく、酷な悪夢だろう。

 


「氷雨」


 風の音をも止めるような、澄んだ声。雪代が氷雨に視線を向ける。どこか冷たくも見えた表情が一転やわらぎ、頬に生気が差す。それはまさしく雪代が生きているようで、氷雨は思わず目をそらした。それなのに、そらし続けることに耐えられず、視線を元に戻す。


「本当に……本当に、雪代?」

「変な夢でも見た?そうだ、茶を入れよう。心が落ち着くよ」

 雪代はほころびた花のように笑って、窓の縁から立ち上がる。

「それか、いつものように絵を描けばいいかもしれない。どうだろう。氷雨の絵は、いつも見ていると心穏やかになるものばかりだから」

 畳の上に重なる、すらりとした体の影。氷雨はこくんと息を飲み、目をつむった。


「氷雨、もしかして熱でもある?」

 すぐ近くで気配を感じ、氷雨は思わず動きを止めた。額に伸ばされる手。視界が少しだけ遮られ、その分雪代の姿が明瞭になる。憂いを帯びた、雪代の視線。

 ……氷雨は、雪代の体温を感じる前に、思わず後ろへと飛びのいた。

 

「どうして? そんな淋しい顔、しないでくれ……」

 そう言って、雪代は一人取り残されたように目を伏せた。その表情は枯れる前の花のように儚く、それでいてどこか妖艶。氷雨は思わず、唇の合わせをずらす。

「だってお前、触れた瞬間に消えるだろう……?」

 幽霊のような「月下蛍」の灯りに焼き出された雪代の着物は黒。少し乱れた髪を軽く掻き上げて、彼は再度氷雨を見やった。

「消えないよ。氷雨は夢を見ているんだ。目を覚ませば、僕はそこにいる」

「……夢を見てることくらい知ってるよ。お前がすぐそばにいるわけがない」

 ざあ、と風が吹いた。花弁が巻き上げられ、幾枚かが窓枠を越えて畳の上に落ちた。


「……淋しい。淋しいよ、氷雨。覚めないで……」


 その声は桜吹雪に混じり、今にも消えてしまいそうな儚さをもって響いた。それが割れた硝子の欠片のように胸を引っ掻いて、氷雨は唇を噛む。

 ……それでも、首を振った。


「覚めたくない。でも……苦しいんだ。おれは、生きなくちゃいけない。そう言われたから」


 雪代の姿を借りて、氷雨に告げられた言葉。

「汝は生くるべきなめり」。


 夢の中の雪代は、しばらく黙って桜に打たれていた。花弁がひらり、氷雨の手元に落ちる。それを手に取るべきか否か、逡巡しゅんじゅんする。


「氷雨、」

 ぽつりと落ちる声。


「このまま、近くにいるのに遠くにいるようにして永遠に過ごすか。それとも僕に近づいて、触れて、そして僕が消えるのを見届けるか」


 桜が、舞う。


「……もう、答えは出ているだろ?」


 そう言って、雪代はゆっくりと、淋しそうに笑った。

 凪いだ海に浮かぶ一隻の小舟のように、瞳を揺らしながら。唇を夜桜の色に織り交ぜながら。


「そんな淋しいこと、どうして言うんだよ」

「もうわかってるくせに」


――初めてここに来た時……生きる理由を、掴んだ気がした。でもあの時は、その正体はわからなかった。多分……『月下藍』になるということが、その答えだったんだと、思う。


――雪代にしても、「浮橋様」にしても、あの御簾の向こうにいる者が何なのか、知りたい。なぜあの時泣いたのか、もしもう一度会うことできたのなら何を語るのか、知りたい。



 氷雨は、ゆっくりと花弁を手に取った。

 そしてそれを、雪代の白い手の平に重ねた。


 ぼっ、

 触れた指先から、たちまち雪代の体が白い鱗のように変化し、崩れていく。いや……鱗ではない。桜花弁だ。

 そして、それの一枚々々が、どこからともなく現れた炎によって、焼き消えていく。氷雨は目を見開いて、消えゆく雪代の体を掻き抱いた。

「馬鹿、本当に死んじゃ、嫌だ……」

 心臓が激しく締め付けられたまま波打つ。耳元で激しく火の粉が爆ぜる。

 雪代の声が聞こえる。


「氷雨。お前は……、こうやって、僕を助けたかったんだろう?燃え盛るやぐらの中から……」


 激しい音、それは耳を切り裂くように響き、建物を食い荒らす。逃げ惑う人々、肉が焦げるような匂い、悲鳴、退廃的、すべてが混ざり合う。氷雨はぎゅっと目をつむった。雪代に回した手に力を込めるけれど、その実感は薄れていく。

 ……夢が覚める。夢が。



「でもお前には、僕を助けることはできなかった」 

 


 ぱしん、と音が響く。瞬間、雪代の体が消えた。

 そしてそれと同時に、部屋の天井が、壁が、窓が、床が、一気に炎に飲み込まれ、瓦解する。全てがめちゃめちゃになって、もがいても、誰にも届かない。氷雨は思わず悲鳴を上げた。


「―――――やめろ!!」


 一瞬の静寂。


 気づけば氷雨は、火の粉にまみれた村の中に立っている。道の両端には燃え盛る家々。空は猛毒を広げたようにどす黒い。辺りには煙が充満し、立っているだけで咳が出る。

 その中を、氷雨はふらふらと歩いていた。辺りからは怒号が聞こえる。それが、防ぎもしない耳に飛び込む。

「あいつを早く探せ!」

「旦那様が……」

「馬鹿そんなことをしてる場合か」

「いや、駄目だ。全部知ってるんだぞ。探して殺せ!」


 足元を見る。

 何かが落ちている。

 それを、ぼんやりと拾う。眺める。取り落とす。



 ……それは、黒い血がべったりと付いた包丁だった。

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