十九 初秋は薬草の香ぞする

「植生倉」の草木が色づき始めた頃、連翹は匂い袋を氷雨に手渡した。


 きっかけは、「わじく」を捌いた日のこと。

「役事所」を出て「月下長屋」に向かう中途の道で、ふと連翹が話を切り出したのだ。

「氷雨くん、ちゃんと眠れているかい?」

「どうして?」

 氷雨は不思議そうに連翹を見る。彼は黒い瞳を無言で光らせたまま、じっと氷雨を見ていた。

「ぼくが初めて出会ってから、君の目元にはいつも隈がある。薄い日もあるけれど……、でも、ずっとあるんだよ」

「……そうなのか」


 氷雨は思わず目元に触れる。かさかさと乾いたそこは、触れるとかすかに血脈の流れを感じられた。とくとくと波打つ、心音の写し身。

「深くは問わないけれど……、血のついた包丁を見た時、君は尋常じゃない顔をしていた。それを見て……ぼくは、すごく不安になったんだ」

 胸の前で握りしめられた連翹の手は、かすかに震えていた。引鶴が、その肩をとんと叩く。それに励まされるように、連翹はかすかに微笑んで、ゆっくりと薄い唇を開いた。


「ぼくには、君がどんな辛い思いをしてきたのか、思いを巡らせることしかできない。でも、そんなぼくにできることもある」


 氷雨は、おずおずと連翹を見やる。その視線を受けた連翹は、春花の名を冠する者らしく、今度は柔らかく笑ってみせた。

「今度、匂い袋を作るよ。嗅ぐと落ち着くよう草木を摘んで、調合するからね」

「連翹……」

「香も人も、いずれはもの。それでも……生きている人が死んでしまうのは、香が消えるのとは、違う」



 そして今、夏特有の気だるさが抜けよく乾いた夕空の下、連翹が差し出したのが、くだんの匂い袋というわけだった。


「調合は引鶴にも手伝ってもらった」

「ありがとう、二人とも」

「まあ……薬を作る練習が、できたし。書で学んだことの応用も、できたし……」

 やけに流暢さの欠けた引鶴の回答。彼の着物には、なぜか至る所に薬草くすりぐさらしき枝や葉がくっついている。氷雨は首を傾げた。

「何でそんなに葉っぱがくっついているの?」

「慌ててたもんで」

「ふうん……」

 その肩についていた小さな葉を指で弾いてから、連翹は匂い袋に視線を向けた。

「この調合はぼくが考えたんだよ。ええと、まずは『朴夏ぼっか』の実の皮。これは柑橘の一種で、気分をぱっと明るくする。『紫舟むらさきぶね』の花の乾かしたもの。すうっとした良い匂いがする。あと、『手招き草』の茎も切って入れたよ。それから……」

 早口で次々に成分を説明していく連翹の勢いに押されつつも、氷雨は匂い袋の香をゆっくりと吸い込む。上品でありつつ、嗅ぐ者を委縮させない、不思議な穏やかさを持った香。それが肺を満たすたび、ふっと柔らかく体のりきみが抜ける心地がする。

「これはぼくの発明なんだけど、『みずかまき』の枝。よく叩いてから軽く炙ると、独特の香りを放つんだ」

「へえ……」

 どこに忍ばせていたのか、いつの間にか連翹の手には「みずかまき」の枝がある。炙ったという話もあったが、通常は薄茶色であるはずの枝が、濃い茶色に姿を変えている。そして煮詰めた蜜のような、それでいてくどさはない程よい香が、ふっと鼻先を撫でた。

「……ありがとう。すごく良い香だ」

「香が薄くなったらまた言ってね。新しく作るよ」

「わかった」

 染める前の布で作ったらしい匂い袋は雪のように白く、入ったばかりの「新月」の着物を思わせる。氷雨は匂い袋の大切に懐にしまい、二人に向かって頭を下げた。

「おれ、二人に世話になってばかりだ。礼は必ず、倍にして返すよ」

「いいって。真面目だなあ」

 と言いつつ、引鶴はしばらく何かを考えるようなそぶりを見せる。疲れらしきものが滲む彼の瞳に、ふと一匙光が灯った。

「じゃあ……ひとつ、頼んでもいいか?」


 引鶴が向かったのは、「植生倉」だった。

「植生倉」の中は倉庫で、収穫した草木の保存を担っている。それはすなわち薬草もそこに保存されているということであり、「草木の世話役」の者たちは、その薬草を用いて薬を作るのだった。


「植生倉」に入った途端、氷雨の鼻を、様々な香が襲った。

「……これは」

 扉を閉め、蜘蛛くもの糸で引かれるように倉の内部に視線を向ける。そして、しばらくの間絶句した。

 書庫に似た薄暗さを照らす「月下蛍」の灯りの向こうには、主に二つの区画がある。一つは、厨房に運ばれるのを待つ、野菜や果実が詰まった木箱の山の区画。そしてもう一つが、薬草保存場と製薬場を兼ねる区画。


 そしてその後者が、見るも無残にめちゃくちゃになっているのである。


 倉の壁沿いに設えられているのは、年季が入り黒ずんでいる、引き出しだらけの棚。その引き出しが幾つか床にひっくり返り、さらには中身であったと思しき薬草が、嵐の去った痕のようにぶちまけられている。

「引鶴くん……昨日はこんな風じゃなかったろう?」

「いやー、実は朝にここを掃除してたら、うっかり引っ掛けて、そのままこの有様よ」

「だから服が薬草だらけで、やけに疲れてるのか……」

「なんだよ氷雨、俺、疲れて見える?」

「覇気がないよ。ちゃんと寝てるの?」

「氷雨くんの言う通りさ。心配になるくらいだよ」

「ああ、そう……」

 氷雨と連翹の指摘に息をつき、引鶴は軽く肩をすくめた。そしてふーっと息をつき、顔を隠すようにして頭を下げる。



「まあ、というわけだ。これの片付けを、手伝ってはくれんか?」


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