二十 蝶を抱へて生くる者たち

「随分と派手に散らかしたね、引鶴くん……」

「……五月蠅うるさいな」

「引鶴、散らばった薬草を、元の引き出しに戻せばいいの?」

 三人は各自床に座り、群れからはぐれた薬草を引き出しに入れていく。幸い、色や形、香の違いによって丁寧に選り分けていけば、時間はかかるものの、元には戻せそうだった。

「嬉しいね、薬壺の中に閉じ込められた気分だ」

「これは『たびき』で、これは甘草で……」

 嫌味か本音かわからない独り言を呟く連翹。その隣で、氷雨はひとつひとつ名前を呼びながら分類を続けていた。

 しばらくの無言の後、氷雨はふとその手を止めて、二人を見やる。

「これ、引き出しに名札をつけてもいいんじゃない?」

「ああ、そうかもね。絵も描いたらどうだろう。見やすくなるかもしれないよ。ねえ、引鶴くん」

 倉の中を再び満たす沈黙。牡丹の花が広がるように、ふわりと広がる香。その中で、連翹は首を傾けた。一方の氷雨は、手にしていた薬草を置いて、隣に声をかける。

「おーい、引鶴?」


 ただ一人動かぬ影。幻覚作用のある薬草は床に広がっていないはずなのに、何かを見つめるように、取り憑かれたように、瞬き一つせぬ姿。


 ……それが、ふっと吹かれた蝋燭の火のように揺らぎ、引鶴ははっと意識を取り戻した。


「あ、悪い。何だって?」

「ぼうっとしてる。だから、引き出しをひっくり返したの?」

「んー?」

 鼻にかかった声で返答をしながら、引鶴は目の前の薬草を拾い上げる。しかし、それをおもむろに別の引き出しへ入れた。そして誤りに気づかない様子で、再びどこか別の一点を見やる。

「……具合でも悪い?」

 氷雨は思わず立ち上がり、引鶴の両肩を押さえた。蛍の光が灯るように、瞬間引鶴の意識が戻る。子どものようなあけどない、しかしどこか頼りない表情。氷雨は一瞬あっけに取られた。

「具合が悪いなら、長屋に戻って……」

「休んでなんかいられんだろ」


 遠雷のように、小さく鋭い声。薬草の匂いが鼻をかすめる。氷雨を振り払った引鶴の手には、葉や茎が不格好に貼りついていた。

 その手がかすかに震え、それを隠すように、引鶴は口元に手を当てる。氷雨は、猫っ毛の髪の中から覗く黒い瞳を見つめた。青白い顔の中で、それはひどく浮いて見えた。

「……まさか、妹に何か」

 連翹がこくんと息を飲む音。引鶴は、無言で首を振った。振ってから、迷うようにその動きを止める。



「何かあったわけじゃない……。ただ、今日は、妹の生まれた日なんだよ。なのに、あいつは、ずっと眠っていて……」



――どうにかできるのは、俺しかいない。俺が努めるしかないんだ。


「だから、妹さんのために薬を作ろうと……?」

「そうだよ。これは俺の問題だ。付き合わせて悪かったな」

 引鶴は、そう言って二人から顔をそむける。鎖骨が着物から無防備に覗き、たちまち気まずそうに隠れた。

「本当は、こんな姿だって、人に見せたかねえんだよ。格好悪い。でも一人でここを片すのは、どだい無理な話だし……」


 倉に満ちるのは、酷なまでの薄暗さ。その中に、引鶴の背中が溶けてしまいそうな気がして、氷雨は思わず生唾を飲んだ。


「……この前、氷雨と『くわきり』の実を摘んだろ。あれ……よく干した後、師匠がすり潰して、お前と……を作ったんだ。意味わかるか?」


――お前も未だ、内に黒羽こくうの蝶を飼っているか……。


 深山の声が、氷雨の脳裏に蘇る。


「今日、夢から覚めてすぐ、郷里にふみを書いたんだよ。でも、返事なんてすぐ来る訳がねえ。そのくせ、文を出したのは自分のくせに、返事が来るのも恐ろしい。どうすればいいんだろうな……」


 紙風船に穴が開き、そこから空気が抜けていくように、細くなっていく引鶴の声。それが倉の中で一瞬反響し、そのままふっと消えた。それにひどく動揺したように、彼は歯を食いしばる。

 

「どうすれば……」


 氷雨は思わず、己の懐に手を突っ込んだ。

「引鶴っ」


 その声とともに、引鶴の鼻先に突き出される氷雨の手。引鶴が思わず後ろにのけぞると、その鼻先を嗅ぎ覚えのある香が触れた。

「これは、さっき引鶴と連翹がくれた匂い袋だ」

「……そうだな」

 氷雨は、それをさらに引鶴に近づけた。温かい手の平のような、不思議な穏やかさを持つ香が、ふわりと笑む。

「……いい匂いだ。俺が、調合しただけ、ある」

「うん」

 引鶴は紙を手で丸めたように、こわばりつつもくしゃっと笑う。仄かに開いた口から覗いた隙っ歯は、彼をひどく幼く見せた。


 氷雨は、降り出した雨のように、ぽつぽつと迷いながら言葉を紡ぐ。


「さっきこの匂い袋をくれたろう。おれ、その香を嗅いだら、気持ちがすっとして、落ち着いたんだ」


 引鶴が、無言でうなずく。氷雨は、匂い袋と引鶴に視線を向けてから、軽くうつむいた。


――我々『月下』は、『浮橋様』に仕える者であると同時に、『宿主』に尽くす者でもある。それはすなわち、『黒蝶』を取り除くこと。……そして、『宿主』ひとりひとりの生を支えることでもあるのだから。


「浮橋屋敷」を訪れる客のことを、「宿主」と呼ぶ。

 なぜなら、彼らの体は、黒蝶の――悪夢の宿主になっているから。


 しかし、その定義を是とするならば、どうして氷雨は「宿主」でないと言えよう?

 そして、どうして他の「月下」が「宿主」でないと言えよう?



(……人は皆……)


 氷雨は、引鶴の前で、はっと目を見開いた。



 

 人は皆、蝶を抱へて生くるもの。

 



 黒蝶をその身に飼うことは、自分だけの苦しみではない。

 それぞれの理由は違っても、皆、黒蝶を抱えている。

 自分だけが、苦しいのではない。



(おれだけじゃない。引鶴も、もしかしたら連翹も、深山も……「浮橋様」も、雪代も、それぞれの苦しみを抱えているのかもしれない)


 薄暗い倉の中、ちらちらと舞い降りていく、静かな埃。


(それなのに、おれなんかは……人から与えられてばかりだ。生きる場所を、生きる理由を……)


 それが氷雨の上に降り積もって、真っ白な着物を少しずつ彩っていく。


 深山は、師匠として「浮橋屋敷」で生きるすべを教えてくれた。

 連翹は、ここで生きる理由を――「月下藍」になるという道を教えてくれた。

 引鶴は、己が抱えていた苦しみを、氷雨たちに明かしてくれた。

 「月下紅」たちは、「浮橋屋敷」の仕事の数々を教えてくれた。


 「浮橋様」は、氷雨が生きることを赦してくれた。

 雪代は、氷雨の描く絵をいつも褒め、氷雨を慈しんでくれた。



(おれも……皆に、少しでも、おれにできることを返したい……)



 胸元に手を当てる。規則正しく波打つ心の臓。

 できることを、返す。



――お前は、その苦しさに心を寄せることができる。



 氷雨は、ゆっくりと口を開いた。そして、匂い袋をぎゅっと握りしめた。

「まず、この倉の片付けをしよう。きちんと薬草を元の引き出しに戻そう」

 無言で引鶴がうなずく。



「それから……匂い袋を作るよ。引鶴の分と、引鶴の妹さんの分を」



 すう、と息を吸い込む音。それはぽつりと雨が一粒落ちるように小さく、しかし確かな音だった。


「引鶴には、嗅いだらすうっと心が落ち着いて、今日も頑張ろうと思えるようなものを。妹さんには、目が覚めた時、ぱっと気持ちが明るくなるような、そんな香を」


 連翹が柔らかく微笑んだ。

「うん、いいね。ぼくも作るよ。どんな薬草を使おうか」


 引鶴は、しばらく呆然と二人を見ていた。大人になり切っていない細い体を覆う、白い着物。そこに二人分の影が映り込む。それを静かに撫でて、彼はふと、口角を曲げた。



「馬鹿真面目だなあ、二人とも」

 

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