十二 月の友を訪ねよ


 狩衣かりごろも 袖の涙に やどる夜は 月も旅寝の ここちこそすれ(千載509)



「『橙の試し』は口頭試問。でも、こまごまとした知識を早くつけるには、本が一番だと思ってるんだ」

「連翹も字が読めるんだ」

「まあね。……師匠や『月下紅』から試しの範囲を教わるというのも手ではあるけど、ぼくにとってはどうも時間がかかる」


「役事所」のすぐ隣にある「書庫蔵」は、あやかしでも現れそうな、ものものしい雰囲気をもって二人を迎えた。

「おれ、ここには入っていけないような気がしてた……」

「まさか、立ち入りは自由だよ」

 そう言ってあっさりと扉を開けた連翹に続き、氷雨は薄暗い蔵の中へと足を踏み入れた。


「あ、冷たい……」

「蔵の中だからね」

 扉が閉まる。途端に埃の匂いがわっと広がり、氷雨は息を飲んだ。入り口近くにあった手提灯を連翹が手に取ると、その動きに反応してか、蝋燭ろうそくの火のように危うくも美しい、「月下蛍」の光が灯る。


 蔵の壁はすべて書棚になっており、そこには本がずらりと並んでいた。触るだけで崩れてしまいそうな古い本から、製本のしっかりした新しい本までが、きちんと整列されている。灯りを受け取った氷雨は、それを物珍しそうに眺め歩く。

「上の方の本を取りたいなら、梯子はしごを使うんだ」

「へえ……」

 連翹は慣れた様子で蔵の奥の方まで向かうと、そこで手を振った。その時初めて、氷雨はそこに誰かがいることに気づく。だんだんと慣れてきた目を凝らす。

 こじんまりと設えられた机の元には、一輪挿しのように目を引く紅色。

「『本の番役』の『菜摘なつみ』さんだ。よく世話になってる」

「初めまして……氷雨と言います」

「彼女が、この本の多くを蒐集しゅうしゅうしたんだ。すごいだろう」

「菜摘」と紹介された「月下紅」は、髪の毛がぼさぼさで、分厚い眼鏡をかけている。ただその瞳は涼やかで、初対面ながら、彼女は「本の番役」にふさわしいように思われた。

 そんな彼女に、連翹がふっと話を振る。

「『例の本』、返ってきてます?」

「いや、まだ。随分な勉強熱心か怠け者のようだね」

 氷雨は首を傾げて、連翹を見た。

「『橙の試し』に関する書物を、もうひと月ずっと借りている人がいるんだよ。複写があるから、別にいいんだけど、誰なのか気になっていてね」

 思わず首を傾ける氷雨。

「ひと月ということは、夏からか。試しは冬なのに、随分と早いね」

「だから、もしかして『月下藍』を目指している人なんだろうと睨んでるのさ」

 連翹はこくんとうなずいた。そして、ほんのりと肩に積もった埃を払いながら、話を続ける。

「知り合いの『新月』に聞いてみても、心当たりがないようでね。菜摘さん曰く、借りていったのは『新月』だそうだ。まあ当然か。でも、流石さすがに顔は覚えていないようで……」

「私は、本の内容なら覚えられるが、人の顔はさっぱりなんだ」

 菜摘が肩をすくめ、首をふるふると振る。

「『本を早く返せ』と張り紙をしたこともあったんだけど、複写があることを知っているんだろう。返しはなかった。氷雨くん、心当たりはある?」

 軽く身動きすると、夏の生ぬるさから隔絶された空気が、幽霊の手のように氷雨の肌を撫でる。氷雨は髪を軽く掻きながら、首を振った。

「心当たりはないよ。ただ……こんな探し方はどうかな?」


 翌日。

「氷雨くん、字も絵もうまいね」

 菜摘が覚えていた問いを筆でしたためながら、氷雨は少しうつむいた。

「まあ……。絵は我流だけど、字は昔……ここに来る前に、おれの家族ともいえる人が教えてくれたんだ。毎夜毎夜、こっそりと。字を学ぶのは、新しい絵の描き方を教わるみたいで、楽しかった」

 ひとつひとつの文字を指差しては、ころころと鈴のように笑う雪代の姿を思い返しながら、氷雨は軽く息をついた。

 

「浮橋様」――雪代と氷雨は今、川上と川下のように、分け隔てられている。

 それなのに、つい先程の記憶のように、幾度も浮かぶ思い出の数々。

 指の先をなぞる紙のざらつきは、あの時二人で暮らしていた部屋の障子窓の感触を思わせる。……全てがつながっているようで、思わず指の力を強めた。


 そしてその数刻後。 

「月下長屋」の渡り廊下に、ある張り紙が出された。

 

『問 の葉の名答へよ。又、食用とせらるる部位と、の効能つまびらかに答へよ。

 答へ知る者、廿三にじゅうさん日、正刻せいこく、北東、塀の見ゆる部屋へべし』

 そんな問いとともに、葉の絵が描かれた張り紙が。


 亥の正刻を待つ氷雨の部屋には、窓を通し、鏡のように澄んだ月光が細く入り込んでいる。空が漆黒に馴染み、従者のように広がる薄雲を静かに引き連れる時間。

「蝶の捕り役」の前、連翹とともに自室で待っていると、ふと戸を叩く音がした。

「来たね」

 戸の近くにいた連翹がさっと立ち上がり、戸を引く。すると、そこには見覚えのある顔がいた。


「あれ、引鶴ひきづるだ」


「くわきり」の実が成っているからと、氷雨を「植生倉」に連れていった「新月」。氷雨は驚いて、思わず猫っ毛頭の少年を指差した。

「え、氷雨くん、知り合いかい?」

「あ、氷雨、あの張り紙はお前が書いたんだ?」

 唇の間から見える隙っ歯。困惑している連翹を尻目に、氷雨は引鶴を指差したまま固まっていた。

「別件で来たと思っていやがるな?……答えは『くじさか』。食べられるのはつぼみ、花、実。蕾と花は咳止め、は肺の病に効く。正解だろ?」

 氷雨が目を見張る。菜摘から預かっていた答えと同じ、すなわち正解だった。それを聞いた連翹は、氷雨の隣で頬を軽く膨らませる。

「本を返してくれよ!」

「ああ、それは悪かった……。毎夜々々読んでいたら、思ったより時間をかかってな。でも複写があんだろ」

「それは、そうなんだけどさあ……」


 しっ、と氷雨は口の前に指を立てる。もうじき「蝶の捕り役」が始まるとはいえ、まだ眠っている「月下」もいるのだ。その仕草を見て、連翹と引鶴は揃って口をつぐんだ。そしてしばらくしてから、夜に穴から顔を出すもぐらのように、そろそろと再び口を開く。


「……それで、引鶴くんと言ったっけ、君ももしかして、『月下藍』を目指してる?」

「そうだけど、何か問題でもあんのか?」

 氷雨と連翹は、思わず顔を見合わせた。


「実は、ぼくたちは同じ志のもとにいる。もしよかったら、共に学ばないか?」


 引鶴が目を細め、猫のようににやりと口角を上げる。そして胡坐あぐらをかいた膝の上を、軽やかに叩いてみせた。



「いいぜ。我ら『新月』三人、望月もちづきとなりてあい照らし、『月下藍』を目指す友となろうじゃないか」


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