十二 月の友を訪ねよ
「『橙の試し』は口頭試問。でも、こまごまとした知識を早くつけるには、本が一番だと思ってるんだ」
「連翹も字が読めるんだ」
「まあね。……師匠や『月下紅』から試しの範囲を教わるというのも手ではあるけど、ぼくにとってはどうも時間がかかる」
「役事所」のすぐ隣にある「書庫蔵」は、
「おれ、ここには入っていけないような気がしてた……」
「まさか、立ち入りは自由だよ」
そう言ってあっさりと扉を開けた連翹に続き、氷雨は薄暗い蔵の中へと足を踏み入れた。
「あ、冷たい……」
「蔵の中だからね」
扉が閉まる。途端に埃の匂いがわっと広がり、氷雨は息を飲んだ。入り口近くにあった手提灯を連翹が手に取ると、その動きに反応してか、
蔵の壁はすべて書棚になっており、そこには本がずらりと並んでいた。触るだけで崩れてしまいそうな古い本から、製本のしっかりした新しい本までが、きちんと整列されている。灯りを受け取った氷雨は、それを物珍しそうに眺め歩く。
「上の方の本を取りたいなら、
「へえ……」
連翹は慣れた様子で蔵の奥の方まで向かうと、そこで手を振った。その時初めて、氷雨はそこに誰かがいることに気づく。だんだんと慣れてきた目を凝らす。
こじんまりと設えられた机の元には、一輪挿しのように目を引く紅色。
「『本の番役』の『
「初めまして……氷雨と言います」
「彼女が、この本の多くを
「菜摘」と紹介された「月下紅」は、髪の毛がぼさぼさで、分厚い眼鏡をかけている。ただその瞳は涼やかで、初対面ながら、彼女は「本の番役」にふさわしいように思われた。
そんな彼女に、連翹がふっと話を振る。
「『例の本』、返ってきてます?」
「いや、まだ。随分な勉強熱心か怠け者のようだね」
氷雨は首を傾げて、連翹を見た。
「『橙の試し』に関する書物を、もうひと月ずっと借りている人がいるんだよ。複写があるから、別にいいんだけど、誰なのか気になっていてね」
思わず首を傾ける氷雨。
「ひと月ということは、夏からか。試しは冬なのに、随分と早いね」
「だから、もしかして『月下藍』を目指している人なんだろうと睨んでるのさ」
連翹はこくんとうなずいた。そして、ほんのりと肩に積もった埃を払いながら、話を続ける。
「知り合いの『新月』に聞いてみても、心当たりがないようでね。菜摘さん曰く、借りていったのは『新月』だそうだ。まあ当然か。でも、
「私は、本の内容なら覚えられるが、人の顔はさっぱりなんだ」
菜摘が肩をすくめ、首をふるふると振る。
「『本を早く返せ』と張り紙をしたこともあったんだけど、複写があることを知っているんだろう。返しはなかった。氷雨くん、心当たりはある?」
軽く身動きすると、夏の生ぬるさから隔絶された空気が、幽霊の手のように氷雨の肌を撫でる。氷雨は髪を軽く掻きながら、首を振った。
「心当たりはないよ。ただ……こんな探し方はどうかな?」
翌日。
「氷雨くん、字も絵もうまいね」
菜摘が覚えていた問いを筆でしたためながら、氷雨は少しうつむいた。
「まあ……。絵は我流だけど、字は昔……ここに来る前に、おれの家族ともいえる人が教えてくれたんだ。毎夜毎夜、こっそりと。字を学ぶのは、新しい絵の描き方を教わるみたいで、楽しかった」
ひとつひとつの文字を指差しては、ころころと鈴のように笑う雪代の姿を思い返しながら、氷雨は軽く息をついた。
「浮橋様」――雪代と氷雨は今、川上と川下のように、分け隔てられている。
それなのに、つい先程の記憶のように、幾度も浮かぶ思い出の数々。
指の先をなぞる紙のざらつきは、あの時二人で暮らしていた部屋の障子窓の感触を思わせる。……全てがつながっているようで、思わず指の力を強めた。
そしてその数刻後。
「月下長屋」の渡り廊下に、ある張り紙が出された。
『問
答へ知る者、
そんな問いとともに、葉の絵が描かれた張り紙が。
亥の正刻を待つ氷雨の部屋には、窓を通し、鏡のように澄んだ月光が細く入り込んでいる。空が漆黒に馴染み、従者のように広がる薄雲を静かに引き連れる時間。
「蝶の捕り役」の前、連翹とともに自室で待っていると、ふと戸を叩く音がした。
「来たね」
戸の近くにいた連翹がさっと立ち上がり、戸を引く。すると、そこには見覚えのある顔がいた。
「あれ、
「くわきり」の実が成っているからと、氷雨を「植生倉」に連れていった「新月」。氷雨は驚いて、思わず猫っ毛頭の少年を指差した。
「え、氷雨くん、知り合いかい?」
「あ、氷雨、あの張り紙はお前が書いたんだ?」
唇の間から見える隙っ歯。困惑している連翹を尻目に、氷雨は引鶴を指差したまま固まっていた。
「別件で来たと思っていやがるな?……答えは『くじさか』。食べられるのは
氷雨が目を見張る。菜摘から預かっていた答えと同じ、すなわち正解だった。それを聞いた連翹は、氷雨の隣で頬を軽く膨らませる。
「本を返してくれよ!」
「ああ、それは悪かった……。毎夜々々読んでいたら、思ったより時間をかかってな。でも複写があんだろ」
「それは、そうなんだけどさあ……」
しっ、と氷雨は口の前に指を立てる。もうじき「蝶の捕り役」が始まるとはいえ、まだ眠っている「月下」もいるのだ。その仕草を見て、連翹と引鶴は揃って口をつぐんだ。そしてしばらくしてから、夜に穴から顔を出すもぐらのように、そろそろと再び口を開く。
「……それで、引鶴くんと言ったっけ、君ももしかして、『月下藍』を目指してる?」
「そうだけど、何か問題でもあんのか?」
氷雨と連翹は、思わず顔を見合わせた。
「実は、ぼくたちは同じ志の
引鶴が目を細め、猫のようににやりと口角を上げる。そして
「いいぜ。我ら『新月』三人、
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