十一~二十

十一 逢瀬は遥か藍の色なれど


 瀬を早み 岩にせかるる 滝川たきがわの われても末に はむとぞ思ふ(詞花229)


 ぶわ、と膨れ上がるように、額から幾羽もの黒蝶が飛び出し、氷雨ははっとした。

「今日の蝶は随分と多いな」

 悪夢は人それぞれ異なる。同じ夢を何度も何度も見、一羽の蝶を肥え太らせる者もいれば、数々の悪夢を日ごとに見る者もいる。顔色の悪い婦人から出てきたのは、後者のようだった。いずれにしても数が多い。

「氷雨、何羽捕まえた」

「五」

 深山も蝶捕り網を使って参戦する。蝶は竿から垂れ下がった布に止まったり、その布の間をかき分けてひらひらと飛んだりと、様々な様相を見せる。しかしその動きも、香によってだんだんと鈍らされていく。

「落ち着いて、止まったところを籠に誘え」

 汗を拭う。色鮮やかな着物をまとったこの婦人は、見るからにやつれ、目元には濃い隈がある。一羽一羽が、この「宿主」を苦しめていたのだ。そう思うと、氷雨はぞっとする。

 そしてそれを、「浮橋様」が全て喰らうのだ。


 蝶を捕らえる。竹籠の中に次々と群れ、かさかさと音を立てる虫たち。それを肌で感じながら、この蝶を「浮橋様」が――雪代が喰らう姿を想像する。蝶の羽をつまみ上げ、口の前まで持ってくる。そして大きく口を開き、ぱたぱたと動く蝶を、そのままに丸呑みする……。


――「月下藍」を目指す気はない?


 昨日の連翹の言葉を思い返す。

「月下藍」。「浮橋様」の最も近くに仕える「月下」。今はまだ、蝶を捕る一介の「新月」。容易に「浮橋御殿」に近づくこともできない。それでもいつか「月下藍」になれば……。


「氷雨、それが最後の蝶か」

「おそらく」

 見ると、婦人の顔色が心なしか少し和らぎ、寝息が穏やかになっている。氷雨は、懐から布を出して、彼女の頬を軽く拭った。「月下蛍」が再び明かりを灯す。世界を覆う漆黒の闇は、光と混じり合い、藍色がかって見える。


「これが、今日分の蝶です」

「役事所」の一角にある「献上役」の詰所に行く。そこでぶつかった視線に、氷雨の背はひやりとした。

「随分な量だ。お前の黒蝶を混ぜてはいまいな」

「……お戯れを」

 あの日「警護役」として氷雨を止めた「月下藍」の一人だ。例の一件があったせいか、氷雨をことをよく思っていない「月下藍」もいると聞く。彼はその筆頭だった。

「まあいい。今日も今日とて、余計なことはするなよ」

「承知いたしました」

 竹籠を取り上げ、「月下藍」は帳簿に印をつける。彼が座る詰所の机の後ろには、既に集まった竹籠が、山のように積み上がっていた。その中で蝶が音を立てるから、留まることを知らない風の音を聞いているような気分になる。


「失礼しました」

 詰所を出て少し歩いてから、氷雨は溜め息をついた。

(「月下藍」になるのは、深山が懸念していたように、険しい道のりかもしれないな……)

 それでも、「浮橋御殿」に目を向ければ、否が応にも感じる、「浮橋様」――雪代との距離。

 その距離は氷雨をじりじりと焦がし、そして残った灰が、彼に寂寞せきばくの苦しみを与える。


 われても末に……。


「や」

 近くで声が聞こえて、氷雨は意識を戻した。見ると、手招き草の布を手にした連翹が立っていた。

「蝶を渡してきたところ?」

「うん。連翹は?」

「……ぼくは、『蝶捕り』が早く終わったから、葉山師匠に頼まれた仕事をやっていた。香の褪せた布を、『宿主座敷』で回収して、交換するんだよ。……淡い香も、なかなかに乙なものだと思わない?」

 そう淀みなく話すと、布を抱きしめてすうっと吸い込み、恍惚とした表情を見せる連翹。氷雨はその姿に少々呆れながらも、色が落ち、より軽やかに見える布を眺める。それから、契機を伺うように、ちらりと連翹を見た。


「……昨日は、ありがとう。『月下藍』になると考えたら、おれが生きるための道筋が、すっと立ったような気がする」

 連翹は、香を吸い込むのを止め、じっと氷雨を見た。それから、不思議そうに顔を傾けた。

「礼を言う必要はないよ」

「え?」

「実は、『月下藍』を目指すという話は、遠慮してまだ誰にも言っていなかったんだ。『染め布役』の担い手にならぬと言うのと同じだからね」

 光を透かす連翹の髪が、すくめた肩につられて揺れる。

「だから、ぼくは言ってしまえば、君を利用して、自分の意志を通したと言える」

いさぎよいね」

 あっさりそう言い切った連翹は、鼻先を軽くこすってみせた。

「……まあいずれにしても、『月下藍』を目指すというのが君にとって望ましいことなら、それはよかったよ。ぼくにとって得ばかりというのは、さすがに気が引けるからね」

 詰所から、竹籠を持った「献上役」が出ていく。「献上」の時間らしい。黒蝶が振りまく赤紫色の光が藍色の衣を照らして、妖しく、美しくきらめく。それが「浮橋御殿」に向かっていく姿に少しばかり視線を向けて、氷雨は息をついた。

「連翹は、匂いだけでなく、他のことにも特別嗅覚が働くのかもしれないね」

「どういうこと?」

「『月下藍』になるという目標を、嗅ぎ当てたかのようにおれに授けたから」

 生きることを赦され、赦されたはいいものの彷徨っていた蝶を、「手招き草」の香で導くように。

「ふうん?」

 ますます首を傾げながらも、連翹は口角を上げた。

「まあ、褒められたってことだろう」

 そして、首の角度を元に戻し、ぱちんと手を叩いた。


「そうと決まったらまず、初春に行われる『橙の試し』の勉強から、だね」


「『橙の試し』?」

「そう。『月下藍』はあくまで最終目標であって、ぼくたちはまず『月下橙』にならなくちゃいけない。そのために『橙の試し』を受ける必要があるんだ」

「なるほど……」

 そう言いながら氷雨は、連翹の腕の上に積み上がった布を、幾分か持っていく。連翹は「ありがとう」と言いながら、ふと思いついたように片眉を上げた。


「氷雨くん。この後、良かったら『書庫蔵』に行かない?」

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