第一話 陰陽師と虎 ⑧
三
「見てください、おひつが空です」
伊惟が泣き出しそうな顔で訴える。虎丸が座敷に寝付いて三日目のことだ。幼い頃家が貧しくて苦労した伊惟にとって、米がないというのは耐えようもないくらい恐ろしいことなのだ。
空のおひつを見ると、台所の土間の寒さがいっそう身に
「日銭をもらえる仕事を探すしかありません!」
二人で顔をつきあわせている台所に虎丸が現れた。昨日あたりから退屈だと起きだしている。
「なんだなんだ、
伊惟がその言葉に
「ありがとうございます。でもこの近くには鹿や猪がいるような山はないんです」
「そうなのか? 東の地は山ばかりだと思っていた」
虎丸は軽く驚いたような顔をする。都の周辺しか知らない
「米の当てはあるのか?」
さすがに心配そうな顔になる居候に、晴亮は苦笑して答えた。
「江戸には質屋という便利な店があるんですよ」
晴亮は屋敷の奥、母が生きていた頃に使っていた部屋に向かった。軽くなった
流水に葉や花が浮かぶ着物、里山に遊ぶ子供を描いた着物を
(申し訳ありません、母上。前の着物も戻せないうちに)
これで二、三日分の米を買う金にはなるだろう。その間に陰陽を必要とする客が来てくれればいいが。もしだめなら外に出て占いでもするしかない。
「では町へ行ってくるよ」
伊惟に留守を命じて屋敷を出ると、虎丸が追ってきた。晴亮の着物を雑に着ている。背も高いし体に厚みもあるので丈が合わず、いかにも借り物めいている。
「俺も行く」
「と、虎丸さんは安静にしてなければ」
「別に、ただ歩くだけなら問題はない。背中の傷はもう
虎丸は物珍しげにきょろきょろと周囲を見回した。
「この辺りは民が住んでるのか?」
背の低い、小さな家々が肩を寄せ合うように建っているのを眺めている。何軒かはまだ屋根に雪を載せていた。
「はい、そうですね」
「ずいぶんこぎれいに住んでるんだな。俺のときは、棒をたてて布をかぶせたような家とも言えないところに住んでいるものもいたぜ」
やがて店が集まる通りに出て、虎丸はいよいよ目を輝かせた。
「人が多いな! それに家が重なっている! 店に品物が多い! これは豊かな町だのう!」
行き過ぎる人々を見て目を細めた。
「みんな肉付きがよくて楽しげだ……俺の世では通りに死人がほったらかしにされていた。平民はみな飢えて、目ばかりがぎらぎらと暗くにごっていたのに……みな幸せそうだ。これも
いや、源氏は一度
晴亮は言いたい言葉をぐっと押し殺した。
「お、なにかいい匂いがする」
虎丸が鼻をひくつかせた。その顔の先には団子屋の屋台があって、
「あれは、団子か? ずいぶん大きいものだな」
虎丸のいたところでは団子はもっと小さく丸めていた、と親指と人差し指で銭貨くらいの大きさを作る。
「江戸ではこの大きさで普通ですよ」
晴亮は小銭を数えると屋台の前に立った。このくらいの
一本を虎丸に渡すと、あつあつなのに無造作にかぶりついた。
「あつ! う、うま!」
口いっぱいにいれて目を丸くしている。
「なんだ、この味は! からい、だが、あまい! うまいぞ」
「醬油味ですが……虎丸さんの時代にはもしかしてなかったのかな。魚などを食べるときにはなにをつけてました?」
「塩かひしおだな」
今のような醬油の完成を見るには、あと六百年は待たなければならない。晴亮には醬油のない食事など考えることもできなかった。
「うまい、うまいなあ!」
虎丸は
虎丸の前にずいぶんくたびれた着物を着た子供が二人、同じように大きく口を開けて立っていたのだ。冬だというのに着物一枚きりで、
兄弟なのか、二人ともよく似た顔をしている。髪は何日も
虎丸は口から串を離して右に振った。子供の顔がそれにつられて動く。今度は左に動かすとやはりついてくる。
「…………」
虎丸はふっと笑ってその串を子供たちに差し出した。子供たちはちらっと虎丸を見ると、年長の方がぱっとその手から串を奪った。いきなり駆けだしていく。
「転ぶなよ!」
虎丸がその背に声をかけた。腕を引かれていた幼い方が肩越しに振り向いて小さく笑った。
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