第一話 陰陽師と虎 ④


「もう大丈夫ですよ」

 しゅんしゅんと鉄瓶が湯気を噴き上げている。炭を倍増して暖めた部屋で男の治療をした医師は、そう言って診察箱を閉めた。

「傷は深かったんですが、重要な筋や骨は傷つけられていませんでした。とても強い筋肉を持っているようですしね」

「ありがとうございます、たけ先生」

 同じ町内に住む武居医師は長崎で蘭学、とくに外科を学び、男の傷も半刻ほどかけて縫い合わせてくれた。まだ若いが技術は確かだ。

「血をたくさん失っているようなので、滋養のあるものを食べさせてあげてください。あと、安静に」

「ありがとうございます」

「それにしてもあのきずあと、まるで爪のようでしたが──熊など出てないですよね?」

 元々武家の出だという医師は鋭い目で晴亮を見た。その視線にとっさにうつむいてしまう。

「ええと、そのう……」

 祠から鬼が出てきたのだ、と長崎帰りの医師に言って信じてもらえるものかどうか、晴亮がしゆんじゆんしていると武居はうなずいた。

「ご事情があるようなので聞かないことにします。でもなにかお手伝いできることがあれば、おっしゃってくださいね」

 大柄な医者なのに案外と静かな所作で立ち上がる。おそらく今でも剣の鍛錬をしているのだろう。

「あ、あの、武居先生。その……お代の方なんですが、少し待っていただいてもよろしいでしょうか?」

 晴亮は武居の袴のすそあたりに手をついて言った。武居は振り向いてにこりと微笑む。

「はい、ご都合のよろしいときで結構ですよ」

 このぼろ屋敷に呼んだときから治療費のことはあきらめていたのかもしれない。武居はさばさばした口調で言うと、屋敷を去った。

 晴亮は医者を見送ったあと、男が寝ている部屋に戻った。背中を縫ったので今はうつぶせにされている彼は、すうすうと穏やかな顔で寝息を立てている。

 鬼と戦っていたときは恐ろしい顔をしていたが、こうやって眠っていると穏やかで優しくも見える。

 とにかく、男が目覚めたら話を聞かなくては。彼はなにものなのか、あの異形はなんなのか、なぜ祠からでてきたのか。

 林の中に消えてしまった、平気で人を傷つけるようなものを、野放しにしていて大丈夫だろうか?

 男の枕元に着物や持ち物が置いてある。矢が三本ほど入った矢筒、古い形の、おそらく太刀と呼ぶべきだろう逆さ反りの剣、革と銅で作られた、鹿の皮で作られた行縢むかばき、金糸でほうおうしゆうされた小銭入れ、それに紙に包まれた文のようなもの(中は見ていない)。

 着物とはかまは血と泥に汚れていたので伊惟に洗わせている。明日干せば一日で乾くだろう。足は草履でもでもなく、足先を包む革のくつと呼ばれるものを履いていた。

 姿だけ見るとずいぶん古めかしいかつこうだ。

 古めかしいと言えば、頭も月代さかやきらず総髪を無造作に頭頂でくくっている。まあ自分も月代は剃ってはいないが。

 しばらく寝顔を見守っていたが、ぐっすりと眠っているようなので、晴亮は静かに退室した。


 翌朝、中庭にある井戸で顔を洗っていると、伊惟の叫び声が聞こえた。「師匠せんせい、師匠ー!」と叫んでいる。

 晴亮は首に手ぬぐいをひっかけて、声のする方へ走った。

「あ、師匠! とめ、止めてください!」

 見ると重傷のはずの男が起きていて、外へ出ようとしている。伊惟はその脚にしがみついて止めていた。

「ちょ、ちょっと! なにをしてるんです、寝てなきゃだめです!」

「あいつはどこへいった!」

 男は晴亮を見ると、青ざめた怖い顔で怒鳴った。

「あいつは、カスミはどこだ!」

 男は怒鳴ると長い脚を振った。伊惟があっさりと放り投げられる。

「あ、あの異形ですか?」

「そうだ、あいつを逃がしてはならん! あいつを、ううっ──」

 言いかけて男は廊下にひざをついた。背中に回された布に血がにじんでいる。

「と、とにかく安静にして。あなたは大怪我してるんです」

「こんな怪我──」

「こんな怪我でもどんな怪我でも大怪我なんです! それにそんな恰好で外へ出てどうするつもりなんですか!」

 男は下履きだけだった。晴亮の言葉でようやく自分の状態に気づいたのか、周りをきょろきょろと見回す。長く続く廊下やそこから見える内庭、広がる青空。

「ここは……どこだ? 御所か」

 男の言葉に思わず口元が緩む。

「そんなたいそうなもんじゃありません、ここは私の家です。私は寒月晴亮」

「かん、げつ?」

「はい。さあ、まずは床へ戻って。そこでゆっくり話を聞きます。カスミという異形のこともそのあと相談しましょう」

 晴亮は男の腕の下に自分の肩をいれた。男はもう騒がず、晴亮に体重をかけて立ち上がった。

「伊惟、を頼む。そのあとあさの用意を」

「は、はい」

 伊惟がぱたぱたと駆けていった。男は軒先から空を見上げ、まぶしげに顔をしかめた。

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