第一話 陰陽師と虎 ③

 ──がああああっっっ!

 異形がえた。青い肌の、白い髪を振り立てた、犬に似たとがった鼻を持った人型だった。二本足で立ちあがるとその姿はおよそ十二尺(三・六メートル)、額から真っ白な骨のような、三日月のような一本角が生えている。

(鬼? 化け物! あやかし!? 物の? ようかい!?)

 頭の中にさまざまな言葉が行き交う。初めて見る人外の生き物に、ひざから下ががくがくと震えた。

 だが恐怖はより大きなきようがくに打ち消された。その恐ろしいものの首にしがみついている男の姿が見えたからだ。

 そう、確かに鬼の首に足を絡め、両手で頭を抱えているのは人間だ。黒っぽい着物を着てはかまをはき、腰に鹿の毛皮を巻いている。背中に矢筒と剣を背負っているのが見えた。

 異形は自分の首にとりついている男を引きがそうとしていた。その目が腰を抜かしてへたりこんでいる晴亮と伊惟を捕らえる。

「ばかっ! 逃げろ!」

 異形の頭にとりついていた男がそれに気づいて叫んだ。言われるまでもなく晴亮たちは逃げようとしたが、どうしても下半身が言うことをきかない。

 異形が地響きを立ててこちらに突進してきた。晴亮はとっさに懐の中に納めていた符を取り出し、それを異形に向かって放つ。

 異形の手のひらに符が張り付き、それは小さな炎を上げた。

「ぎゃう!」

 異形が声をあげる。晴亮も驚いた。まさか効き目があるとは思ってもいなかったからだ。その驚きが体を押してくれた。

「逃げろ、伊惟!」

 自分にそんな力があったとは知らなかった。晴亮は少年の腕を持つと、地面を引きずって駆けだした。

「せ、師匠せんせい!」

 伊惟の悲鳴。目の前に青い壁が立った。異形は飛び上がり、二人の頭を越えて晴亮の目の前に立ちふさがったのだ。

 青い豪腕が振り上げられる。鋭い爪が鬼灯ほおずき色に染まった空の中に光って見えた。晴亮は恐怖に目を閉じてしまった。

 ガキン!

 金属的な音が頭の上で響いた。とっさに目を開けると、異形の首に取り付いていた男が晴亮たちのすぐ前に立ち、剣でその爪を受け止めていた。

 ギギギ、と耳障りな音がした。爪がやいばを削っているのだ。

 自分たちをかばう男の背は大きくたくましく、しかしその足はじりじりと押し込まれていた。

 異形がもう一本の腕を振り上げた。男が剣を滑らせ異形の角の先を叩き斬ったのと、振り上げた爪がその背をえぐったのはほぼ同時だった。

 異形は一声吠えると後ろ向きに大きく跳躍し、雑木林の中に消えた。

「待て!」

 男は叫んで追おうとしたが、その瞬間、背中から大量の血が噴き出し、それに押されるように地面に倒れ込んだ。

「ま、て……」

 男は雑木林に向かって手を伸ばした。だが、もう相手の姿は見えない。

 男の手が力なく地面に落ちたとき、晴亮はようやく呼吸をすることを思い出した。

「い、伊惟……無事か」

「は、はい」

 少年の声も震えてかすれている。

「怪我は」

「ありません、でも」

 二人は倒れている男を見た。切り裂かれた背からどくどくと血が流れている。

「な、中に運ぼう。それから医者だ」

「はい!」

 晴亮は伊惟に命じて家から敷布を持ってこさせた。その上に二人で男の体を乗せ、ずるずると引っ張ってゆく。乱暴な方法だが、意識のない相手を運ぶには仕方がなかった。そもそも六尺(一・八メートル)ほどの大きな男だし。

(いったい、これは現実なのか)

 自分の両腕に力がかかっているのに、晴亮はまだ夢を見ているような気分だった。

(鬼、あれは鬼か。鬼を封じてあるほこらなら鬼が出ても不思議はないのか。ではこの人はなんだ? なぜ戦っていたんだ、この人はいったいなにものなんだ)

 伏せている顔はまだ若そうだった。髪も乱れ、失血で青ざめているが、端整な、知性を感じられる顔立ちだった。

(助かってくれ)

 晴亮は祈った。自分たちを守った背中が忘れられない。

(私たちのために戦ってくれた人を失いたくない)

 地面に跡を引く血の色は、夕闇の中にじきに見えなくなってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る