5話 暗躍する運命


 そうして迎えた、とある夜。

 

 王都の誇る巨大で豪奢ごうしゃな劇場『オルガ』に、アリサとロイクは居た。

 ドレスアップして潜入したふたりの目の前には、仮面で身分や素性を隠し、好き勝手に振る舞う特権階級の人間たちが溢れている。ダンスに興じたり、密着したまま会話をしたり、グラスのワインをあおったり。


反吐へどが出そうだ」


 思わず呟いたアリサの声は小さく、喧騒に負けてロイクの耳までは届かない。

 

「何か言ったか?」

「いえ。うっぷ」


 思わずそう吐き出したアリサに対して、ロイクは優しい言葉をかけた。

 

は窮屈だろう。今夜だけだ。なんとか耐えてくれ」

「わかってます」

 

 

 ――虎穴こけつらずんば虎子こじを得ず。



 の有名な故事成語を思い浮かべ、アリサは肩に力を入れた。

 ふたりがさりげなく向かうのは、ステージ脇に設けられた特別観覧席の入り口付近だ。


 近づいていくと、バニラのような香りが鼻をかすめる。心の壁を溶かし、何もかも話してしまいたくなるような甘く官能的な香りは、アリサの脳内に警鐘けいしょうを打ち鳴らした。


「っこの香り……危険です」

「!」

「吸い込んではいけません」

「魔力を感じる」

「さすがですね。恐らくは、毒の一種」


 アリサは、添えていたロイクの腕の体温が上がったことに気づく。火魔法使いの彼は幼いころ、激高すると周囲に炎をまき散らす悪癖があったらしい。

 

「……どうか、冷静に」

「すまん」

 

 ロイクの怒りはごもっともだ、とアリサは思う。なぜなら、現在ラブレー王国を侵食しているのは、嫌なことを何もかも忘れられると評判のだからだ。

 

 出所は不明だが、オルガで開かれる『仮面舞踏会』でがたしなむことができる、ともっぱらの噂である。


 楽しむだけなら良いが、問題は、非常に高価で高い依存性があることだ。


 おかげで、トリベール侯爵家より先に破産する家が現れ――宰相補佐官であるロイクが調査に動かざるを得なくなった。


 

「毒……証拠があれば言うことはないが」

「厳戒態勢、ですね」


 屈強な護衛たちが、入り口を阻んでいる。ニコも、給仕きゅうじとしてさりげなく入ろうと試みたが、無駄に終わったと言っていた。ロイクが身分を明かすわけにはいかない。明かしたとしても、入れるかは微妙だなと頭上で苦笑が漏れる。

 

 特別観覧席で繰り広げられているナニカは、ここからでは窺い知ることはできないが、見上げたバルコニーから時折溢れる嬌声きょうせいとドレスの裾ではかるに――狂宴きょうえんに間違いない。


 

(せめてモノだけでも……) 

『アレ欲しいの? 取ってくる?』

(! 無理しちゃだめよ)

『……ダイジョブ』

 

 ずるり、とアリサの頭から何かが抜け出て軽くなる。そうしてにょろにょろと床をっていくのは黒蛇の影だ。


「あちらへ、ご興味が?」


 すると、観覧席を見上げるロイクにふらりと男が近寄り、声を掛けてきた。光沢のある黒の燕尾服でグレーのベスト、襟元に金色で鳥の形をしたラペルピンが刺さっている。金髪は前髪ごと後ろになでつけてあり、瞳の色は仮面越しに見る限り、薄茶色だ。仮面のせいで年齢は不明だが、恐らく二十代前半ぐらいだろう。


「ああ。なんだか楽しそうだなと思ってね」

「あそこへは、口添えがないと入れないんだよ」

「おや。それは残念だ。だが教えてくれてありがとう」

 

 ロイクは、さりげなくその男に金貨を一枚、握らせた。相手の口元がだらしなくニタァとゆるむのを見たアリサは、またしても吐きそうになるのをこらえた。仮面があるからこそ、口の動きが際立つ。そこへ欲望が漏れれば、嫌悪けんおしか感じない。


「どういたしまして。そうだなあ……次の、つきの日、今ぐらいの時間にさ。この裏のサロンに行くと……何か良いことがあるかもしれないなあ」

「ほう?」

「手土産に、赤いダリアを一本。ああ、ご婦人はご遠慮願いたいね」


 アリサはあら残念とばかりに、優雅に扇で顔をあおいで見せる。男は、満足そうに頷いてから、仮面越しでもねっとりとした視線を、アリサの肩へと向ける。華奢な鎖骨が見えている、素肌の部分だ。


 ぞわ、と寒気が全身を駆け抜けた。


「その代わり、ダンスを一曲。どうかな?」


 ロイクの体温がまた上がり、アリサは覚悟を決める。


「よろしくてよ。でも彼がヤキモチをきますの」

「その通り。すぐにお返し願おう」

「ははは! 一曲だけだよ」


 大丈夫、の意思表示で扇をロイクに預ける。

 腰に添えられた熱い手から離れるのに、アリサは勇気を使い果たした気分だった。

 

「では、レディ」

 

 キザな仕草で差し出された手を取ると、手袋越しでも感じる相手の体温が、気持ち悪かった。ロイクのはそう感じないのに、不思議だなと思考をできるだけ逃避させる。ただただアップテンポな曲が流れているダンスホールへとエスコートされ、お互いの息を合わせる間もなく強引なステップが始まった。周囲では、必要以上にべったりとくっつく男女が、所狭しとクルクル踊っている。


「なんて華奢な腰なんだ」


 相手の身体的特徴に直接言及するなどという、とてつもなく下品な振る舞いまで、仮面舞踏会マスカレードならば許されるのか。

 

「手首も細いし、肌は白いし……このまま連れ去りたいぐらいだよ」


 むせかえるような香水、汗、吐息、アルコールの混じった匂い。

 甲高い媚びや、腹黒い嘲笑。

 全てに吐きそうになりつつ、アリサは懸命にステップを踏む。この男は、恐らく『入口』だ。悟らせない。逃がさない。

 

「んふふ。ねーぇ? ダリアの花言葉は、ご存じかしらぁ?」


 脳内では、聖女の甘ったるい話し方を再生している。

 

「? さあ、なんだろう」

「あらぁ。ご存知ないなんてぇ。残念だわぁ。んふふふふ」


 アリサはターンの後で、そっと彼の顎を人差し指で撫でてやる。男はうっとりとしながら、軽く首を横に振った。


「まいったな。次までに調べておくよ……黒扇こくせんのレディ」


 アリサはそれに、ゆっくりと一度だけ頷いた。男は余韻を楽しむようにして手の甲にキスのフリをしてから、大袈裟なボウ・アンド・スクレープを披露する。

 もったいぶったカーテシーをしてみせ、ゆったりときびすを返したところで、ロイクの冷たい目線とぶつかる。


 歩いて戻りながら、乱れた息を整える。大丈夫、バレてなどいない。大丈夫だ――自分に言い聞かせながら、歩いていく。まるで彼にはスポットライトが当たっているかのように、どれだけ人がひしめいていても、アリサの目にはその姿がはっきりと映っていた。


「……出よう」


 ディリティリオが素早く背中を這い上り、戻ってきたのを感じてから、アリサは頷く。

 

 めいいっぱい楽しんだという演技をしつつ、すれ違う人々の特徴を何となく目に入れながら劇場から外に出ると、夜風が首元を撫でた。


 ふたりは、ようやく肺の奥まで空気を吸い込む。


「店まで送ろう」


 ロイクが、アリサの腰に手を添え馬車へ誘導しながら、静かに言う。

 

「良いのですか」

「うむ。グルグル走るよう、言ってある。もうしばらく付き合え」


 深夜の月は驚くほど明るいと思ったら満月だ、とアリサは肌寒い夜の空を見上げる。前世なら、中秋の名月と言えるだろう。

 寮監には三日前から『家の用事で』と外泊届を出してある。店での寝泊まりに支障はない。

 


 ――仕掛けは、施してきた。そして手の中には、ディリティリオがもたらした物的証拠がある。それでも……覚悟しなければならない。

 


 愛と太陽の女神テラは、やはり過酷な運命を用意していた。


 

 この王国をむしばむ甘いバニラの香り。それは間違いなく、毒だ。毒は闇魔法でもって作られる、と太陽神教会の教義によって人々に信じられている。そしてこの国で、闇魔法の使い手と認識されているのは、アリサだけだ。聖女がひとりなら、黒魔女もひとりなのである。


「無事のお戻りで」


 馬車の中では、ニコが待っていた。仮面から眼鏡へ掛け替えるのを手伝ってくれ(さりげなく体でロイクの視線を遮る徹底っぷり)、背後のコルセットを緩めてくれる。


「はあ。苦しかったあ」

「ですよね」

「さすがに疲れたか」

 

 気遣われると、弱音がぽろりと漏れた。


「ん……死にそう」

「アル?」

「アル様?」

「ああ、いやぁ。コルセットというやつは、命を削りますね。女性ってすごいなあ」

 

 慌てて誤魔化すアリサを、ふたりはよほど疲れたのだと思ってくれたらしい。店に着くまでそっとしておいてくれた。

 

  

 このふたりに嫌われたら、立ち直れないかもしれない――アリサはぎゅうっと拳を握りしめながら、不安を噛み殺した。

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