鳥兜 二
冬の雨は冷たい。夏のように轟々降るわけではない、その代わりにしとしとと長時間しつこい。じっとりとまとわりつく水気。ロングスカートなんか履いた日には、裾の方が無残なほど水浸しで泣きたくなってくる。水浸しと言えば、右肩の方もだいぶ濡れているようだった。あれだけ雨になると天気予報で言っていたのに、邪魔になるからと折り畳み傘で済ませたのがそもそもの間違い。身を窄めても傘の範囲に全部が入らず、直下にしたたる水滴を受けてしまっている。
――ああもう、最悪。
こんな日に出かけるんじゃなかった、と何度自分を呪っても仕方がない。どれほど歩いても家に着く気がしない帰路を、白鳥沙友里は死んだような目で歩き続ける。
今日は休みだった。仕事がなければ寝て過ごすと決めている沙友里にとって、休日に、それもこの寒い冬の日に、外に出歩くのは極めて稀なことである。
現在時刻は午後四時。沙友里は十時頃に家を出ると電車を乗り継ぎ渋谷に向かい、特に目的も定めずに方々を歩いた。午後一時過ぎに軽めの昼食を取り、そこから一時間程度、また宛もなくそこここをぶらついていた頃に降り出してきたのが、この雨である。
本降りになる前に帰ってしまえば、少なくとも電車で家の最寄りまで来ておけば、今ほど酷いことにはならなかったのに、と自分でも思う。が、今日の気分がそうさせはしなかった。それを今も引き摺っていて、さっさと帰って今の惨めなずぶ濡れ状態から解放されたいと心底願う気持ちと、帰った後にびしょびしょの服を洗濯機に放り込んで物思いに耽る惨めさを憂う気持ちとに挟まれて、自分でも何がしたいのか分からず、気分は沈み込む一方である。
――牧さんや修さんが見たら、びっくりするだろうな。
不意に浮かんでくる同僚の顔。
――局長は、心配してくれるだろうか。
日頃、父のように慕っている的矢局長の顔も浮かぶ。しかし気休めにはならず、心はマイナスに沈みゆく一方である。
深々と、魂を吐き出すかのように息を吐く。白い靄が、雨に打たれて消えてゆく。
昨日の夜、帰宅した瞬間に封を切った手紙――それさえなければ、こんな雨の日にわざわざ外を出歩くことにもならなかっただろう。
同窓会の案内状。
欠席に丸をつーけた――と、歌詞のように簡単に決断できれば良いのだが。
大学を卒業して、二年になる。もうそろそろ誰かが言い出すだろうと思ってはいたが、いざ実際にやってくると、感じる戸惑いは想像の比ではなかった。
次々と脳裏に浮かぶ、懐かしき学友の顔。社会に出てから多少なりとも疎遠にはなったが、逢えばきっと楽しかろう。沙友理にとって大学生活は、本当に自分の足で人生を歩んでいると実感できた四年間でもあった。卒業の日には、レンタルの振り袖であったことも忘れて涙と鼻水でグジャグジャにして周りにドン引かれた、そんな気恥ずかしい過去も温かき思い出に変わりつつある。
だからこそ、今の自分が逢うことに躊躇いがあった。
九十九物怪取締局――。
白鳥沙友里の勤務先である。彼女はそれを、誰にも明かしていない。
実の親にさえ明かしていない。高校を卒業した時点で一人暮らしをしており、適当な役所の名前を言って誤魔化している。
学友に対しても同様で、本当の勤務先については誰にも明かしていない。
勤務して二年になるが、経験を積めば積むほど、人に説明できる仕事ではないと思い知らされる。
付喪神、器物妖怪による被害に対処する仕事――。
納得してもらうために、どう説明したら良いのか、検討もつかない。
そもそも付喪神って何? というところから始めないといけない上、説明できたとしても誰が信じてくれよう。部署の名前と職務内容を説明された後の学友たちの顔を想像するだけで、げんなりした気分になる。
親に対してと同じように誤魔化せば良いのかも知れない。しかし同窓会の席では、より深く掘り訊かれるかも知れないし、そもそも嘘だって上手くない。気のおけない学友に見栄を張っているようでもあって良い気持ちはしないし、それこそ、話の中に矛盾があって嘘を吐いているとバレた時の顔を考えると肝が冷えるような気さえする。
それならば欠席に丸を付ければ良いと自分でも思うのだが、それはそれで辛い。
見栄を張りたいわけじゃないのだ。たとえば自分がプー太郎だとして、それを友達に知られるのが恥ずかしくて今回は行けないとかだったら、気兼ねなく欠席に丸をつけられたと思う。次の同窓会では必ず――! という闘志も湧いて出るだろう。
どうしても危惧してしまうのは、この先ずっと同窓会の案内状が来るたび(そんな頻繁に来るものではないのだろうけど)、同じような逡巡に悩まされるのではないかと言うことである。
九十九物怪取締局――。
この職場を心底気に入っているからこその悩みなのだ。
今の仕事場に、一ミリも不満がないのである。
唯一、人に打ち明けにくいということだけを除けば。
今回の同窓会に対して、欠席を選択することは可能だろう。だがそれは、学友に逢いたいという自分の本音に背を向けることになる上、問題を先送りにしただけである。親しいものに対して、自分の仕事を説明できない――誇れない。それが沙友理にとっては、この上なく悲しいことのように感じられるのだった。
結局、どうして良いのか分からずに、考えを纏めたくて外に飛び出した。
そして途中で雨に降られ、考えは纏まらぬまま、ずぶ濡れの帰路に着いた。
この先、何をどうしたら良いのかの答えは見通せない。友達にも親にも相談できる内容ではないし、的矢や牧に相談する内容でもない。特に局長は自分以上に心を傷めそうで、絶対に打ち明けられない。
――雨がやめば、ちょっとは気が晴れるんだろうか。
自嘲気味に呟く。気がつけば渋谷のシンボル、忠犬ハチ公像が見えてきた。死んだ飼い主をいつまでも待ち続けたハチ公。今の自分と同じように、否それ以上にずぶ濡れになりながらも、頭をまっすぐ持ち上げている。その揺るぎなさ――。
――銅像にまで負けた気がするって、相当病んでるな。
もう帰ろうと思った。良い感じに体は疲れている。帰って風呂で温まって、冷凍食品のピラフの一袋でも腹に詰め込めば、眠気も来るだろう。普段は半袋と決めているが、今日は自制しないことに決めていた。
ハチ公口から駅へ入ろうとする。寸前で傘を閉じて、ポケットのスマホを持った。最近ICOCAをスマホアプリでやるようになって、わざわざカードを探す必要がなくなったのは楽である。
その時だった。
「――沙友理ちゃん? おぉい! 沙友理ちゃぁん!」
雨音や道行く人の足音、会話、そうした喧騒の中でも耳を突く声。びくっとして一瞬立ち止まり、考えるよりも先に足が勝手にするすると人の間を掻い潜って、改札横の案内看板の手前に体を押し込んだ。後続の人波を避ける術、上手くなったものだと我ながら感心する沙友理である。
ふっと一息吐いて顔を上げ、声の主の方を見た。傘を閉じて近づいてくる。今の自分とは百八十度異なる、溌剌とした笑顔。ボーイッシュに短く切り揃えられた髪と綺麗な二重瞼には、忘れようにも忘れられない印象があった。
「――杏美ちゃん?」
「やっぱり、やっぱり沙友理ちゃんだったね!」
いゃあ久しぶり――はしゃいだ声で両肩をばんばん叩かれる。今の気分に一番そぐわない人が来たなと胸奥では呟きつつ、しかしその陽気に言い知れぬ心地よさを覚えて、暫くの間、何も言えずにいる沙友理だった。
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