古扇 五
「で、結局ついてきちゃってたんですね」
土門修平の長々とした昔語り、それにオチを付けるような調子で沙友理が言った。修平は頷き、
「気づいたらポケットだの、鞄の中だのに入っていてね。何度捨てても帰ってくる。そのうち何かしらの鬼の形を持って襲いかかってくるんじゃないかって、最初のうちは一睡もできなかったよ」
「燃やそうとは思わなかったんですか? 付喪神の一番簡単な対処法でしょう?」
真っ先に考えたがね――と言いつつ、修平は右手の指で弄ぶ扇を忌々しげに見つめる。
「こっちが少しでもそれを考えた瞬間、姿を消しちまう。見事なもんさ。一度姿を隠すと、全然見つけられないんだからな。そうして、こっちが燃やすのを諦めて、存在を忘れた頃になってひょっこり帰ってくるんだ」
それは難儀な話だね――と的矢局長。
「彼岸に隠れられたら、こっちからは干渉の仕様がないからね。上手い手だよ」
「それで――結局諦めて手元に置くことにしたんですか?」
沙友理の呆れ声。だって仕方がないだろうと修平は顔を顰める。
「何をするったって、ただ傍にいるだけだからね。食われるわけでも、じわじわ生気を吸われるわけでもない。ここにいたいなら、いればいいさって思ったんだよ」
「ええぇ、それにしたって……」
猶も呆れた声を出す沙友理、その肩に手を置き、まあまあ――と宥める的矢局長。
「誰しも生まれ育った環境が違うからね。修さんにとって付喪神――いや、あっちの側に棲んでいる存在は、たぶん俺や沙友が感じるよりもずっと身近なんだよ。だって古扇の孔を覗いて向こうの世界を見た時、恐怖と同時に懐かしさを感じたんだろう。それもまた、縁――繋がりってことさ。繋がりって言えば、修さんとこことを繋げてくれたのも、その扇だったからね」
「――え? そうなんですか」
聞いたことなかった、と目を丸くする沙友理。だがそれ以上の詮索はできなかった。また長々と昔語りを強いられると思ったか、修平が素早く切り込んだのである。
「意外そうな顔をしてるけれど、僕だって沙友が何でここに来たのか知らないんだぜ」
「えっ? それは――まあ……あたしのことは、どうでも良いじゃありませんか。それより、局長、この古扇みたいなものって、他にもあるんですか? その、覗いたら物の怪の姿が見えるみたいな異能を持つものって……」
局長と修平は素早く視線を交差させ、局長が苦笑した。沙友理は詮索好きだが、基本的に自分のことについては語りたがらない。危機察知能力がウサギ並みにズバ抜けているから、話が好ましからざる方向に行こうとすると、即座に話題を別な方に向けてしまう癖がある。
そうさね――と、的矢は腕を組んで背中を椅子に預け、深々と葉巻を吹かした。
「眉唾なんて言葉も残っているように、古来、眉に唾を付けると狐に化かされないと言われていたね。後は、ほら、こんな風に指を組んで――」
そう言いながら左右の手で狐を作り、双方の人差し指と小指を互い違いに併せ、ぱっと指を開く。複雑に絡んだ左右の手の指。その真中に、ぽっかりと空間ができた。
「ここにできる穴のことを狐の窓という。日当たり雨の時に、ここから外を覗くと、狐の嫁入りが見えるなんて言われていた。周防の方では、船幽霊かどうかを見分けるためには、股覗きをすれば良いという話も残っている。いずれの方法も、普段は見えない異界を覗くためのものだ。それにもう一つある。修さんは覚えているだろう? ほら鰐口の一件の時に、電話で教えてやったじゃないか」
「ああ――半眼ですね」
半眼。瞑想中を表す目の形。視覚情報を制限して無我の境地に至るためのものであり、それが故に彼岸と繋がりやすいもの。鰐口の一件が解決した後、牧大輔に半眼について説明していた修平だが、あれはどうやら的矢局長の受け売りだったらしい。
「狐の窓も股のぞきも修さんの古扇も、人の目を強制的に半眼にするようなモノだと思えば良いよ。先入観にとらわれることを、“色眼鏡をかけて見る”なんて言うけれど、この世ならざる世界を見ようと思ったら、こうした異能のレンズを通さなくては見えないのだ。この世には物の怪も異界もない――そんな先入観の覆すために、また別の眼鏡をかける。まあ、それでも見えない人も、中にはいるようだがね」
「知ってますよ。牧さんのことでしょう」
沙友理が身を乗り出す。局長は頷き、
「牧さんほど“見えない”人も珍しいよ。修さんの古扇は、修さんの家筋と長く時を過ごしたこともあって、これを覗けば相当に見えやすくなる。俺も涼介も見える。むろん、修さんほどはっきりと見えるわけではないがね。――あれ? そういえば、沙友理は試したことあったかな」
ないですよ、とあっさり言う沙友理。試してみるか、と修平が扇を手渡そうとするのに先手を打って、
「でも、ここで試したってしょうがないでしょ。嫌ですもん。覗いた結果、事務所が付喪神だらけだって分かっちゃったら。見えないなら、見えないままで良いんです。気になりませんからね」
そんなもんかね、と大人しく手を引っ込める修平。その目は沙友理の表情を、ひたりと見据えて離さなかった。的矢局長は顎を撫でながら、
「知らぬが仏ってやつかね。まあ、それも良かろう。牧さんなんかは、あの圧倒的に“見えない”ってことが逆に強みになったりするからね。あのひとは、盆暮の魔風に小一時間あてられても、ケロッとしているタマだと思うよ」
「確かに牧さん、風邪引いたことないって言ってました」
見る方にもリスクは有るからね、と的矢局長。
「いつも言っているだろう。深淵を覗く時、深淵から見つめ返されている、って。同じことだよ。牧さんは、何をやっても見えない。だから深淵――彼岸からも干渉ができない。修さんや俺なんかは、その扇を通せば見ることができるが、それは同時に向こうからも、存在を知られ、見つめ返されているってことだ。鰐口に誘い込まれて、彼岸に足を踏み入れてしまった子がいたように、生半可に関与するのは危険だよ」
その点――と言葉を切って、修平に微笑みかけ、
「修さんとその古扇の繋がりは極めて稀なケースだ。修さんは古扇を使う。その道具本来の使い方ではなく、魔を見通す付喪神の異能の方を使う。それにより、古扇には今のままの状態でこの世に存在する理由が与えられるんだ。そして、今のポジションを維持するためには、持ち主である修さんを守る必要が出てくるだろう。だから古扇は修さんに彼岸を覗かせても、向こうが修さんのことを見つけることがないよう上手く隠す。修さんが初めて自分を覗いた時に見えた恐怖や危機感を、古扇も共有していたんだろうね。だから修さんは、ノーリスクで異界を覗くことができるんだ。重要な繋がりだよ。特に、我々の仕事においてはね」
ここでしか活きないでしょうねぇ――と溜息混じりに呟く沙友理。何の感慨だよと修平は沙友理を睨む。
「まあ確かに――こいつには助けられてきました。付喪神の全部が全部、この前の鍋坊主のように自己主張が激しいわけじゃない。鰐口だって、鉾担ぎだって、こいつで姿が見えなけりゃ付喪神の仕業だって実証できなかったかも知れない曖昧な案件だったわけだし」
「確かにそうですね。九十九物怪取締局の六人目の職員ですね。修さん、一度ちゃんとお祀りして、お供え物でもあげたほうが良いんじゃないですか?」
いや、そういうわけにも行かなんだ――と沙友理の軽い提案を一蹴する的矢局長。
「忘れちゃ困る。我々はこの古扇に感謝せねばならないのは勿論だが、これは付喪神――世の理から逸脱した物の怪だよ。祀ったり供えたりしたら、此岸との繋がりが綺麗に断たれちまう。分かりやすく言うと、成仏しちまう」
え、それは困る、と沙友理。そうだろう、と的矢は苦笑い。
「祀るってのは、要は荒御魂や荒神を宥め、人の手の届く理の範疇に置くことだ。つまりは本来は世の理から逸脱している存在を、もう一度型に嵌め直す。此岸の理は、付喪神の存在を認めない。元の塵芥に還れとなって、付喪神としての古扇はいなくなるさ」
「でも今、古扇が付喪神として存在していられるのは、付喪神としてその異能を必要とされているからでしょう? それって、人の手の届く理の範疇? に収めてるってことじゃないんですか?」
鋭いな、と修平。局長も、まいったなと言わんばかりに頭を掻き掻き、
「沙友はたまに痛いところを突くから油断ならんね。確かに古扇は修さんに必要とされ、利用されている。道具という存在の第一義は、利用されることだ。その意味では道具という理の中で、本来の存在理由が与えられている。それはさっきも言った通りだね。そして付喪神は――元になった道具に本来の使い方が再度示されれば、つまりもう一度でも必要とされれば、付喪神としての魂は失われる」
でもね――と、ここで言葉をきって、人差し指をしゅびっと出す局長。
「古扇を必要とするのは、此岸の理だろうか。古扇は、この此岸で普通に生きる上で必要とされる存在だろうか」
「それは――別に扇ぐわけじゃありませんから、違いますね」
「そうだろう。古扇は異界を覗くモノとして使われる。つまり本来の役割ではなく、此岸と彼岸を結ぶという極めて微妙な狭間において使われているんだ。此岸の理に迎合した存在ではないから、今も付喪神として存在を保っていられる」
「そこを下手に祀るなんかして、無理に此岸の理にはめ込んでしまうと――ってことですね。納得できたような、できないような……まあ、それは良いです。でも――」
とそこで言葉を切って、修平の手の中の古扇に、少し寂しそうな目線を向ける。
「それじゃあ、この先も古扇には感謝を込めて何かを……ってのは、できないんですね」
「まあ、心で思うくらいなら問題なかろうがね、それを行動に起こすと魂が抜けてしまう可能性は出てくるね」
なんか、可愛そうですね、と沙友里。こいつに限ったことじゃないさ、と修平。
「どんなガラクタでも、一度生まれ出でればそれはモノ。この世に存在の証を刻まれる。そして付喪神は、然るべく長く使われた道具の成れの果て。不要だと一方的に捨てられ、この世への未練尽きなくて魂を得た存在……そもそもの生まれが悲劇の賜物なんだよ、付喪神は。だからね――」
そこで言葉を切り、古扇を広げたり閉じたりしながら、
「こいつには感謝しているが、それを行動に移すことはできない。此岸と彼岸には、ちゃんと線を引いておかないといけないんだ。もしかしたら古扇には古扇の目論見があるのかも知れないが、そこを詮索する気もない。僕の一番近くにいながら――一番遠い存在であるべきなんだ。だから、僕はこいつの本当の姿も見たことがない」
「本当の姿――付喪神になってからの姿ってことですね」
「そう。まあ、仕方のないことなんだがね。自分の鼻を自分の目で見られないのと同じことだから」
「鏡に映してみました?」
「やったことはあったが、映らなかったよ。彼岸の存在だからね」
「でも鏡って此岸と彼岸を繋ぐこともあるんでしょう? 然るべきタイミングだったら、映るかも知れませんよ」
そこまでやる気力がなくてね、と修平は肩を竦める。
「そもそもの話、姿が見えなくても問題ない。実物としての扇と、その孔の異能さえあれば、こいつの本当がたとえたけ十丈の鬼であっても仕事には差し支えないよ」
達観してますね、と沙友理。局長はやおら立ち上がり、ドアの傍まで行く。そこには局員のジャケットが丁寧にかけられており、局長は一番右手前の黒い一着の胸元の裏ポケットに手を差し入れ、
「古扇の付喪神なら、ここに載っているよ。修さんに憑いている奴が同じ姿をしているかは、確かめようがないがね」
と、いつもの文庫サイズの画録を沙友里に渡す。沙友里は一目見て眉を顰め、
「狼? いや――猪かな。どっちにしても、獣の顔してますよ、修さん」
知ってるよ、と修平。沙友里は本をぱたんと閉じて、
「襲い掛かって来るんじゃないかって心配するのも尤もですよ。ここに描かれている鬼の中でも、話通じなさそうだもの。よく、一緒にやって行こうって思いましたね」
それを言うならね――と口を滑らしかけ、修平は軽く咳払いした。沙友里は肩を竦めて、
「まあ、修さんが良いならそれで良いですよ。でも――前々から思ってましたが、本当に、この仕事するために生まれてきたような人なんですね、修さんって。子どもの頃から、あっちの世界との結びつきが深かったわけですからね」
冷蔵庫を開ける音。飛んでくる缶コーヒーをキャッチし、どうも、と一言返してから蓋を開ける修平。沙友里の言葉は、聞こえなかった体で行くようだ。沙友里も満足したのか、次は的矢局長に絡んでいる。ランチに行ったお店はどうたったかとか、牧はどこで油を売っているんだとか、そんな取り留めもない話だった。
足をごろりとソファーに投げ上げて、修平は天井を見つめる。耳には沙友里の言葉が、そして、沙友里につい言い返しかけて止めた自分の言葉が、不思議といつまでも反復を繰り返していた。
それを言うなら――。
自分以外の人間はどうなのだと、修平は常々思っている。
沙友里の言うように、子どもの頃から異界や異形との関りはあった。故郷を失い、そういったモノとの断絶はあったが、それでもここに来て、再び結びつきを強めつつある。
この仕事をするために生まれてきたような人材――。
それを正とするならば、むしろ自分は真っ当であり――
――自分以外の四人は何なのだろうと思うことがある。
牧も沙友里も涼介も、的矢局長も、何ゆえにここにいるのか。
彼岸と此岸は滅多に交わらぬ。意識して超えるか、あるいは意識せぬままに巻き込まれるか。その二択以外に交わりの機会はない。
彼らは何故に、付喪神の存在を知り、それと関わる仕事を生業と選んだのか。
修平に言わせれば、そっちの方が遥かに不可解である。
興味がないと言えば、嘘になるだろう。だが、それを修平から訊くことはしない。
土門修平とは、そういう男である。
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