古扇 四
村を去ったのは中学に上がる前。
父が世を去ったのは就活の最中。
その頃には既に家を離れており、父の訃報が、まだ自分を家に引き戻した。
役所関係の手続き、近親への訃報連絡、葬儀の手配など、ややこしいことは全て、母が取り仕切った。元々病弱で、還暦を迎えることはなかろうと自嘲していた父と違い、母は達者で何事も器用にこなす人であった。自分に手が届く範疇で、何かできることはないかと探しても、自分にできる程度のことは既に済まされていることを実感するだけ――そういうのが母親だと、とかくやる気が削がれ、何をしようという気にもならぬまま、家でごろごろしているしかなかった。
そんな母から珍しく頼まれごとがあった。父が今はなき故郷から持ち出した物が納戸に押し込んである。不要だと思われるものばかりだろうから、納戸を覗いて、業者が必要かどうかの算段を付けてほしい、と。
やることが見つからぬ倦んだ数日間だったので、二つ返事で承知した。
鍵を貰い、がたつく引き戸の下の方を蹴りながら開く。電気はとうの昔に切れていて、電球を替えても付く気配がない。幸いにも板壁の隙間や奥の襤褸障子(不思議と虫食いの痕はなく、納戸の中にも虫の気配は皆無だった)から陽光は差し込んでくるので、電気が通じていなくてもよく見えた。
奥に行けば行くほど、埃が匂ってくる。とりあえず手前にあった大量の和綴本を、ぱらぱら捲ってみる。蚯蚓がのたくったような字で殴り書かれた文章の上に、見覚えがあるようなないような、不気味な紋様。短冊形に切り取られた紙に同様の紋様が書かれているものも、いくつも見つけた。
三十分ばかり、納戸の中を見て凡その検討を付けた。大抵は紙だったから、積み重ねて紐で縛れば良かった。短冊形や人型に切られた紙は纏めてゴミ袋に入れた。
――ん?
あらかたの本を括り終えたところで、その狭間に埋もれるようにしてあった物に目が止まった。平たく薄い竹片の連なり。その上側には折り畳まれた和紙。
扇である。
何の気なしに手に取り、広げてみた。和紙は真っ黒で何の模様もなく、中央より少し左側に小指ほどの孔が空いている。虫食いの痕か、単なる破れ目か。
自然と左目が、その孔に吸い付いて行った。扇を顔に近付ける。
ぞわり。音で表現するならばそんな感じの悪寒が背中を走った。
幻聴の類だろうか。したしたしたと、裸足で周りを駆けまわる音を耳が捉えた。
ハッとして扇を顔から話す。途端に気配は掻き消える。
一度か二度、胸が強く早鐘を打った。恐怖や不安に起因するものではない。寧ろ胸に去来したのは、奇妙な味を伴う懐かしさ――。長い間、脳髄の奥の奥の方に仕舞い込まれていた、そしてもう二度と明の下に現れることはない筈の記憶が黄泉帰ってきた感覚であった。
一瞬――いや永遠? の逡巡を経てもう一度、扇を顔に近付ける。孔のすぐ前に瞳を置き、ぐぐりとさっと身体の向きを変え、納戸の奥を睨んだ。
いる、いる、いる――。
どの動物にもそぐわない、不気味に捩じくれた異形の群れ。
影に宿り、隅に潜み、目を爛々と光らせて此岸を伺うモノたち。
物の怪――怪とは「病む」ということ。
万「物」が自然の理から逸脱する――病むことによって生み堕ちる存在。
物の怪とは言い得て妙である。そう思わずにはいられぬ風体のモノたちが、この納戸には犇めき合っている。
それを、この古扇を通した時だけ見えた。感じられた。
そうして奴らも――こちらを見ている。
水の中に潜っているかような感覚だった。空気の只中にいるはずなのに、息ができぬ。心臓が更なる早鐘を打ち、耳がじんわりと熱くなって、目玉が飛び出しそうになる。放っておけば、このまま窒息するかもしれない。
グッと身体を仰け反らせて、無理やりに扇の孔から目を離した。周りを取り巻く気配が一気に霧散して、漸く息が吸えるようになった。右手を振り上げ、扇を投げ捨てる。納戸の棚のあちこちにぶつかる、乾いた音が響いた。
ゼイゼイと荒い息をしながら、首元を緩めた。全身からしとどに汗が噴き出た。
――思い出した。何もかも。
記憶が欠落していたわけではない。ただ単純に、あまりにも遠い日のことで、忘れていただけ。
それでも、とうの昔に見えなくなった存在との再会は――此岸ならざる世界へ再び足を踏み入れる経験は、それがあまりにも唐突であればあるだけ、強い動揺を引き起こしたようであった。
顎を拭って、身体を起こす。背中を濡らす汗が冷たい。肌にひたりと張り付くシャツの気味悪さに、ゾッとした。このままここにいてはならぬと、直感的に悟った。
納戸の引き戸を乱暴に開け放ち、外に転がり出る。真昼間の陽光と、全身を取り巻く夏の熱気。それが今は心を安らげた。
そのまま納戸の戸を閉めた。閉める瞬間、嫌でも中の様子が目に入った。入った時と変わらぬ森閑。束ねられた紙類が棚の左右に置かれ、その先に、投げ捨てた扇が転がっている。
そのはずだった。しかし気の迷いか、夏の幻惑か。部屋の隅に捨てたはずの扇の姿がないように見えたのだった。それも一瞬、アッと思っただけで、戸の勢いは止まらずピシャリと音を立てて視界が遮られたので、本当のところは分からない。
もちろん、確かめる気になど、とてもなれなかった。
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