矛担ぎ 五

 ぱたんと閉まるドア。遠ざかる足音。事務所に残された三人は耳を欹て、正和少年が建物から完全に出たのを確認してから、ほっと一息吐いた。

 お疲れさん――的矢局長の一言で、ソファーに尻を飛び込ませる牧。的矢も自分の椅子に深々と沈み込むように腰を落ち着け、我慢していた煙草に火を付けながら、

「あの子――本当に最後まで詳細を聞かなかったね」

 頷く土門。牧がライターをカチカチやりながら、

「まあ、今回に限ってはそれで良いんだと思いますよ。矛担ぎの目的に、正和君は無関係だったわけですから。これが、鰐口の時のように、完全に昭雄君狙いだったら事は面倒でしたけど」

 そこで一息ついて、ようやく点いた火に煙草の尖端を当てた。それから気持ちよさそうに一服し、

「しかし、今回ほど稀なケースは珍しい。我々も全部飲み込めたわけじゃありませんが……。何にせよ局長の慧眼がなかったら、いつまでも暗中模索だったでしょう」

 いやいや――と手を振って謙遜する的矢局長。牧が座るソファーの前に置かれた長机、仕事が片付いた後であれば大抵、その事件を引き起こした古道具が置かれているものだが、今回に至ってはそれがない。牧は虚空を睨めながら、

「まったく――古道具の理に付き合っていると、その途方もないスケールのでかさに呆れますね。付喪神になってからは時間の感覚がなくなるから、数百年も数千年も、同じように感じるんでしょうね」

「そう。だから人の尺度で付喪神をはかると失敗する。分かっているはずだったが……今回については、さすがに感覚が付いていけなかったようだね」

 頷き合う牧と的矢。そんな二人の前にコーヒーを置く白鳥沙友里。局長のデスクにもコーヒーを置きつつ、

「局長、あたしと涼ちゃんは、まだ今回の話、詳細を聞いてないんですよ。結局、矛担ぎの目的は何だったんですか? 何で、正和君を襲ったりなんかしたんですか?」

 そうだったな――と呟いてから、局長はコーヒーを一口。そのほろ苦さに顔を顰めつつ(顔には露骨に渋みが出るが、局長はブラックの超渋が好みである)、

「涼介はいないが、まあ良いだろう。なに、蓋を開けてみれば簡単なことなんだ。あの矛担ぎはね、百鬼夜行を続けていたんだよ」

「百鬼夜行……牧さんの持ってる本の、あれですか?」

 そういうこった――と、いつもの本を開いて見せる牧。ユニークな形の器物妖怪たちが列をなして、右から左へと進行している様が描かれている。それを見ながら沙友理は、

「でもこれって、京都の話じゃないんですか? ほら、今でも一条妖怪ストリートってあるでしょう。あそこに出たんじゃないですか」

 京都だけに限った話じゃないよ、と応えるのは、土門修平だった。三人からは少し離れて壁に背を預け、件の古扇を弄んでいる。

「京都ばっかりに古道具が出るってわけじゃないだろう。人の営みがあるところには古道具があり、付喪神も生まれるさ。そもそも京都に出た百鬼夜行は、器物妖怪の群れと明記しているわけじゃない。一条通がイメージされやすいのは、あそこに一条戻橋があって、晴明の旧邸があって、魔の蔓延るところだってイメージが強いんだろう」

 それはそうか、と納得顔の沙友理。牧が本のページを開き、こいつだろ、と示して見せる。

 掲載されている『百鬼夜行絵巻』の最初の部分に描かれた、矛を担ぐ紺青の鬼。的矢局長は立ち上がって牧の背後に回り、矛担ぎの鬼を指さして、

「こいつは――矛は古の戦刃の主流だった。武具として実績も伝統も兼ね備えた矛を行列のしんがりとするのも頷ける話だろう」

「しんがり――」

 鸚鵡返しに沙友理が呟き、的矢局長は頷く。

「戦においてしんがりは最も危険、困難を極め、古来より武芸に優れた猛者がこれを務めた。矛担ぎにとっては、百鬼夜行のしんがりとは言え、名誉職であったろうさ。だが――しんがりを務めるってことは、夜行においてどうしようもない"さだめ”を背負うも同然となる」

「百鬼夜行を達成できない――ってことですね」

 沙友理の言葉に、三人はほぼ同時に頷いた。

「百鬼夜行の行く末について語る書はない。行列の目指す果てに何があるのか――。そして今回の矛担ぎは、それを知らぬままに数百、数千の時を夜行し続けていたんじゃないかな。なんせ、奴は行列の一番うしろだからね、一度も、百鬼夜行の終わりを見届けることはできなかったんだ」

「一度でもゴールできていれば、気は晴れたんでしょうか」

「恐らくね。だがあの場所で百鬼夜行が行われているうちはゴールできなかった。時代を経て、百鬼夜行自体も文明の光に駆逐され、参加していた器物妖怪たちも雲散しただろう。そもそも付喪神にとって、百鬼夜行は手段であって、目的ではない。ただ性質的に"群れ成す鬼”だから、集って夜行しているだけだ。だが、我らが矛担ぎは、その百鬼夜行自体に――己の順番そのものに不満を持っていた。その不満は、行列が解散した後も、晴れることはなく、執念――否むしろ、遺念へと形を変えた」

「そうして、ひとりになっても走り続けた。何百年、何千年もの間――」

 的矢局長は頷く。そういった形の執念もあるんですね、と牧。

「槍や刀って言うと、使い古されたり錆びたりしたものが血を求めて彷徨いでるってのがセオリーだと思っていたんですが……夜行自体に対しての恨みがあるとはね。あいつが、最後まで走るのを辞めなかった理由も、これではっきりした」

「ただ一方、牧さんの言う通り、付喪神としての恨みもあったわけだ。そもそもの始まりは、矛が戦に使われなくなって、血を吸う機会を亡くしたことへの瞋恚だっただろうからね。実際、血の気の多い奴ではあったから」

「――しかし局長、一つだけ解せないことがあります」

 どうした修さん、と振り返る局長。土門は扇を弄びながら、

「局長の話だと、あの矛は今日に至るまで何百年、何千年と、一人夜行を続けていたわけでしょう」

「一人で走っていたのは高々数百年だろうがね」

「しかしその数百年間、何故、誰にも知られることがなかったんでしょうか。今回、偶然にも正和君と接触したから露見したわけでしょう。正和君は際立った異能と言うわけではない。どこにでもいる、ちょっと彼岸に引っ張り込まれやすそうな子どもってだけです」

 それは俺も同意だな、と牧が頷く。的矢は黙して聞いていた。

「正和君の程度で見えるんだったら、もっと前に見つけられていたはずだ。何故、今になって――この部分だけが、私にはどうしても飲み込めないのですがね」

「確かに――そこは、ちょいと説明つかない部分じゃあります。局長、どうなんですか?」

 そうだね――と、やんわり相槌を打つ的矢局長。

「そこは、思わぬ巡り合わせというものもあるから、何とも言えない部分はあるね。こっから先は想像、妄想の範疇でしかないが――存外、地縁的な部分が関係してこないかね」

「地縁的な――部分?」

 局長は頷き、

「知り合いの自称郷土史家に調べてもらったんだがね、あの辺は昔、蹴上坂と呼ばれていたそうだよ」

「蹴上って言うと、京都にもありますよね? 奥州平泉へ向かう源義経が、泥水を蹴り上げた武将を斬ったことが由来になっているところ」

 変なことに詳しいね沙友は――と的矢は驚きつつも笑う。

「義経は泥水を蹴り上げた武将を斬った。こっちは逆に、目に見えない何者かに蹴り上げられたように転倒する事例が、多かったらしいんだな」

「なるほど……だから蹴上ってわけか」

「知り合いが言うことには、妙な磁場のせいか、あるいは体感できるかできないかくらいに僅かな傾斜があるからじゃないかってことらしいんだが……たぶん、矛担ぎの前を邪魔して突き飛ばされた人が何人もいたんだろうね。まあ突き飛ばされたところで大怪我を負うわけじゃないから、あんまり――というより、全然話題に登ることはなく、蹴上坂という名称も公式には使われずに忘れ去られたそうだよ」

「じゃあ、矛担ぎによる対人被害は一応、起こっていたわけですか」

「一応はね。だが、矛ってのがそもそも古すぎる道具なんだな。付喪神だって経年劣化するんだよ。力がどんどん衰えていって、此岸への干渉被害って行っても、転ばすくらいが関の山だった」

「でも――正和君には、刃を向けて来ましたよ」

 そこなんだ、と手を打つ局長。沙友理は、全くわけがわからなくなったという顔。両掌で両頬を潰し、ひょっとこのような奇面を見せている。

「正和君は、矛担ぎの前を塞いで突かれたわけだろう。ならば矛担ぎの行く先には、何がある」

「それは――正和君の、家ですかね」

「そう。恐らくはね、正和君の家そのものが、矛担ぎにとってはスタートでもあり、ゴールでもあったんだろう」

 ソファーに座る二人――牧と沙友理には、事の次第がよく飲み込めていないようであった。奥に突っ立つ土門は、一人納得顔で何度も頷きながら、

「なるほど――だから正和君には、否、あの家の子供には、牙を剥いたってわけか」

「なんだい修さん、分かったんかい。だったら、教えてくれよ」

「教えるも何も、局長が説明してくれたじゃないか。それに牧さんだって、忘れちゃいないだろう。私の合図で村雨を振るったのは、牧さんなんだから」

「そりゃ――そうだが」

「あの時、矛担ぎはどうなった?」

「どうなったかなんて、俺には見えちゃいないよ。手応えだってなかった。虚空を切っただけだったぜ」

 あ、そうか、と土門。

「牧さんには見えてなかったんだったね。私は扇の穴を通して、しかと見届けたよ。矛担ぎは村雨の刃に討たれ、そのまま、溶けるように消えていった。後には、何も残らなかった」

「それがどうしたんです?」

 今度は沙友理だ。土門は牧と沙友理の二人に近づいて、

「付喪神は二つのタイプ。器物がそのまま鬼の姿を取るものと、鬼が器物を持つもの。矛担ぎは後者。しかし、二つの発生過程に違いはない。付喪神を討ったならば、本来残って然るべきはずのものが、今回は影も形もなかった」

「あ、そうか、矛」

 くりくりとした眼を、さらに丸めて呟く沙友理。土門は肯き、

「付喪神を討つなり拿捕するなりすれば、それは必ず古道具という形を残すはず。それが今回はない。我々は付喪神を退治こそしたが――その実体を回収することはできなかった。さて、それはどこにあったと思う?」

「どこって――そんなの分かるわけ――あ、そういうことか」

 喋りながら合点がいった様子の沙友理。牧はそれより一足早く気づいたようだった。

「正和君の家に、本体があるってことですか?」

「刀や槍ならまだしも、矛を所持している家ってのは考えにくいね。それに、家にそんな物騒なものがあったら、正和君はすぐにピンと来るだろうさ」

「じゃあ――家の下?」

「そう。埋まってるんだよ。何百年、何千年も前から。これから先も出土することはないであろうくらいに深い深い、土の底に」

 そういうことだ、と的矢局長。

「じゃあ、矛担ぎが走る理由って、自分の本体を探すため?」

 的矢は首を横に振り、

「本体があるのは遥か土の下。僅かな縁を感じるくらいがやっとだったろう。それに探すんなら、あんな一直線に走りゃしない。やっぱりあれは、百鬼夜行の名残だよ。ただ――これだけ長く時が経てば、当の矛担ぎにも、自分が走る理由が分からなかったんじゃないかな。あいつの中で黒々と渦巻き続けた執念、その中の“走る”という部分だけが形骸化して、それが行動原理の全てになったんだ。奴には、走ることへの執念だけがあった。そこに理由はなく、目的もない。当然だ。百鬼夜行なんて、何百年も前に終わってしまっていたのだから。だから――走る、それしかできなかった」

「セリヌンティウスを救うことを忘れて、ただ走り続けたメロスみたいなもんですか」

『走れメロス』ってそんな話だっけか? と首を傾げる牧に、沙友理はものの喩えですよ、と涼しい顔で返した。言いえて妙とは言い難いね――と的矢も苦笑する。

「自分が埋まっている場所だけは、ほんのりとではあっても何かを感じていたんだろう。沙友が言うように本体を探していなかったとしても、自然と足はそっちに伸びていたのかも知れない。そして正和君に対しても同様に――何か感じたんだ。それがどのような感覚なのか、我々には知る由もないが……とにかくそれは怒りに変じた。自分の遥か頭上に家を建て、自分を土中に永遠に封じ込めた――そこまで具体的に判っていたとは思えないが、とにかく自分の怒りに突き動かされて、正和君には、刃を向けたというわけだ。今のところ――これが一番納得できそうな答えだがね」

「そう――ですね。何となく、靄が晴れた気はします」

 沙友理はそう言って、ふうと一息吐いた。

 暫くは誰も、口を開こうとしなかった。倦怠したような、寂然としたような、微妙な空気だけが、四人の周囲に蟠るように立ち込めていた。

 それを振り払うように再度、沙友理が口を開く。

「それで――矛担ぎの執念は、晴れたんですか」

 晴れてはいないさ――と返したのは、土門修平だった。

「今回は退治だ。本体が見つからない以上、供養もできん。かといってこのままでも正和君の件は解決しないし、致し方なかった」

「実際、それしか方法がなかったのさ。ただ――同じ退治するでも、矛の鬼に相応しい最期にしてやろうと、二人は考えてね。結果、果たし合いってことになった」

 実際は騙し討ちですがね、と牧は苦笑い。

「腐っても鯛。何せ相手は武器そのものですから。それに修さんはほら、こういう力仕事には不向きでしょう。それで、修さんに囮として矛担ぎの前に立ってもらって、俺が村雨を持って、隠れた」

 そう言いながら牧が視線を送る先は、戸棚の上。古めかしい刀が一振り、脇差しと共に飾られている。脇差しの方には埃がかかっていたが、太刀の方はつい最近持ち出され、埃を拭われている様子であった。どうやらそれが、村雨と呼ばれる刀であるらしい。

「修さんの合図で、俺が横から斬り掛かって矛担ぎを討つ。それで終いだ。近所の人に見られたら事だから、俺は急いで消えて、後は修さんに任せた。本体も回収してくれていると思っていたが……本体なんて、そもそも、なかったってわけだな」

 そういうことだ、と土門は閉じた扇でぴしゃりと手を打った。的矢が後を継いで、

「まあ、こんなことをせずとも、矛担ぎと此岸の繋がりは、そう時を待たずに絶えていただろう。もう何年も前から、気配に気づいた相手を転ばすくらいしかできなかったんだからね。正和君に刃を向けたことで、魂はさらに擦り減っていただろうし……。そんな中で、どのような形であれ引導を渡せたことは、良かったんじゃないだろうか。少なくとも、最後の最後に、戦いの愉悦には酔えたわけだ。誰にも存在を顧みられずに、本体は土に還り、魂は此岸から消えゆく――そうならなかっただけでも、良しとしないかね」

 そうですよ、と敢えて強めの口調で言い放つ沙友理。

「騙し討ちだって戦略の一つ。むしろ搦手を使わないと敵わない相手だって、認めていたわけでしょう。きっと、それだけで満足ですよ。百鬼夜行のゴールには辿り着けなかったけど、矛として終わることはできたんです。それって――きっと良いことです」

 そうあれと願うよ、と牧は微笑んだ。そこでようやく、コーヒーのカップに手を伸ばす。話に夢中で的矢以外一口もつけないうちに冷めきったコーヒー。淹れ直しましょうか? と腰を上げかけた沙友理を押し留め、牧は目線少し上までカップを掲げる。細やかな満足を称えるように、四つのカップが優しく触れ合い、かちりと音を立てた。

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