矛担ぎ 二

「それは――相当怖かったろうなァ」

 サングラスの奥から相手をしっかり見据えながら、牧は言った。対面して座っている来客は、その鋭い眼光を受けて眩しそうにしながら、はい……と小さく答える。

 両国の九十九物怪取締局の事務所には、三人の局員が控えている。一人は牧。その後ろ、ソファーの背もたれの硬い枠部分に半尻を乗せて腕を組んでいる土門修平。的矢局長はいつもと同じように、自分のデスクから牧と来客のやりとりを眺めている。

 訪れているのは十二、三歳くらいの少年であった。背はさほど高くなく、メガネをかけ、髪の毛を短く切りそろえている。目が泳いでいて声が小さいのは、気が弱い故か、あるいは牧に気圧されているのかも知れなかった。

 少年の頬や鼻先が上気して赤くなっている。昼間とはいえ寒風の中を歩き、暖房を効かせた部屋に入ったことで、全体にかっかしているのだろう。的矢が気を利かせて、舌触りの良い茶を沸かして淹れてやったが、手を付けた様子はない。

 乙訓正和――これに先立つ電話でのアポイントメントで、少年はそう名乗った。

 都内の中学に通っているらしいが、来ている制服に見覚えはなかった。

 彼が中に通されてから、はや三十分が過ぎようとしている。ぽつりぽつりと聞き取り難い声、しかし妙に容量の良い説明を終えて、彼の身にどのような怪事が起こったのか、ここに集う三人には大凡の部分は飲み込めていた。

 話は二週間ほど前に遡る。

 正和は塾からの帰途を急いでいた。毎週火曜日と木曜日は、部活を三十分だけ早く抜けて、塾に通う。火曜日は英語、木曜日は数学を勉強する。

 そこまで成績も悪くないし、塾で保管しなければならないほど授業に追いつけていないわけでもなかったが、神経質な母親から、高校受験のために英語と数学だけは、塾に行っておけと執拗に言われたのだ。

 部活を途中で抜けなければいけないのは嫌だったが、逆らえなかった。

 塾は午後五時半から始まって、七時半に終わる。春夏に比べて、冬は夜闇の訪れが早く、塾の建物を出る頃には真っ暗になっている。

 街灯の白い光が点在する、寂しい家通りを歩いていた。

 周りに人の気配はない。塾を出る頃が夕食時と重なり、どこの家からともなく良い匂いが漂ってきて、真っ暗な中を一人ぽつねんと歩く自分が惨めに思えてきて、足早になるのが常であった。

 その日――二週間前の火曜日の夜は、酷く冷えていた。身を切るような冷たい風がひっきりなしに吹き、鼻をもぎ、耳を千切ろうとしてくるかのようだった。正和は制服の上からジャンパーを着て、ジッパーを首元まで上げ、マフラーを巻き――それでも寒かったので首をすぼめて、ポケットに手を突っ込んで、いつも以上に足を忙しく動かして帰途を急いだ。

 人や車が行き交う大通りに背を向け、何度目かの小道を曲がり、あとは十メートルほど真っ直ぐ行くだけで、突き当りのやや右手に家が見えてくるというところまで来た時、あれほどまでに激しく吹き荒れていた風が、何をどう思ったのか、申し合わせたようにひたりと止んだ。

 突然に訪れた静寂の中で、正和の耳を騒がせたものがあった。

 足音である。

 たったかたったかという乾いた足音が、背後遠くの方から聞こえ、それが次第に、近づいてくるのである。

 思わず足を止めた。冬の寒さとは違う悪寒に胸が重くなって、恐る恐る後ろを見た。

 何もいない。ただ足音だけが、どんどん近づいてくる。

 既に自分の背後五メートルほどにまで迫ってくる感じだった。三秒後には三メートル、二メートル、一メートル……。

 限界だった。足音に背を向け、全力で走った。耳元で風が再び轟々と唸ったが、自分の身体の躍動が起こす風だったのかも知れなかった。

 家まで一目散に駆けた。そこまで来れば間もないはずだったのに、家に着くまでやけに時間がかかった気がした。走っても走っても、あまり前に進んでいないような感覚。そのもどかしさ、じれったさ――。真っ直ぐな道だけに逃げ場がないような気がして、なおさら怖かった。

 夢の中を走っているような感覚だった。

 それでも家には到着し、ドアを開けて飛び込んだ。死ぬほど怖かったが、無事だった。件の足音はどこまで聞こえていたのか、どこに行こうとしていたのか、まったく見当がつかなかった。

 その日はそれ以上、不気味なことは起こらなかった。家の中でホッと一息つくと、勘違いだったのでは? という疑念がわいた。ただ不安が消えないのは、二日後の同じ時間に同じ場所を通ることだった。

 家族には話したのか? ――という牧の問いに正和は首を横に振り、大事にしたくなくて、とだけ答えた。結局、誰にも打ち明けることのないまま、木曜日を迎えた。

 その日も凍てつく寒さだった。賑やかな大通りに背を向けて以降、胸の中の不安がどんどん強くなっていった。そうして、件の道に差し掛かる。

 真っ直ぐ進めば家だ――。そう思った瞬間に、やはり風は止んだ。

 拙い――と思った。恐怖が先行して、気付けば身体が動いていた。自分でも驚くような速力で夜道を掛け、家に飛び込んだ。足跡が聞こえていたかどうか、確かめることはできなかった。

 家で一息つくと、今度は自分に怒りが込み上げてきた。足跡が聞こえてきたかどうか確かめる前に逃げ出しては、何にもならない。これでもし、全部が全部自分の勘違いだったらお笑い草である。なおさら周りに打ち明けるわけには行かず、ともかくも次の火曜日に全てを決そうと、腹を括った。

 そうして先週の火曜日――。やはり寒夜。正和は浮足立ちつつも、下腹にグッと力を入れて、件の通りに立った。

 そのまま進めば家。しかし踵を返して背後に向き直る。

 しっかり目は開けていた。今宵は端から風がない。だから耳を済まさずとも、しっかり聞こえてくる。

 ――やはり、聞き間違いではなかった。

 乾いた、恐らくは裸足の足跡。地を蹴るように、虚空を掻くように、軽快に響く。

 笑い出す足をぐっと引き締めて、道の真ん中に留まる。

 どれほど眼を凝らしても、姿は見えない。足音だけがどんどん近づいてくる。秒ごとに耳にまとわりつく音は大きくなり、ついには自分の眼前にまで迫り――

 激しい衝撃を受けて、突き飛ばされた。

 地面に転がる。背中を打ち付けて、うめき声が出た。

 眼はまだ開いている。そこには誰もいない。

 ただ、誰かがいるような気配はあった。風もないのにヒュッと空を切るような音がして――

 分厚いジャンパーの右肩あたりが、ざっくり避けた。

 何も考えられずに、道の脇に転がった。足音は自分のすぐ横を通って、角を曲がり、そのまま、軽快に遠ざかっていったのだという。

 これが、その時着ていたジャンパーなんです、と正和が差し出すジャンパーを受け取り、牧は獣のように唸る。的矢も近づいてきて、ジャンパーの裂け目を見つつ、

「こいつは、典型的な鎌鼬だねえ。刃物で切られたように、ざっくり裂けている。怪我がなかったのが何よりだよ。咄嗟に身を躱したのが幸いしたんだねえ」

「両親には、なんて説明したんだい?」

 牧の問いに正和は曖昧な視線を向けて、

「車に引っ掛けられそうになったとだけ――」

「やっぱり、本当のことは話していないんだね?」

 土門の念押しに、正和は頷く。その様子を見ながら、的矢はフム……と唸るように喉を震わせた。

「ここのことは、誰かに聞いてきたの?」

 両親に行っていないのならば、ここにも内密で来ているはず。九十九物怪取締局なんて、中学生が知る存在ではない。

「あの――斎藤くんが勧めてくれたんです」

 正和は言った。斎藤――? と、眉をひそめる的矢。牧も暫く考えている様子を見せていたが、やがて嗚呼と手を打ち、サングラスの奥の瞳を和らげて、

「昭雄くんのことか。ほら、修さん――この前、鰐口の一件に巻き込まれた少年だよ」

 正和は再度頷いて、

「家が近所で、二人とも小学生だった時は、よく遊んでいたんです。昭雄君に弟が生まれて、僕も中学に上がって、ちょっとだけ時間が合わなくなったんだけど、この前久しぶりに会って話をした時に、お互い、変なものに遭ったって話になって――」

 なるほど、世間は狭いね、と苦笑する的矢。土門は何も言わなかったが、目が泳いでいる。たぶん、覚えていないのだろう。牧が両手を擦り合わせつつ、

「これで合点がいった。なるほど、昭雄君の紹介ということなら、さっきの話でも、相談に来るのはここしかないと言うことになるか」

 怪事の内容が、足音と鎌鼬現象だけならば、九十九物怪取締局の範疇ではない。姿なき通り魔――彼岸の力が働いていること想像されても、まずは警察等が動くべき案件のはずだ。それを差し置いてまず九十九物怪取締局に来た理由、さらには正和がいかにしてここの存在を知ったのか……牧はそれがずっと引っかかっていたのだろう。

 それに――と、正和は続ける。

「突き飛ばされてジャンパーの肩部分が切れた時、すごく鉄臭かったんです」

「鉄臭い――?」

 正和は肯き、

「うん。自転車のハンドルが錆びたみたいな臭いだった」

 なるほどねえ、と牧は正和のジャンパーの裂き目に端を近づける。

「錆の跡は残ってないな。修さん、判るか?」

 土門は首を横に振って受け取らず、判るわけがないと返す。

「犬に人探しさせるんじゃないんだから。残り香なんて分かるわけないよ」

 そりゃそうだ、と牧はあっさり諦めて正和にジャンパーを返しつつ、

「それで――君としては、どんな解決を望む?」

「斎藤君の時と同じように、なったら良いなと思います」

「怪異を取り除く方向、ということだね」

 的矢局長の言葉に、正和は深く頷いた。まあ、そうなるよな、と牧も頷いた。

「調べてみて、もし付喪神の類なら、俺らの管轄だ。早急に対処しなくちゃならん。それはそれとして――正和君。君は、どこまで知りたい?」

「どこまで――とは?」

「襲われたのは君だろ? 対処するだけなら簡単なんだ。鬼に化けない昼間にとっ捕まえて、然るべき形で処分すれば良いんだ。それとは別に、君が襲われなければならなかった理由を探るなら、また別の調査が必要になるかも知れないってことだ。まあ大抵は、正体を探っていくうちに明らかになるがね」

 ああ――と正和は微笑んで、首を横に振った。

「それだったら、僕はどっちでも良いです。調査の中で分からなかったら、分からないままでも」

「良いのか? こんな目にあった理由も分からないままなんて……夢見が悪かないかい?」

 的矢が念押すように訊いてみたが、正和の答えは変わらなかった。こういうことが二度と起きないようにできるなら、正体も理由も分からなくていい。ただただ、目先の怪異を取り除いてほしい、というのである。そこには怪事に対する無関心――というよりも、近づきたくないという防衛、警戒の心が働いているような頑なさがあった。

「そうか――君がそう言うんなら、それでも良いよ」

 最後には牧が肯いた。その間、土門はずっと正和の表情を見続けている。

 その後に二、三の問答を経て、大体の話が決まった。取り急ぎの調査に入るから、それまでは夜道に気を付けること。襲われた道は避け、また襲われた時間帯も避けること。ここに来たことを親に話す必要はないが、車に引っ掛けられたというだけでも心配はしているだろうから、決着がつくまでは可能な限り迎えに来てもらうこと。

 正和は最後まで低姿勢――というより低体温で応答し、別れ際にはぺこりを頭を下げて、事務所を出ていった。子供からの依頼など滅多になく、お茶やコーヒーでは嫌だろうと、話の合間に的矢が買いに走った缶ジュースには、ついぞ手を付けないままだった。

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