鍋坊主 六
牧が事務所を飛び出して行った、その翌日の早朝のこと。
牧は浜村家を訪れた。家の中に通そうとするのを拒んで、件の鍋が置いてあるガレージで話をした。浜村としても家の中に妻子がいる手前、外で話をする方が都合が良いはずであった。
恐怖と焦燥で殆ど眠れていないのだろう。眼を真っ赤に腫らして、頬を真っ青に痩けさせた浜村相手に、牧は至極簡単な説明を紡いだ。そうして例の鍋については、九十九物怪取締局で引き取りたい旨を申し出た。
特に追いやっても、また帰ってくるのではないかと不安がる浜村だったが、そんな心配はないと牧に断言され、それならばと肯いた。そもそも祖母の形見として持ち帰った品ですらないから、手放すのには何の躊躇も覚えなかったのである。
去り際に、牧は浜村に言った。
「この件ですが――一から十まで、付喪神による怪異だと考えて良いでしょう。貴方のお祖母さんは、この件に何の関わりも持ちません。この品が、あの家にあったのは単なる偶然に過ぎない。お祖母さんの浮かばれない霊が障りをなすなどという、そんな話ではないんです。だから――この件は、貴方一人の胸中に、秘めておいた方が良いことかも知れません」
浜村は頷く。そうして深々と息を吐いた。漸く、祖母の死を悼む気持ちが、帰ってきた様子であった。
浜村家を辞した牧は、そのまま車を飛ばして昼前には両国の九十九物怪取締局に帰ってきた。
来客用のソファーに寝転んで仮眠を取り、昼過ぎに置き出すと、的矢が淹れてくれたコーヒーを片手に、今回の怪について説明を初めた。的矢は奥のデスクに座り、涼介と沙友理は牧と対面する形でソファーに座っている。ソファーの前の背の低い長机には、件の鍋が置かれている。何の変哲もない鍋で、罅割れも欠けもなく、蓋もしっかりとしたものである。当然、震えることも鳴ることもない。
「物事の本質は案外シンプルなもの――当に然りでしたね局長。鳴釜神事も鍋冠祭も関係ない。我々が注目すべきは、鍋が夜な夜な、激しく震えながら鳴っている――いや、泣いているという事実それ一つだった」
涼介がコンビニで調達してきたサンドイッチをガツガツやる、その合間を突いて牧は話し続ける。他の三人は完全に聞き役で、お茶を差し出すことはあっても相槌を差し挟むことはない。
「鍋が泣く――その理由を探ることこそが肝要だった。鳴るではなく、泣くです。今回の怪異は、付喪神と化した鍋の意思表示だった。まず見極めるべきは、亡くなった祖母の意思が関与するか否か……。この世に未練があって舞い戻ってきたとしても、わざわざ鍋なんぞに取り憑く必要はない。未練を伝えたいだけなら、浜村さんが家を訪れた夜に夢枕にでも立てば良いんですからね。あの鍋は時代物ってだけで、愛用の品ではなかったわけだし――結果、祖母の霊との関与は早々に切り離すことができた」
たらふく腹に詰め込んで、ふうと一息吐く牧。それで――? と続きを急かす沙友理。ここまでは昨日のうちに共有できていた情報であり見解である。知りたいのは、ここから先だ。
「鍋が泣く理由は、鍋の個人――いや、個物的な事情に寄るもの。だが鍋の感傷なんて俺たちには判りゃしない。どうしたもんかと迷いあぐねていた矢先に、沙友が言ったわけだ。赤ん坊のような泣き声だってね。それでピンときた」
どんなもんだい――と鼻を膨らまして腕を組む沙友理。しかし自分の一言が牧の何を刺激したのか、まるで見当が付いていないのである。
涼介が、沙友理を横目で見ながら言った。
「あの鍋は赤子だった――と、そういうことか」
「いや、その逆だ。鍋はむしろ、母親だった。鳴釜の正体は斂女という女鬼であり、鍋冠祭でも鍋を被るのは娘。さらに鍋冠祭では関係した男の数が暴露される。そしてこいつだ」
牧が広げたのは、いつもの文庫本。昨日にも提示してみせた、真珠庵蔵の『百規夜行絵巻』に描かれた鍋の妖怪である。天秤棒を担いで、踊り歩く鍋の付喪神――。
「この天秤棒、よく見ると男根のようでもある。つまり多かれ少なかれ、鍋ってのは性に関わりがあるってことだ。そうなると、男女の性による結晶たる存在についても当然、意識を持たなきゃならない」
「性の結晶――子供ってことですね」
涼介の言葉に、そういうことだ、と牧。沙友理は顔を顰めながら、
「でも――この絵巻の中に赤ちゃんなんていないですよ? あ、これかな? この赤いぶよぶよしたヤツ。臍の緒みたいなの付いてるし、牧さん、これ、何の付喪神ですか?」
惜しい、と牧はサングラスを持ち上げながら笑う。
「確かにそいつも赤子を象徴しているようだが、実はもう一体、赤子――いやむしろ出産を象徴しているらしき物怪が、鍋よりも前を歩いているんだ。こいつだよ」
牧が指さしたのは、鍋の先、釜の鬼のすぐ近くにいる物怪であった。
赤子らしくはない。ひょろりとした赤い鬼だ。
しかし、腹が異常に膨れている。
何かを孕んでいる。
どちらかというと男っぽい顔をしているのに、腹を膨らませたその姿は不気味である。
「被っているのは――蓋ですか?」
牧は肯いた。なるほどね、と的矢。
「これが性の結晶の象徴というわけか。赤子の姿をしているわけではないが、これを構成する要素が、赤子を示しているというわけだね。そしてこいつは、鍋蓋を被っている」
「そうです。あの鍋が半狂乱になるほど求めていたのは、蓋だったんですよ」
「蓋――」
牧は灰皿に煙草を押し付けて、
「浜村さんの祖母の家事情については誰も把握していない。だからあの鍋がどういった状態で、あの家にあったのかを明確に知り得る人もいない。ここは百聞は一見にしかずかと、俺は昨日、浜村さんの祖母の家まで行ってみた。もちろん、事前に浜村さんから許可を貰って、ですよ」
あたしも連れてってくれたら良かったのに――と口を尖らせる沙友理。確証がなかったんだ――と牧はあっさり返す。
「家の中はすっかり片付いていました。ただ、竈門のある土間だけは、お祖母さんも使っていなかったからか、手つかずのままでね。探すのは、存外難しくなかったです。その鍋の上に乗っかっている蓋は、あの家では隠れるようにして竈門の隙間に挟まっていましたよ」
「鍋は――それを見つけてほしくて、泣いていたということなんですね。でも、いつから?」
「蓋にはあんまり埃が積もっていなかったから、わりかし最近だよ。お祖母さんが亡くなる前日あたりの掃除の最中か、あるいはお祖母さんの死後、家の整理をしている過程か、まあそれくらいのタイミングだな」
「それじゃあ、鍋が浜村さんの家までついてきたのは――」
「蓋を見つけて、返してほしかったのさ。鍋は覚えていたんだろう。子供の頃の浜村さんをね。言ってたじゃないか。竈門のある土間には、立ち入ることができなかったって。そんなことを覚えているくらいだ。浜村さんも、あの土間にある特別性を、無意識のうちに感じ取っていたんだろう」
そうだろうな――と的矢。
「家の中には、不用意に足を踏み入れちゃいけない、神様の憑ります所がいくつかある。竈門も、その一つだよ。たぶんその頃から――鍋には魂のようなものが宿っていたんだろうな」
「しかし、やり方が悪かった。鍋には泣いて、子供を失った悲しさを訴えることしかできなかった。その感傷の凄まじさに浜村さんは逃げ帰った。鍋はそれを追いかけ、浜村さんの家までやってきた。鍋にはそれ以外に、どうすることもできなかったんだ」
「なんか――可哀想になってきました」
眉を八の字に落として、ぽつねんと言う沙友理。的矢がその肩に手を置き、
「こうして、また一緒になれたんだ。結構なことじゃないか。人だろうが物怪だろうが、我が子に向ける愛情に変わりはないものだ。沙友理の直感がなかったら、牧君も答えに辿り着けなかったかも知れない。この親子を再び結びつけたのは、君だよ」
「そう――ですか。だったら、良かったって思えます」
沙友理が無理に莞爾とした。的矢もつられて笑いながら、牧に向かって、
「それで、この鍋はどうする? 修さんに頼んで処分するのかい?」
「いや、別段壊れている様子もないし、よく手入れされている。お祖母さん、あの竈門を使わなくなってからも、この鍋は欠かさず磨いていたようですよ。こんな綺麗なままのものを処分なんかしたら、それこそおバァの死霊が出ます。鍋と蓋本来の役目を終えられる状態になるまで、ここで使ってやりましょう」
賛成、と沙友理が手を上げた。涼介が肩をすくめて、
「そいじゃ、そいつで鍋でもしますか」
またまた賛成、と両手を上げる沙友理。牧がサングラスの奥の眼を潜めて、
「付喪神となった鍋で煮炊きした飯――沙友、食えるか?」
そんなの当たり前じゃないですか、と胸を張る沙友理。
「老舗の料亭の食器や調理器なんて、どうせ殆どが付喪神候補ですよ。でも味は変わらないでしょ? そんなことを一々気にしてちゃ、ご飯なんて楽しめません」
こいつは頼もしい、と笑う的矢。牧も苦笑しながら、敵わねえなァと頭を掻く。
鍋坊主の一件は解決し、穏やかな彼らのもとにはゆるゆるとした日常が戻ってくる。戦利品代わりの鍋と蓋と、ささやかな満足とを手にして。
目に見えぬモノの愛撫を感じたのだろうか。机の上の微動だにしない鍋に抱かれて、蓋がことりと、小さく音を立てた。
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