鍋坊主 四
「五月三日の春の大祭で、御旅所から社まで一キロ程度の道のりを二百人が練り歩く。その行列の中に、数え年で八歳前後の少女八人が、狩衣姿に鍋を被って加わる。これが今の筑摩祭で、この奇妙な倣いがあることから、鍋冠祭とも言われています」
「古くからある祭りなのか?」
「相応にね。社伝によれば、桓武天皇の御代以来の伝統だそうだ。俊頼髄脳や後拾遺和歌集など、和歌の世界にも、この筑摩と鍋の関係をうたったものが複数ある。伊勢物語や堤中納言物語にも言及があるし、室町期の職人歌合や江戸期の俳書の中にも、出てくるくらいだ。筑摩といえば鍋――今じゃあ米原市の無形民俗文化財だよ」
「鍋をかぶる少女ですか。何かありますね」
顎に手を当てて呟く沙友理。涼介は首の後ろを掌で冷ますように触りつつ、
「子供に変わったのは、江戸時代中期。それまでは妙齢の女性の役割だったらしいよ。俊頼髄脳に、女の、男したる数にしたがひて、土して作りたるなべを、その神の祭の日にたてまつるなり。男あまたしたる人は、見ぐるしがりて、少しをたてまつりなどすれば、物あしくてあしければ、つひに数のごとくたてまつりて、祈なぞしてぞ、ことなほりける――とある」
「そんな長い文を、よくもまあ暗記してるもんだ」
呆れたような的矢。どういう意味? と沙友理が聞く。
「鍋を被る、鍋冠の女性には、経験人数分だけの鍋を被るって不文律があったんだ」
え゛っ――と顔を歪める沙友理。涼介は取り合わず、
「だが中には多情な人もいるわけで、バカ正直に守ると鍋を何重ねにも被ることになる。それが恥ずかしくて、偽って少ない数で済まそうとする女性もいるわけ。それを筑摩の神は神威で見抜いてしまう。だから、筑摩神は、女性の多情を戒める神様だ、なんて言われているんだよ」
「それは――だいぶ迷惑な神様ですね。放っとけばいいのに」
誰に向けたわけでもない沙友理の呟きに、まったくだと言って的矢が苦笑する。涼介も頷き、
「江戸中期に、わざと少ない数の鍋を被った女性に罰が下って、被っていた鍋が落ちて顔が見え、笑いものになったことがあったそうだ。女性はそれを気に病んで、宮の池に飛び込んで死んでしまった。事を重く見た藩主の井伊氏が鍋冠を禁止したんだけど、嘆願の結果、色事に無縁な子供なら問題なかろうということで、鍋の被り手を子供に変更して、今もなお続くものとなったようだな」
「いよいよもって迷惑な話です。嘆願なんてせずに、そこで終わっちゃえば良かったのに」
ちょっと怒り気味に口を尖らせる沙友理。えらくお冠だな、と牧が茶々を入れる。
「だって、わざわざ自分の経験人数なんか、神様に報告しなくったって良いじゃないですか。セクハラですよ。それに、女の多情を戒めるだなんて――大きなお世話です」
「いやに突っかかるじゃないか。身に覚えでもあるのかい?」
「牧さん――その発言だって、セクハラですからね。出るとこ出たら、牧さん負けますよ」
こいつはしくじった――と頭に手をやる牧。的矢がとりなすように、
「まあ、今じゃあ絶対にできない不文律だね。そういうところも含めて奇祭なんだろう。それで涼介――その筑摩祭と、浜村さんの件とは結びつきそうかい?」
それは分かりませんね――と肩を竦める涼介。
「問題の鍋が遠い遠い米原の筑摩に関係してでもなければ――いや、関係していたとしても、だからといって繋がるような要素ではないですよ。現代の鍋冠は形骸化したもの。その源流は沙友の言う通り、現代の価値観から言うと相容れない奇怪なもの。亡くなられた祖母ってのが多情多感――失礼――だったとしても、だからって鍋が鳴動する理由には響いてきません。そもそも、筑摩祭では釜鳴のような儀礼は行われませんからね」
難しいね――と的矢。牧が二本目の煙草に指を伸ばし、沙友理がさっと離れる。
「いつもみたいに、この絵巻を出発点にすると逆に混乱しそうですな。起こったのは鍋の鳴動それ一つ。そこから鍋の付喪神と仮定して絵巻を参考に記録を探ると、筑摩祭なんて変な方向に転がっていく。局長、やっぱここは、鳴鍋、鳴釜の怪に焦点を絞るべきでしょうか」
「だが、鳴釜神事などの方向から検証するのも難しいだろう。怪異の正体が付喪神であるという前提に立脚しないと、我々は動けない。吉備津神社の神様なんぞが関わっているとしたら、我々の管轄じゃなくなる。八百万人事課にでも相談しに行った方が良い」
そうなんスよね――と煙草をふかしながら渋い顔の牧。涼介も沙友理も黙り込んで、机上の文庫に載っている、『百鬼夜行絵巻』で、愉快そうに片足を上げて踊っている鍋坊主を苦々しげに眺めている。
まあそんなに気落ちしなさんな――と、的矢が牧の方をぽんと打ちながら言った。
「我々が物事を複雑に考えているだけで、真相なんて案外、シンプルなものかも知れないだろう。浜村さんからの報告だって今日の夜を待たないと来ないんだし、それまで、やれることはやったって、ことで良いんじゃないかね。どうだい? 来客で昼飯食いそびれたし、もうすぐ三時だし、ちょっと事務所を閉めて、甘い物でも喰いにいかんかね」
賛成! とすぐに飛びついたのは、沙友理ではなく涼介だった。この男、年がら年中、書物とにらめっこしているからか、糖分に目がないのである。
それもそうですね――と、沙友理も同意し、牧さんも行くでしょ? と問いかける。生返事の牧。煙草の火が指に触れるくらいまでふかした後で、ようやっと、重い腰を上げる。
と、その足がひたりと止まった。
――待てよ。
口元を撫でさすりながら、牧は深く唸る。喉に突き刺さった魚のように、こっちからはどうやったって取れないのに、痛いところをちくちく苛む違和感。
「どうしたんですか? 牧さん、行きますよ?」
既に外出の支度を整えた沙友理が呼びかける。的矢と涼介は、速くもドアの向こうに消えていった。甘味処の選定は、既に涼介が済ませているらしい。
いつまでも立ち竦んで動こうとしない牧に業を煮やして、沙友理が腕を絡ませ、強引に外に連れ出す。半ば引きずられていきながらも、牧はサングラスの奥で怜悧な眼を瞬かせ、一人、真相に至ろうとその脳細胞をフル回転させ続けた。
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