鍋坊主 三

「家に置いてきた筈の鍋が、ひとりでに車の中に乗ってたんですね」

 二人掛けのソファーから身を乗り出す白鳥沙友里。目がキラキラしている。通常、この年頃の女子が目をキラつかせると言うと、ファッション関係であったり芸能関係であったり色恋沙汰であったりするものだが、それと同じくらいの熱量を、目の前の男が語る、一風変わった奇談に向けているのだった。

 はあ――と気の抜けた相槌を返す依頼人。沙友里の勢いに比して、こっちはすっかり草臥れた様子。がっくりと肩も落ちて、見るからに元気がない。

 こら、沙友――と奥のデスクから窘めるのは局長の的矢だった。

「お前さんには御馳走話かも知れんが、浜村さんはその鍋のせいで、すっかり神経衰弱になったわけだろう。そんな、嬉しそうな顔を向けるんじゃない」

 すっとソファーに戻って、すみません、と素直に舌を出す沙友里。横に座っている牧が、苦笑しながら沙友里を小突き、すみませんね浜村さん――と軽く頭を下げる。

「こいつは、こういう話に目がないんです。で、話の内容は、それで全てですか?」

 依頼人、浜村健吾は力なく頷いた。

「お宅に来てしまった鍋は、それからどうしました?」

「怖いので、ガレージに置いたままです。捨てようかとか、祖母の家に返しに行こうかとか思ったのですが、その――やっぱり、怖くて」

 分かりますよ、と牧は同意を示した。

「捨てたところで戻ってくるでしょうしね。それで、どうですか? 鍋は、泣きますか?」

「それが――分からないのです」

 分からないとは――と、デスクから問う的矢。浜村はそちらに向き直って、

「さすがに車の中で、あんな音でおんおん泣かれては困ると思ったんです。ご近所にも説明の仕様がありませんし――。なので、新聞紙でぐるぐるに包んだ後、段ボール箱を三重にしてその中に入れ、しっかり封をした上で、毛布を四枚くらい使ってぐるぐる巻きにしたんです。そのまま車に転がしていますから、鳴っていたとしても、音は聞こえてこないんですよ」

「なるほど――相当な念の入れ様ですね」

「閑静な住宅街なので、それくらいしないと安心できなくて」

「その厳重な封が突破された様子はないんですね?」

 牧の問いに、浜村は頷き、

「毎日確認していますが、毛布に破れ目があったり、結び目が解けたりしている様子はありませんでした。でも、そのままずっと置いとくわけにも行かないから――こうしてご相談に上がった次第です」

 よく分かりました――と牧は答えつつ、沙友里と視線を交差させる。沙友里は頷いて立ち上がり、「書蔵室」と書かれた札の下がるドアを開けて、姿を消した。それを見送った後で、浜村は泣きそうな顔になり、

「どうしたら良いんでしょう? 子どもたちが怖がると思って、家族にも話していないんです。あの鍋を、このまま自分の家に置いておくだなんて――そんな――」

 頭を抱える浜村を前に、牧はちらりと的矢を見やった。的矢が頷いたのを確認し、

「ともかく、その鍋を詳しく調べてみる必要があります。本当に鳴動するのか。鳴動するとしたら、どのような条件下で起こるのか。まずは、そんなところからですね」

「そんな――わたしの話を信じてないと言うのですか。嘘冗談で、こんな話をしに、わざわざここまで来ますか。わたしだって、それほど暇じゃない」

 心労祟って、怒りの沸点が低い。そういうわけじゃありませんよ、と牧は宥めた。

「浜村さんが嘘を吐いているとは思いませんが、特殊な条件によって起こる幻覚幻聴の類だってこともあるでしょう。そういった可能性の一つ一つを検証して、はじめて怪異の実在が証明されるんです」

「――」

 不満たらたらの顔つきだが、浜村は黙って聞いていた。さすがに牧に理があることは分かっているらしい。

「鍋の鳴動が本物だとして、次に知るべきは、先に申し上げた通り、それが起こる条件の検証です。今もお宅のガレージで人知れず鳴動しているのか。ここに持ってきても同じように鳴るのか。それらを調べて初めて、鳴動の理由に言及できる。これは、私一人の考えですが――その鍋は場所ではなく、人に縛り付けられている気がしますね」

「人に――それって、わたしのことですか?」

 頷く牧。浜村の青白い顔が強張る。

「何を根拠に――」

「付いてきたんでしょ、その鍋」

 ごくりと生唾を飲み込む音。

「じ、じゃあ、やっぱり鍋が鳴るのは――その――死んだはずの――」

「いや、焦らない方がいい。こういう時に結論を急いでも、袋小路なだけです。とり急ぎ、お宅でも鍋が鳴っているかどうかを確認してもらう必要がありますね。そのためには、短時間でも厳重な封を解いてもらう必要がある。できますか?」

「わたしが、やるんですか?」

「我々が出張しても構いませんが、その手間分、解決は延びますよ。さっさと終わらせたいのでしょう?」

 渋々と言った顔で頷く浜村。

「なに、心配はありません。全部解く必要はない。毛布からダンボールまで通る穴でも空けて、そこから聞けば良いんです。浜村さんの話だと、たいそう大きな音なんでしょう? 近所の人を驚かせるのも良くないでしょうから」

「わかりました。で――あなた方は、その間なにを?」

「既に白鳥――さっきまでここにいた奴ですが、あいつが調べています。今回の件と同じ事例についてね」

「同じって――そう頻発する類の怪事ではないと思うのですが」

 浜村さん――と、奥から的矢がにこやかに呼びかける。

「器物に関する怪異を取り扱ってる我々からすればね、浜村さんの言う鍋が鳴る事象だって、そう珍しいものではないのですよ。少し記録を紐解けば、鍋やら釜やらが、ひとりでに音を出した例などたくさんある。特に釜については、上田秋成が『雨月物語』で吉備津の釜という物語を遺したことからも分かる通り、神事に関係ある事象として古くから知られているのです。ただ――」

 腰を上げそうになった浜村を、人差し指一本で制しながら、的矢は話の続きを紡ぐ。

「だからといって、ここですぐ結論が出ないのは、我々が参照する記録というのが、大抵の場合は累計化やパターン化ができないからです。付喪神――器物の怪は、私達のように個々に性格があり、目的や狙いも様々です。だから、そこの牧が言ったように、検証に継ぐ検証を重ねてからでないと、確かなことは何も申し上げられないんです」

「――わかりました」

 餅は餅屋、蛇の道は蛇。浜村も、漸く観念したようであった。それじゃ、と牧は膝を打ち、

「今夜にでも、一度確かめてください。もし鳴動しているようでしたら、それを撮って、この番号にショートメールで送ってください。検証には、五日くらいは必要ですので、終わり次第こちらから連絡します。――局長、そんな感じでいきましょうか」

 的矢が頷き、話はそれで終わった。浜村は力なく立ち上がり、机の上の冷めたお茶には見向きもせず、首をガックリ垂れた状態でドアを開いて、廊下へ出ていった。

「――牧君」

 椅子をギシギシ言わせながら、的野が呟く。牧は煙草に火を点けて、うんと伸びをした。

「お客さん、だいぶ参っていたね」

「鍋が鳴る――それだけのことで、あんなに草臥れるモンですかね」

 そりゃあ仕方がない、と的矢は嘆息して、

「色々と、肩身が狭いんだろうさ。鍋が鳴ったのを見たのは自分一人。本人も言ってたが、不気味な話だから妻子にも打ち明けられない。毎晩毎晩、今頃鳴ってるんだろうかって不安に、ろくに眠れやしない。奇っ怪な秘密を一人で抱え込むってのは、辛いもんさ。両親にも打ち明けられる話じゃない。特に、父親にはね」

「そうでしょうね。付喪神の仕業なんて、俄に信じられた話じゃない。それよりも、もっと簡単な答えがあるわけですからね」

「簡単な答え? 牧さん、なんですか?」

 溜息混じりの男声に、若く快活な声が交じる。いつの間にか白鳥沙友理が、書蔵室から出て、牧の後ろに立っていた。くりくりと良く動く目で周囲を見回しながら、お客さんは? と、問いに問いを重ねる。牧は呆れ混じりに、

「とっくの昔に帰ったよ。――それより沙友、気づかなかったのか? 浜村さんだって、鍋の鳴動を付喪神に直結させているわけじゃないんだよ。鍋がひとりでに鳴っているというより、他の何かが鍋を鳴らしているって考えている。その正体を予感して、戦慄しているんだよ」

「正体――?」

 漫画みたいに小首を傾げて顔を顰める沙友理に、お祖母さんだよ――と的矢。

「亡くなったばかりのお祖母さんの霊が、何らかの未練があって家に残り、鍋を鳴らしている。そんな風に考えるのが、一番自然だろう」

 あ、そっか、と手を打つ沙友理。

「悲しんでいる時にできる話じゃないですね」

「そういうこと。おばァの霊の仕業ってのが、浜村さん的には一番納得できて、一番辛い答えだ。俺たちにとっても、この結論になっちまうのが一番厄介だ。幽霊は管轄外だからね」

 牧はそう言って、煙草の煙を吐き出した。沙友理が顔を顰めて牧から離れ、的矢の傍による。的矢は腕を組んで、相変わらず椅子を軋ませながら、

「それで沙友、記録の方は漁ったのか?」

 涼ちゃんが調べてます――と、沙友理は涼しい顔。的矢は眉を潜め、

「また涼に任せたのか。困った奴だ。今以上にあいつを書庫に釘付けにしてどうする」

「だって、あたしなんかじゃ一週間したって終わらないですよ。涼ちゃんなら、あの部屋の記録の内容の大体が頭の中にあるんでしょう。鍋が音を出す話だったら、ここだって、すぐに見つけますよ。ね、効率的。あたしなんかより、ずっと便利」

 人を辞書みたいに言うんじゃない――と、苦々しげに言う声。書蔵室に繋がるドアは沙友理が開けて以降そのままになっていて、暗がりの中から、薄汚れた白衣を纏った痩身の大鳥涼介が姿を現した。ぼさぼさの髪。無精髭。徹夜が続いているからか、目の下に隈ができているが、これ含めていつもの大鳥涼介である。

「さっき局長が依頼人に言っていただろう。鍋や釜が鳴る事例なんて有触れているんだから、まずは自分で調べなさい」

 頭をガシガシやりながら、牧の向かい、依頼人が座っていたところにどっかりと座り込む涼介。よう、お疲れ――と言いながら、的矢は立ち上がり、冷蔵庫からコーラの缶を取り出すと、涼介に向かって投げた。

 きんきんに冷えた缶を額と首に当ててから、プシッと開け、ぐいっと一気に。長々と一息吐く。そんな涼介の背後に的矢は立ち、肩に手を置いてから、

「沙友の奴がすまんな。それで、調べは付いたのか」

「ある程度はね。あんまり数が多いので、網羅する必要はないと思います」

 缶を机の上に置いて背を丸め、右のこめかみをトントン叩きながら、涼介は言う。

「鍋やら釜やらが音を出す――。一番よく知られているのは、局長も言っていた、吉備津神社の鳴釜神事ですね。これは釜を炊く際の音の強弱、短長で吉凶を占います。古くは宮中でも行われ、吉備津神社の伝説では古代まで遡れるらしい。その起源を問えば、大和朝廷の時代、吉備国にて悪事を働いた鬼、温羅が、四道四天王の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた伝説に求めることができるそうです」

「温羅の伝説って、桃太郎の原型になった話でしょう?」

 沙友理の指摘に、涼介は満足そうに頷き、

「その通り。刎ねられた温羅の首はその後、妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛が神饌を炊くことによって祀られ、人に託宣を下す神となった。これが鳴釜神事の初めだ。今でもこの神事には女性が奉祀していて、その女性を阿曽女と呼ぶ」

「上田秋成の話では確か、主人公の婚儀を占う時に釜が鳴らなかったんだよな。その結果、主人公は亡霊となった妻に取殺されることになった」

 これは牧だ。涼介は頷きつつ、

「そう。あれも吉備国が舞台ですね。だが、釜が鳴るのは吉備に限った話じゃない。鳥山石燕は『鳴釜』という化け物の絵を描いているが、その解説は中国の『白沢避怪図』に言及し、そこに記述のある斂女のことを書いている。この斂女もまた、鬼なんです」

「『百鬼夜行絵巻』にも出てくるの?」

「当たり前のように、鍋も釜も出てくるよ。鍋や釜を被った獣や坊主の姿だ。石燕の鳴釜も、大体同じ姿をしている。デザインとして完成しているから、いじる必要がなかったんだろうな」

 こいつか、と言いながら牧が示す、文庫本の一ページ。的矢、沙友理の二人が覗き込む。

 大徳寺は真珠庵に保蔵されている『百鬼夜行絵巻』。

 様々な器物妖怪どもが群行する様子が描かれている。

 その只中に、鍋が変じたとされる物怪が描かれていた。

 角の如く燐火を灯す鍋を逆さに被る、ひょろりとした黒衣の異形。

 天秤棒を担ぎながら、ゆらり、ゆらりと踊っているようでもある。

 鍋で顔を隠しているのか。鍋自体が顔なのか。判然とせぬ姿だ。

「近くに釜の物怪もいる。同じように、頭が釜なんだな」

 的矢の言葉に、涼介は頷きつつ、

「しかし、この絵から鳴釜神事を結びつけるのは、ちょっと難しい。むしろ、鍋をかぶるという行為から、日本の三大奇祭の一つ、滋賀県は米原市の筑摩神社の神事を思い出す方が早道ですね」

「筑摩神社の神事――」

 鍋冠祭ですよ、と涼介は言った。

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