鍋坊主 二

 祖母が死んだ。

 十年も前に夫に死に別れてからも、ホームなどに入ることを頑として拒み、一人で持ち家を守って、誰の介護も必要とせずに八十六まで過ごしてきた。

 心配だからと、父母も頻繁に様子を見に行っていたし、妻や子供たちを連れて、年に三度ほどは顔を見えていたが、滅多に風邪も引かない、足腰が達者なひとだった。

 亡くなる寸前の一ヶ月間は、病院に入院していたと聞いていたが、まさか亡くなるとは思っていなかったから、母から聞いた時のショックは、決して小さくなかった。あれほどまでに家に残ることに拘った祖母が、病院のベッドで最期を迎えた、その時の祖母の気持ちを考えると、やりきれない気持ちになった。

 家族葬は粛々と行われ、誰にとっても思いで深い家だけが残った。

 葬儀が終わると、父は親戚と一緒に家の処理について相談を始めた。父が長男で、ある程度の決定権があった。祖母の子どもたちには、父も含めて、各々に持ち家があった。祖母の家は、どの家庭からも離れた、管理し難い場所にあった。

 思い出深い家ではあるが、処分してしまおう――。父の言葉に、皆頷いた。

 土地を含めて売ることにした。買い手はすぐについた。家ごと引き受けてくれるが、権利の譲渡が完了次第、家は取り壊す意向だとのことだった。

 父に言われて、何度か一緒に家に行った。祖母の家財は、そのまま家の中にあった。ひと月の間、入院した祖母だったが、絶対に家に戻るという決意の表れのように、何もかもが生活していたその状態のままで置いてあったのだった。

 父と一緒に、家財の片づけをした。不要なものはゴミとして処分し、まだ使えるものについては、自由に持って行ってもらって構わないと言われた。祖母は読書を趣味としており、その書庫には大層な数の本が並んでいた。祖母の影響を受けて文学にのめりこみ、国文学者にまで上り詰めた父は、祖母から遺産として、書物の山をそのまま受け継ぐ心算のようであった。

 ゴミ袋を三袋ほど一杯にしながら、持って帰れそうなものを探した。が、祖母の家のものは相当な時代物ばかりで、持って帰っても喜ばれそうではなかった。これらのものは、ここにあって然るべきだという気持ちの方が強く、何も手に取る気になれなかった。

 片づけに手間取って、その日は家に泊まることにした。

 使わなくなった囲炉裏端に布団を敷いて寝た。祖母は本当にしっかりした人で、しみ一つない、奇麗なままの布団だった。

 虫の声すら届かない、静かな夜だった。

 泥のように眠っていた矢先のことだ。耳を擽る異様な音に目を覚ました。

 上半身だけを起こして、周りを見回した。既に闇に眼は慣れていたので、灯りはつけなかった。

 初めは虫の声だと思った。が、虫の声にしてはあまりに野太い。獣の唸り声のようでもあった。猪でも周囲を徘徊しているのだろうか。いや、それにしてはあまりに近くから聞こえてくるようだ。

 ――ぶおおぉぉん。ぶおおぉぉん。

 中が空洞の鉄の棒か何かに息を吹き込むと、こんな音が出るんじゃなかろうか。よくよく聞くと、生き物の声ではないように思えてきた。

 しかし、それならば、この音は一体――。

 背筋が寒くなったが、目が醒めてしまい、どうにも気になってならぬ。とりあえず音のする方に向かって、じりじりと近づいて行った。襖を開け、廊下に出て、音が次第に近くなるのに胸をざわめかせながら足を運んでいくと、土間に出た。土間から外に出る扉は、ぴったり閉めたてられている。そして音は間違いなく、この土間から響いてくるのだ。

 ごくりと生唾を呑み込んだ。隙間風にしては音が異様すぎる。即座に思ったのは、祖母のことだったが、たとえ祖母がこの世に帰ってきたとて、こんな変な音を出して人を呼ぶというのは変だ。

 さすがに怖くなって、持っていたスマホのライトを点け、周囲を照らしてみた。その間にも、謎の重低音はさらに強く、むしろ猛々しく、耳を殴りつけるように響いてくるのだった。

 意を決して土間を下りた。土間には竈や樽が置いてあるが、さすがにそれらは古道具の類で、生前の祖母も別に設えられた台所で料理していた。子どもの頃は、ここで遊ぼうとしてよく怒られたものだった。

 ――なんで、怒られたんだっけ?

 そんな疑問が頭を擡げて、すぐに消えた。音のする方向が分かったからだった。

 扉の付いた壁面に沿って竈が設えられている。その上に、もう何年も使われていない鍋が一つ、置いてある。

 それが、寝ぼけ眼でもはっきり見えるくらい、鳴動しているのだ。

 ――ぶおおぉぉん。ぶおおぉぉん。

 周りを見回した。もちろん、地震なんかじゃない。他に震えているものなんか、ありはしない。

 ――ぶおおぉぉん。ぶおおぉぉん。

 こうして見ている前で。スマホの光に照らされている前で、その鍋一つだけが、まるで命ある獣か何かが濡れた毛を乾かすかの如く、激しく震えている。

 ――ぶおおぉぉん。おおぉぉん。

 愕然として、見ているしかなかった。恐怖を感じる手前で頭が混乱して、ただただ、その場に立ち尽くすしかできなかった。その間にも、鍋は震え続けている。

 ――おぉぉぉん。おぉぉぉぉん。

 音が幾重にも反響して、初めの「ぶ」の音を掻き消して耳に届く。それで初めて気づいた。

 鳴っているのではない。

 ――おぉぉぉん。おぉぉぉぉん。

 泣いているのだ。

 ――おぉぉぉん。おぉぉぉぉん。

 恨みがましく。悲し気に。

 ――おぉぉぉ怨。おぉぉぉぉ怨。

 限界だった。踵を返し、全速力で部屋に戻って襖を締め切り、布団を頭まで被った。枕に耳を押し付け、反対側の耳は両手でしっかり塞いで、全ての記憶を脳から放逐した。そのうちに寝てしまったか気絶してしまったかして意識がなくなったが、鍋の咽びは、耳を塞いだくらいでは遮断できずに、遠く彼方の方から闇に誘うように聞こえてきたのだった。……。


 翌朝、朝食もそこそこにここを発った。父には何も言わず、逃げるようにして車に乗った。夜のことは嫌でも記憶に刻まれていて、一刻も早くあの土間から離れたかったのだった。

 二時間ばかり車を飛ばし、自分の家に着いた。車を停めていると妻が、一歳半の次男を連れて、玄関から出迎えに来た。妻は次男をこちらに預けつつ、車の中を覗き込んで、

「あら? また、たいそう古そうなものを頂いてきたのね。まだ使えるの?」

 と問うた。

 ゾッとする予感に振り返り、それが的中したと知るや否や、貧血の如くふらふらと倒れそうになった。胸が早鐘を打つ。耳には例の音が、谺の如くいつまでも反響していた。

 あの鍋が、後部座席に転がっていたのだ。

 目に見えぬモノの気配を感じたのだろうか。腕の中の次男が、身体を強張らせて、激しく泣き出した。

 

 

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