鰐口 六

「やれやれ、これで一件落着か」

 甲禅寺のだらだら坂を降りた先に、小さな喫茶店がある。表の構えが薄暗く、やってるのかやってないのか、遠目では判然とせず、故に店の中は閑古鳥の塒のようなもの。牧大輔と土門修平は、一番日当たりの良い窓際の端に席を占め、コーヒー片手に寛いでいた。牧の前にはカツカレー。その皿の横に、件の鰐口を置いている。傍目には灰皿にしか見えないだろう。

 腕はどうだい? と土門に聞かれて、牧は紫の手甲が嵌ったままの左手をひらひらさせた。甲禅寺では騒然としすぎて誰も気付いていなかったが、手甲に妙な形の窪みが半円状に並んでいる。小さな三角錐を、穴が空きそうなほど深く突き入れたかのような傷跡である。

「まァ動きが速くてね。しかも魚よろしくぬるぬるするもんだから、捕まえそこねて思いっきり噛みつかれた。肉には届いてないけど、腕が折れるかと思ったぜ。俺に比べりゃァ、昭雄にはだいぶ手加減してたんだなあ」

「鰐というだけのことはあるだろう。名は身体を表すというからね」

「ランクは?」

「黄色――野良犬レベルかな」

「有名な奴か?」

 付喪神に知られた奴なんていないよ――と笑う土門。

「固有の名前さえ、石燕に与えられた輩以外は判然としないんだから。画材としては、それなりに描かれているね。真珠庵の絵巻にもある。化け物になった時の姿形が、名前からイメージしやすいんだろうね」

 文庫をパラパラと捲り、牧の前に翳す。牧は口をモゴモゴさせながら、眼を広げた。

 図録のようだ。絵巻が載っている。長いので、数ぺージにまたがって全貌を写す構造のようだ。

 七体くらいの異形としか言えない、奇怪な存在が並んでいる。その一団の右下に――。

 鋭い牙と爪を持つ、鰐口が頭となった化け物が地を這っていた。

 爬虫類のような身体。魚のそれのように濡れた深緑の鱗。背中と尾に広がる、朱色の背鰭。

「修さんや昭雄が見たのも、こいつかい」

 土門は頷き、

「まったく、こいつを描いた絵師は大したものだ。実物と、寸分違うところがない」

「他の絵でも、こんな感じなンか?」

「鰐口の場合にはね。同じ鉦系統の化け物で言うと、鳥山石燕の『百器徒然袋』には、鉦五郎と言って、当り鉦の化け物が描かれている。そいつの場合は鉦部分が胴体になっていて、平たい亀のような姿だ」

「そっちだったら――ちったァ楽だっただろうなあ」

 顔を顰めながら水を飲む牧。土門は、まったくだ、と苦笑交じりに言った。

「ただ、鉦五郎の方は、言葉遊びが得意だった石燕の創作だよ。江戸時代の大阪の豪商で、淀屋辰五郎という人がいて、とんでもない金持ちだったから、金と鉦をかけて鉦五郎ってことさ」

 なるほどね――と相槌を打ちながらも、カレーを食べる手を休めない牧。土門は文庫をポケットに戻しつつ、

「獣に変じた付喪神はね、人間の四歳程度の知恵しか持たない。そのくせ、野生味だけはあるもんだから、気に入らないことがあったら平気で爪を振りかざす。扱い難いこのこの上ない」

「何で昭雄にはこいつの姿が見えてたんだろう。親父さんに説教しておいて何だが、実ァ俺もちゃんと飲み込めてなくてさ」

 ああ、そのことか――と、土門は呟きながら、古扇をすっ……と擡げた。

 ぱらぱらと開いて牧に渡した。牧は穴を通して机の上の鰐口を見る。

 暫しの沈黙の後で、牧は肩を竦めた。

「駄目だな。見えんもんは見えん。俺には、そっち方向の才能が根本的にないんだろう」

「これを使って、それでも見えないってのは、ある意味才能だよ。昭雄くんのお父さん――あんな疑り深い人にだって通じたってのに」

 牧から扇を受け取りつつ、土門は再び苦笑。体質なんだよ、と牧は口を尖らせた。

「そう体質――。でも、それだけじゃない。昭雄くんだって、四六時中あいつらが見えているわけではないさ。そうだとしたら、それこそ牧さんの言ったように異能だ。だまくらかしてでも、九十九物怪取締局に就職してもらわにゃ」

「そんな黒いことを――。でも、それじゃあ何で昭雄には、昨日も今日も同じものが見えたンだろうか」

 半眼だよ――土門はそう言って、コーヒーを啜った。半眼? と牧。

「仏様の目ってのは、たいがいが半眼――瞑想中の様子を表しているんだな。人が座禅を組む時も、姿勢や呼吸、そしてこの半眼が重要になる。やることは目を半開きにすることなんだがね。目ってやつは開きすぎると色んな情報を取り込んでしまうし、かと言って完全に閉じてしまうと頭の中で考えている諸々が視覚イメージとして瞼の裏に浮かんできやすい。視覚情報やイメージを可能な限り遮断し、雑念を捨てて無我の境地に至るためにも推奨されるのが、この半眼なんだ」

 そして――と、ここで一息入れる土門。牧は食べた皿を机の端に押しやって、黙って聞いている。

「半眼とそれに伴う精神状態下ではね、彼岸と繋がりやすいのだよ。半眼というのは、本来は視野を狭めて座禅に集中するためのものなのだが、世界を斜に見る視線というのは、本来の眼差しでは捉えられないものを見つけやすいのだ。僕が持っている扇と、大体同じようなことになるんだが――って牧さん、何やってんの」

 吹き出しそうになるのを堪えて、土門が言った。向かいの牧が、しょぼしょぼとして細い目で机上の鰐口を睨んでいたからである。無理に目を縮めているからか瞬きの回数が異常に多く、たとえるなら飴屋が長い飴を同じ大きさに叩き切る勢いと同じであった。

 暫くしてから牧は顔を顰め、無理だな――とぼやく。当たり前さ、と土門。

「言ったろ。半眼は、視覚情報を制限するためにやるんだ。見ようと思ってするもんじゃないんだよ」

「でも昭雄がそんなこと知ってるとは思えねヱよなあ。賢い子だったけどさ」

「それはそうだろう。きっと、知らず知らずのうちに半眼になってたんだ。やることは目を細めるだけだ。大して難しいことじゃない」

「それで、持ち前の体質ゆえに――見えないモノが見えたわけか」

「そう。それで彼岸に誘われたんだ。昭雄くんが外に出ていくのに誰も気付けなかった理由がそれさ。牧さんがこの鰐口の物怪化した姿を見ることができないように、彼岸に足を踏み入れた者を、此岸から見ることはできないからね」

 こいつが連れてったってワケか、と机上の鰐口を撫でる牧。鰐口は当然ながら――此岸の常識においては当然ながら、命を持たぬ古道具であり、動きもしなければ喋りもしない。

 また噛みつかれないようにしなよ、と土門が警告した。

「金の性を持つ付喪神はたいがい錆びてるからね。破傷風は怖いよ」

「そういや、何でこいつは昭雄を噛んだんだろう。そもそも、昭雄を外に連れ出して、どうする心算だったんだろうか」

 さてねえ――と言いながら、柔らかい背もたれに身を預け、目を閉じる土門。寸時の沈黙を置いて、

「そればっかりは、誰にも分からないが――。大した意味はなかったんじゃないかな。さっきも言ったように、元が幼児ほどの知恵しかないんだ。付喪神ってのは本来、捨てられたり使われなくなったりした古道具が我が身の悲遇を恨んで出るものだけど、獣姿をとって物怪となった瞬間に、そうした恨みを感じる脳はなくなっていたと思うよ」

「それじゃあ――何で」

 だから分からないって、と土門は笑った。

「ただ――これはあくまでも想像だが、寂しかったとか、そんなんじゃないかな」

「寂しかった――。だから昭雄を遊びに連れ出したってのか?」

 想像だけどね、と言って、土門は窓の外を見た。牧は解せない様子で、

「じゃあ何で昭雄を噛んだんだろう。なにか、気に障ることでもしたのかな」

「これも想像の範疇を出ないが、牧さんと昭雄くんとじゃ噛み方が違っていたろう。あの甘噛みはね、傷つけようと思ったしたことじゃないと思う」

「それじゃあ――何で」

 同じように訊く牧。土門は窓の外に視線を向けたまま訥々と語る。

「我々此岸に生きる者たちにとって、彼岸ってのはそこに留まるだけで気力を消耗するものなんだ。本来、明確にわけられている世界の境界を跨ぐわけだから、それだけでも相当に疲れるのさ。ましてや、昭雄くんは子供だ。遊んでいる最中に気力負けして、眠るように倒れてしまったとしたら? そのままの状態では危険だ。彼岸に取りこまれて帰ってこれなくなる」

「此岸に戻すために、鰐口が気絶した昭雄を引っ張った――ということか」

「そう。子供とはいえ昭雄くんとの体高差は大きかった。担いでいける重さじゃあない。そこで止む無く、傷にならないように優しく噛んで引っ張っていく方法を取ったわけだが――不器用な物怪のすることだ。思わず力が入って、ぐっと噛んでしまった瞬間があったんだろう。ようやっと叢まで引っ張り出したところで、親御さんたちに見つけてもらうことができたって、まあそんな感じなんじゃないかな」

 なるほどねえ――と腕を組む牧。その目は土門の横顔と、机上の鰐口とを交互に見ている。

「でも今日は、本気で歯を剥いてきた」

「昭雄くんの様子が昨日と違っていたからだろう。牧さんの言葉が昭雄くんに影響したんだと思う。たぶん、昨日は相手が物怪だとわかっていながらも、怖くはなかったんだ。半眼になって、此岸の常識が意識できなかったんだろうな。そこを今日は、先んじて牧さんが釘を差した。自分が昨日見たやつは、自分を傷つける危険性があるものだという意識があった。それを鰐口は敏感に嗅ぎつけて――怒ったんだ」

 あくまで想像だがね――と言って、土門は一息ついた。牧はサングラスの奥でにんまりと笑いながら、

「想像と言いながら、随分と深堀りしているじゃんか。こいつらの姿が見えると、気持ちも伝わってくるようになんのかねえ」

 まあそんなところだ、とどこまでも取り澄ましている土門。牧は鰐口を取って、

「あとはこいつの始末だが――修さんの方でやってくれるンだよな」

 土門は頷き、

「ちゃんと供養するよ。礼節と――敬いの気持ちを持ってね」

 礼節ねえとボヤく牧。土門は目線を窓の外から牧の顔に戻し、

「そう。礼節だ。牧さん、この鰐口は、俺やあんたよりもずっと前から、この世に存在している。人が作った道具とはいえ、この世に存在した年数で言えば、俺たちなんかより遥かに先輩なんだぜ。たとえ人世に仇なす物怪であっても、そこだけは揺るがしちゃ駄目なんだ。そもそも付喪神ってのは、人の不手際から生じる物怪なんだから。怪となろうが鬼となろうが、魂の憑代となった物そのものに対しては、敬意を以て送り出すべきなんだ」

「わかってる、わかってるよ。万事あんたに任すから」

 慌てて土門の饒舌を止める牧。分かればいい、と、あっさり引き下がる土門。

「しかし俺には、昭雄くんのほうが心配といえば心配だな。あんなことがあって、やっていけるんだろうか」

「お祖母さんがしっかりしてるから、問題ないだろうよ。親父さんだって、俺たちの第一印象が悪すぎただけで、頑固なわからず屋ってわけではないさ」

 そこは良いんだけどね……と、すっきりしない顔の土門。牧は、

「なんだい、修さん。何か、気になってることがあるンかい」

「あの子は付喪神が見えただけじゃない。それと意思疎通し、一緒に彼岸に迷い込んでいる。そうそうあることじゃないよ。見えやすいのは体質だが、見えるきっかけには個人差がありすぎて明確化できない。今回は鰐口で良かったようなものの、もっと悪質なモノに魅入られたら――怪我どころじゃ済まないかもしれない」

 顔を曇らせる土門に対して、牧は、そのことか――と涼しい顔。

「何だい牧さん。昭雄くんが心配じゃないのかい」

「いや、まったく心配していないわけじゃないが――修さんが言うように、昭雄本来の体質にプラスして何らかの要因が加わったときに見えるんだとしたら、たぶんその要因については見当がつく」

「要因の見当――?」

「そ。で、たぶんそれはそのうち、乗り越えられるさ」

「牧さん――あんたは、何を読み取ったんだ?」

 解せない顔の土門。相変わらずだね、と今度は牧が笑う番だった。

「物怪の心は読めても、人の心を読むのは下手なままか」

「そう――だから牧さんと組まされる。俺が物怪の心理担当。牧さんが――人間の心理担当だ」

 良いコンビだよ――と、二人して笑った。

「それで、昭雄くんが見えるきっかけってのは何だい? 精神的なものかい?」

「そうだろうよ。たぶん気持ち一つだ。それが、鰐口の物怪――彼岸と繋がってしまったんだろうさ」

「その気持ってのは?」

 すぐには答えなかった。コーヒーカップを空にして机に肘を置き、反対の手で鰐口を弄んでいる。言うべきことを、脳裏に書き出しているのかもしれない。土門は催促せず、牧の口を出る次の言葉を、根気よく待っていた。

「たぶん――」

 牧の口が開く。一瞬、ほんの一瞬、空間と時間が静止したような感覚を、二人とも覚ええているようだ。

「たぶん――昭雄も寂しかったんだろう」

 再び万象が動き出すのを待って、今度は牧が訥々と語り始める。彼が知覚した世界――昭雄少年の内面世界の物語を。土門は無言を貫いて、牧の紡ぐ言葉に、耳を傾けた。

 時刻は昼を過ぎ、空は次第に朱を混じらせる。窓を通して投げかけられる黄昏の光を受け、机上の鰐口が、誰も触れていないのに僅かに揺れ、かたりと音を立てた。

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