鰐口 五
翌日、甲禅寺の本堂では、九十九物怪取締局の二人が既に待っていて、昭雄が来ると牧が愛想よく手を振った。昭雄も振り返して、車を出るや否や、本堂の階段を勢いよく駆け上がる。牧がサングラスの向こうに微笑みを浮かべながら、
「よう、昭雄――。怪我の方はどうだ」
なんでもない、と昭雄は首を横に振った。牧は昭雄の頭に手を置いて、髪をがしがしやる。その時にはもう、父や母、祖母が本堂まで上がってきていた。
牧は姿勢を正して父と祖母に向き直り、頭を下げて、
「ご多忙の折に申し訳ない。少々、お時間いただきます」
「何か――わかったんですか」
挨拶に応じず、単刀直入に切り込む父。第一印象の悪さを、まだ払拭できていない様子である。祖母の前には土門が立ち、慇懃な挨拶を交わしていた。
父のぶっきらぼうな態度にも、牧は動じた様子なく、軽く頷いて、
「大体のことは分かりました。お宅の息子さんに怪我させたモノの正体もね」
「じゃあ、それを早く教えてください」
「言葉で説明できれば簡単なんですが……いっそ、実物を見てもらったほうが良いと思いましてね。それで、今回は皆さんをお呼びしたわけなんです」
「――というと?」
昨日の法要を、もう一度再現してくれませんか? と牧は言った。
「法要の――再現?」
「住職にはお願いしてあります。昨日と同じ時間帯に、まったく同じ形でお祖父様の三回忌法要を執り行っていただきたいと言ってるンです」
「なぜ、そんなことを――」
「言葉で説明するよりも早いからですよ。それに――信じてもらいやすくもある。なに、今回は心配ありません。大人の目が光ってる。昭雄くんが、変な叢に連れて行かれる心配はありませんよ」
よろしいですね――と牧が確認を求めた先は、父ではなく祖母だった。既に土門から説明を受けていたらしい祖母は、即座に頷く。今度は父に、異論の一言も挟む隙を与えなかった。
それじゃあ、皆さん本堂へ――と、土門が家族を促す。土門の身体は柳のように動いて、自然と昭雄が最後尾になるように一同を誘導していた。薄暗い本堂に足を書入れようとする寸前、肩にぽんと手が置かれる。牧だった。
昭雄――。すぐ傍にいないと聞こえないくらいの声量で、牧が話しかけている。
「不安か?」
僅かに頷いた。そうだろうな――と牧も頷く。
「君が昨日見たやつにどんな気持ちを抱いたか――俺たちも、その全てを見透かしているわけじゃない。今日は、そいつの正体を暴くんだ。君にとっては不本意な結果になるかもしれない」
やっぱり見透かされてる――と昭雄は肩を落とした。牧の言うとおりだ。自分の身の危険なんて、全然心配じゃなかった。むしろ――昨日であった、あの小さな異形がどうなるのか、そっちの方が気がかりだった。
でもな――と牧。その声からは軽薄と背中合わせの快活が消え、ぞくりと重々しい、そして冷たい声だった。
「事情はどうあれ、君を傷つけて叢の中に放置した――そんな相手を、君は受け入れるべきじゃない。いいか、君には何の理由もなく、一方的に傷つけられたんだ。それは、絶対に許されるべきことじゃない。その始末を付ける――そのために、俺も君もここにいるんだ」
頼んだぞ、と背中を押された。牧に何も返せないまま、母の横に座った。克也を抱きながらも、母の目はずっと自分に注がれていた。父も、やはり首を伸ばして母越しにこっちを見てくる。何だか、むず痒かった。視線を合わせるのが躊躇われて、前に座している住職の経卓の下ばかりを見ていた。
お経の声が、耳にまとわりつく。相変わらず、何を言っているのか分からない。が、その不思議なリズムが耳を通り抜けていくうちに、自然と頭がぼやぼやして、それでいて目だけははっきりと冴やかで、とりとめもない思いや気持ちが頭の中を過ぎ去るのを感じるのだった。
あいつは――。
あいつは、どこにいるんだろう。
あいつは、何をする気なんだろう。
あいつは、何をされるんだろう。
あいつが――そこにいる。
昨日と同じだ。
影の中から生ずるように、金属円形の頭をかちかち鳴らしながら、あの異獣が顔を出した。
鋸のような牙。鋭い爪がついた四本足。猫のようにしなやかな細身の身体。魚を思わせる鱗と、背中の朱い鰭……。
こいつに、傷つけられたのか。あの、鋭い爪に。
牧の言葉が真実であるように思えた。それなのに、怒りは湧かなかった。
怖くもなかった。何をどう思えば良いのか、全然分からなかった。
ただ少しだけ、悲しみだけは感じ得ていた。
足音もなくするすると、そいつが近づいてくる。目なんてどこにもないのに、そいつの視線が自分を捉えて離さないことを昭雄は実感していた。
身体をうねらせながら歩いてくる様は、機嫌の良い時の猫そのものだった。が、その爪先が足に触れるか触れないかくらいの微妙な間隙を残したところで、そいつは動きを止めた。
じっと見ていた。外からは見えない目で。
視線が交差し、その視線を通って、心を読まれている。ゾッとするような感覚。
ぎりぎりと歯軋る音。見ると、異獣の全身がわなわな震えている。
ふう、ふうと熱い息が吹きかかる。鉄の臭気だった。
後ろ足を伸ばして尻尾をぴんと持ち上げ、逆に前足は折って頭を低く。
爪がぎりぎりと畳を引っ掻いている。青緑だった体が、ほのかに赤く染まったように見えた。
怒っている。
怖くなった。
逃げ出したくても、足が棒のようで身動ぎさえできない。目の前の小さな怪物が激昂し、敵意をむき出しにし、変貌し、そしてそれを見ているしかない。そのもどかしさ。おぞましさ……。
ギャッと声がした。目の前の床から、そいつの姿が消えた。
瞬間、風を感じた。
締め付けられた鶏のような声が、耳を殴りつけた。
その瞬間、頭の中のボヤボヤは消えて、世界が一気に明らかになった。
もう、あいつはそこにいなかった。
目の前に牧が立っている。紫の手甲をはめた彼の左手が掴んでいるのは、金属の円盤――あの怪物の頭の部分だった。それを掴んでいる牧の指には、節の部分が白くなるほど力が籠もっていて、僅かに上下に揺さぶられている。何かを必死に抑え込んでいるかのようだった。
住職さえも読経をやめて、驚いた顔で牧を見ていた。あんた、何をしているんだ――と父親が立ち上がり、一歩を踏み出そうとする。
「――そのまま!」
鋭い声が飛んだ。土門だった。あの古扇を開き、前に翳している。
その破れ穴から、世界を見ている。
「修さんッ! あたりか?」
右手で左腕をがっしり掴み、ぎりぎりと歯噛みながら牧は問うた。土門はすぐには答えず、ちらりと昭雄を流し見る。昭雄はしっかりと頷き返したのを見て、土門は微笑んだ。
「察しの通りということだ。牧さん、そのままじゃ辛いだろう。それをもう少し、こっちに向けてくれ」
ふんぬっと、気合を入れて、手に持つ金属の円盤を土門に翳す牧。土門は扇を閉じて、牧の手の中にあるものを強かに打った。
かん、と音がして、牧の腕の振動が止まった。
「いったい――これはどういうことだ」
ふうふうと荒息を継ぐ牧。涼しい顔の土門。二人を見比べながら、父が噛み付くように問うた。土門は父には答えずに、
「住職――この鰐口は、随分昔から庫裏にあったもののようですね」
父と同じく動揺を隠せない様子の住職だったが、土門への回答は早く、
「ええ――。二代くらい前が使っていたものです。落として割れてしまったらしいですね。ほれ、縁が欠けているでしょう」
「なるほど、後から処分するために庫裏に放り込んでおいたものを、そのまま忘れていた、と、そういうことになるわけですね」
「恐らくは――。しかし、それが何だというのです」
「住職は――大徳寺の真珠庵をご存知ではありませんか?」
「そりゃもちろん――知っておりますとも」
「では、その真珠庵が保蔵している、非常に奇っ怪な絵巻についてもご存知か」
「奇っ怪な絵巻――ああ、まさか、あのことを……それじゃあ、今回の件も――」
昨日の祖母同様に何かを悟ったらしい住職。真っ青な顔で、信じられん――と何度も首を横に振る。
なんなんだ、と父が激した。
「あんたらは一体、何が言いたいんだ。何のために、私たちをここまで引っ張り出したんだ。昭雄の怪我は何のせいなのか、それを言うだけで住む話じゃないか。それなのに、さっきのあんた――あれは何の真似だ!」
昭雄もハッと気づいた。そうだ、あの光景は、あの異形が見えている者以外には、極めて不合理な光景と映るのだ。子供を前にして、得体の知れない男が、鰐口なんていう意味不明な道具を翳している。最早、奇怪を通り越して滑稽でしかないではないか。
だからね――と、牧が土門からバトンパスされて、話の続きを紡ぐ。
「今回の件は、この鰐口って古道具が起こしたんですよ。昭雄君を傷つけたのも、こいつだ」
バカにしたような、ヒステリックな笑い声。父である。
「頭が可笑しいのか? そんなこと、誰が信じる。それは比喩か? 犯人は別にいて、そいつがその鰐口の欠けた部分を使って昭雄を引っ掻いた――とでも言いたいのか?」
「いいえ。他に犯人はいません。こいつが、ひとりで、やったことです」
だったら尚更バカげている――と、父は舌打ち混じりに言った。
「始めから、胡散臭いと思っていたんだ。こいつらは頭の可笑しい宗教家か、詐欺師だよ。子供でも騙せないことを、よくもまあそう本当らしく語れるものだ」
おやおや、と土門。気づけば父の後ろに回り込んでいる。
「不思議なお方だ。寺院という宗教施設で、そのようなことを口にされるとは。あなたが手を合わせる佛の道は全うで、私どもの言うことは狂気の沙汰と断じられる、その根拠は何だ」
話を反らすなッと、父は吠えた。
「佛の道が何だ。こんなもの、ただの慣例でしかない。月ごと年ごとの仕来りでしかない。そんなのに、建前以上の意味なんてない」
この物言いには、さすがの住職も顔を赤く染めて、意見しようとした。土門はそれを左手で制し、ひらりと掌を返して扇を開く。
「目に見えるものが全て――そういうことですな」
背後から囁きかける土門。父は距離を取ろうとするが、土門が何気なく父の方に置いた右手が、それを許さない。
「それ以外に、何を信じろというのだ」
噛みつくように言う父。土門が一歩踏み出し、より肉薄する。
「では、これで信じられますか?」
返答を待たず、土門は父の顔の前に扇を翳した。
背筋にじわりよってくる沈黙があった。
「な――んだ、これ――」
一人沈黙を破って、譫言のように呟く父。その目は、古扇の破れ穴を通じて、土門の手の中の鰐口を――何の変哲もない壊れた古道具を見ているはずだった。
父は動かなかった。動けそうになかった。膝を笑わせ、口をだらしなくあんぐりと開けたまま、いつまでもいつまでも、それに魅入っているようだった。自分とそれ以外に、何の存在も感得していないような、傍で呼びかける母の声さえ耳に入っていなさそうな有り様であった。
「見えるものが全てですよ。これは――心の作用なんかじゃない」
「これを――昭雄も――」
ぴしっと音がして、扇が閉じた。目の玉が飛び出んばかりに眼を見開いていた父は、どっかりとその場に腰を落とした。瞳は虚空を泳ぎ、その顔には驚愕と恐怖の色が、皺となって深々と刻まれている。一気に何十歳も歳を取ったかのようだった。
少しやりすぎましたね――と扇で自分をこつんと叩く土門。誰も何も言えない。母は克也を祖母に預け父に駆け寄って支えている。時折、土門と牧とを見上げるが、既に敵意や怒りはなく、ひたすら怯えている様子である。
「お祖母様――これで済みました。後のこと、お願いできますか」
牧と土門以外に平静を保っている者がいるとしたら、それが祖母であった。牧に言われ、祖母は、分かっていますよと返す。腕の中の克也は泣きもせず、ビー玉のような透き通った眼で、土門の整った顔を見上げているようだった。
「息子は何も知らないものだから――お気に障ることも多かったでしょう。ごめんなさいね」
「なに誰だってああなります。こちらこそ、ちょっと驚かせすぎたかも知れません。あと三十分もすれば元に戻りますよ。今回の件については、たぶん分かってくれたかなと思います。ただ――」
そこで牧は振り返って、座り込んだ父と、それに縋る母を見て、
「これだけはハッキリ言っておきましょう。お父さん、あなたが垣間見たモノはね、条件さえ合えば誰にだって見えるんですよ。昭雄君にも、あれが見えたんです。でも彼は、それを誰にも言えなかった。その理由はお父さんの態度を見れば明らかだ」
「――」
父は答えない。言葉を、どこかに置き忘れてきたのかも知れない。
「昭雄くんを異能扱いする必要はありません。きっかけは、すぐそこにあるんです。俺たちのすぐ背後にも。それに気づくかどうかは、全くの偶然です。本当の偶然の偶然で知覚がこの世の裏側を垣間見ることがある、それだけのことです。あなたと昭雄くんが見たものは――誰しもが出遭う可能性のあるモノなんですよ」
最後まで、父は答えずに胡乱な眼差しを向けるだけだった。引き上げようか、と牧は土門を誘って、昭雄たちに軽く頭を下げる。挨拶を返せたのは、祖母と昭雄だけだった。
牧の手には件の鰐口。これ貰っていきますぜと言われ、住職は一も二もなく肯いた。むしろ、さっさと追っ払ってくれと言いたげな顔だった。
「元気でやんなよ。あんまり、一人で抱え込むもんじゃないよ」
最後にもう一度、髪をがしっとやってから、牧は昭雄から離れた。そうして土門を伴い、最初に会った時と変わらぬ飄々とした様子で、本堂の外に姿を消したのだった。
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