鰐口 四
「さて――っと、ここらへんでいいかな」
先頭を歩いていた牧大輔が足を止め、その後ろで地面を見つめながら歩いていた昭雄少年がぶつかりそうになった。そのちょっと後ろから、のんびりした足取りで土門修平が歩いてくる。
牧が足を止めたのは、眠りこけた昭雄少年が見つかったという叢だった。本堂の裏手にあたり、奥に本堂と廊下で繋がった庫裏があるくらいの、昼間でも寂しいところである。
こんなところで、何をする気だろう――。
不安を隠せない顔の昭雄。と牧はおもむろに振り返ってしゃがみ込み、昭雄少年と同じくらいの目の高さになるまで身を屈めた。サングラスの奥で、見えない瞳が煌めくのを、昭雄は見た気がした。
それで――と、牧は言った。改まった感じはなく、好きな食べ物は? とでも聞いてきそうな、そんな軽さであった。
「君――何を見た?」
「何をって――」
びくりと身体を震わせながら、そう答えるだけが精一杯だった。ぞわりと背中の毛が逆立って、目の前にいる穏やかな物言いの男の存在が、急に不気味なものに感じられてきたのであった。
見たんだろう――牧はそう言って立ち上がり、場に似合わぬ快活な声で笑った。
「この世のものとは思えない、へんてこりんなやつをさ。話しても信じてくれないと思ったか――そうだな、変な目で見られたくないと思ったかで、警察にも親にも言わなかったんだろう」
「……」
昭雄は答えることができなかった。顔がかあっと熱くなり、拳が震えてきた。
この二人は、何かを掴んでいる――本堂での父とのやりとりを聞いていた時から、そんな確信はあった。
しかしまさか、ここまで図星を突かれるとは思っていなかったし、たとえ予期していたとしても、突かれた瞬間の衝撃は、実際にやられてみないと到底、思い描けるものではなかったのだ。
初めて感じる、名状しがたい気持ちに翻弄され、下を向いた。そんな昭雄の肩に、牧は手を置く。そうして、その強面に似合わぬ優しい声で、
「いいよいいよ。それで良いんだよ。昭雄くんなりに考えての行動だろう。ああいうのを見れば、誰だって自分の目か頭が可笑しくなったって思うだろうさ。昭雄くんは昭雄くんなりに――抱えているものがあるようだしな」
涙が零れそうになって、昭雄は俯いたまま何度も目を瞬かせた。何気ない牧の言葉の一つ一つが、自分の心に滲み入っていくのを感じた。
そんなことまで――分かっているんだ。この人は、知っているんだ。
本当は――何もかも覚えていることを。
変な生き物を見つけたこと。そいつに連れられて、本堂の外に出たこと。
それが言えない理由――。言うことが怖かった理由――。
お兄ちゃんだから、しっかりしないといけない。
お父さんやお母さんに、心配をかけてはいけない。
怪我をして見つかった段階で、既に心配をかけてしまっているとしても――変な生き物が見えるとか、頭を疑われるような類の心配は、かけちゃいけない。特にお父さんはそういったことを、本当に気にするから――。
「君が見た現実を信じたくないなら、それも良いだろう。誰にも言いたくないんなら、俺たちも君の口から聞いたと親御さんに言うつもりはないよ。ただ――俺たちにだけは、知っていることを全部話してくれないか。君が見つけたもの――それを君が信じようと信じまいと、もしこの件が俺たちの管轄ならば、俺たちは然るべき対応をしなければいけない立場なんだ」
昭雄くん、できるか――そう問われて、昭雄は寸時考え込んだ。牧も土門も、辛抱強く待っていた。
再び昭雄が頭を上げた。口を突いて出てきた言葉は、昭雄自身にも意外と感じられるものだった。
「昭雄――昭雄でいいです」
唇をヒン曲げて、牧は笑った。五歩ほど後ろで成り行きを眺めていた土門の口元も、笑っているようだった。牧は昭雄の頭に手を置いて、髪の毛をクシャッとやりながら、
「それじゃあ昭雄――話してくれ。君が何を見つけたか。それからどうしたか」
促されるままに昭雄は話し始めた。法要の最中に見つけた、蜥蜴でも魚でもない、金属円形の頭部を持った不思議な生き物のことを。それに連れられ、何故か誰にも気づかれないうちに外に出たことを。そのままこの叢の中をくぐっていったことを。
「でも変なんです。僕がはいっていった叢は、もっと背が高かったような気がした。僕の身体をすっぽり覆うくらい。ここは――そんなに背が高くない」
牧は頷いて、話の続きを促した。ここまでは悠長に打ち明けていた昭雄だったが、叢の中を掻き分けていったところ辺りから、急に歯切れが悪くなった。どうやら、そこから先は本当に覚えていないようなのだ。
大方の話を聞いて、牧は顎に手を当て、唸るような声を出した。気づけば、土門も近くに立って、腕組みしながら話に耳を傾けていたようだった。
「その変な生き物は、蜥蜴でも魚でもなくて、頭が丸かった――ンだよな?」
「お寺? 神社? でお参りする前に紐を引っ張って鳴らすやつがあるでしょう? あれの小さい感じだった」
なるほど――と土門が言った。その様子に、昭雄は戸惑っていた。
昭雄だって、他人から同じことを聞いたとしたら、とても信じられた話ではない、それだというのに牧と土門の二人は疑いの欠片さえ挟まむ様子を見せないのである。
「二人とも――この話が本当だと思ってるの?」
だって本当だろ? ――と意外そうな牧の声。土門も頷いて、
「作り話かどうかくらい、君の表情や目を見てれば察しがつくよ。君は嘘を吐いていない。現実に起こったことが変すぎて、嘘をつく余裕すらない――と言ったところかな」
これまた図星。昭雄は心の中で白旗を上げた。この二人は、心を読む超能力でも備え付けているんだろうか。それとも、簡単に見通されてしまうくらい、分かりやすい人間だということだろうか――。
「大体、俺たちの方から、何か見えたんだろって持ちかけたんだ。便乗できる類の話じゃないよ。それはそれとして――昭雄、もう一回見たら、そいつだと断言できると思うかい?」
たぶん――という返答の意味を込めて、昭雄は曖昧に頷いた。修さん――と牧に呼ばれて、土門は軽く頷くと踵を返す。暫く経ってから連れてきたのは――ここ甲禅寺の住職だった。
「忙しいところ申し訳ないンですがね、住職――あの庫裏って、今は使ってますか?」
大人と子供とで、振る舞いを変えるタイプなようだ。ろくな説明もなく連れてこられた住職は、あからさまな困惑の色に顔を染めて、
「庫裏――ですか? どうして」
「ナニ、あんなに立派な庫裏があるのに、本堂手前の寺務所の方が使われている感じがしてね。本堂から庫裏に繋がる廊下も掃いた様子がないから、あれって思ってね」
鋭いところを見なさる――と住職。
「本堂に繋がるところだから、綺麗にしておくように言いつけてはいるのですが、何分人手が足りないものでね。どうしても見逃してしまう。ええ、仰るとおり、あの庫裏は今は蔵扱いで、ほとんど扉を開くことはありません」
「老朽化か何かですか?」
「そんなところです。修理しようにも、金がない。そこで、古くなった調度品を仕舞う蔵として使っているのですよ。――しかし、あそこは駄目ですよ。野良猫やらが入り込まないよう、厳重に鍵をかけていますし、窓も格子のはめ殺しですから」
昭雄を傷つけた犯人が潜んでいるやも知れぬ、そんなことを指摘されると思ったのか、幾分血の気を失った顔で言う住職。牧は大して取り合わず、叢を掻き分けて庫裏に繋がる渡り廊下の手前まで来た。昭雄、住職、土門もそれに倣う。
廊下の床板は埃が積もっており、ここを人が歩いた形跡はない。住職の言うとおり、ここを使うのは、塒を求める猫くらいのものだろう。積もった埃の上に、それらしき爪痕や、小さな身体を引き摺ったような後がある。
牧は廊下自体には足を踏み入れず、その手前の叢から中を覗き見るようにしていた。やがて身体を起こすと、修さん――と相棒を呼んで、
「どうだい――こいつァまだ新しいようだが、あんたになら何か見えるかい」
と問う。まあやってみようかと、土門修平は嘆息一つ吐いて牧の横に並び――
ずっと持っていた扇をぱっと開いた。
使い古された扇で、ところどころ虫食いの穴がある。
その穴の一つを通して、目の前の廊下の埃まみれの床板を見つめているようだった。
「――あたりだね」
寸時――あるいは永遠とも思われる沈黙。扇を広げ、眼を広げたままで土門が言った。牧も同様に廊下に視線を落としたまま、
「足跡だけじゃァ、正体までは特定できンか」
「ああ。だが昭雄君の証言と合わせれば、大体の検討はつく」
「金属の円盤頭か」
土門は頷いて、扇をぴしゃりと閉めた。何が何だかさっぱり分からず、ただその場に立っているしかない昭雄と住職。牧は腕時計を見ながら、
「おっと、いけねえ。そろそろ約束の十五分だ。住職――とりあえず昭雄君を、本堂に連れて行ってあげてください。それとご家族の方に、今日のところはお帰りいただいて結構――と」
「なにか――なにか分かったのですか?」
信じがたいと首を振りながら、それでも問う住職に対して、牧は頭をがしがしやりながら、大体のところはね――と答える。
「我々の管轄ではよくあるケースです。昭雄君の怪我は本人の過失によるものでもなく、誰か他の人間につけられたものでもありません」
「それじゃあ――誰が――」
そこなんですよね――と、面倒くさそうな感じの牧。
「説明できれば良いんですが、説明したところで信じられたものじゃない。そこで――住職、昭雄くんの親父さんか、あるいはお祖母様に提案してみてくれませんか? もし真相が知りたいンなら、明日、法要が行われたのと全く同じ時間に、もう一度、この寺に来てほしいって。さっき寺務所の方に確認したんですが、この寺、明日は特に予定ないんでしょう?」
「それは――寺としては構いませんが」
「昭雄のうちは?」
いきなり話を振られて、びくっとする昭雄。慌てて記憶をたどるが、明日は日曜。特に出かける予定はなかったと思う。
「んじゃァ悪いんですが、そんな感じで予定組んでください。来るのは、昭雄君の家族だけで良いです。親戚は結構。あ、お祖母様にはご足労願ってください。あの人がいると、何かとスムーズに進みそうだ」
「牧さん、警察はどうするね」
横から土門。牧は手をひらひらさせながら、
「ほっといたらいいよ。後から、どうとでも言い訳は立つさ」
あっという間に話は決まってしまった。住職には不本意なところも多分にあったようだが、それでも頷いて、では明日――と頭を下げる。牧も軽く一礼して言った。
「俺たちはこれで失礼します。局に戻って、調べたいことがあるンで。また明日の昼、お邪魔します。その時に、ちゃんと全部話せるように準備しておきますから」
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