鰐口 三
巡査二人が去って、本堂の中には倦んだ気配が漂うばかりであった。寺の者も親戚も、居心地悪そうに互いの顔を見交わしている。そろそろ切り上げたいのだが、それを切り出すのを躊躇っているのだろう。
自分の頭上で溜息が漏れるのを、昭雄少年は聞いた。叢の中で発見されて以来、肩に手置いて片時も離れようとしない父親のようであった。
昭雄は父親を見上げる。憤懣ではなく、不満やるかたなし――と言った顔つきだ。警察まで呼んで、結果何も分からず、事だけが大袈裟になった。親戚の中には、巡査二人が帰って、明らかにホッとした顔をしている者もいる。それも父には、たいそう不満なのだろう。
父に、何か言うべきだと思った。何も言えなかった。仕方がないだろう。父をここまで戸惑わせているのは他ならぬ昭雄自身なのだ。法要の途中でふらりと姿を消し、叢の中で傷を追って見つかったという不可解な事実ばかりではなく、警察の前では、はっきりとしたことを何も言わなかった――二人の巡査を煙に巻くような物言いに、父は困惑したろうし、苛立ちを覚えたに相違ない。
でも、ほんとうに、何も言えないのだ。それこそ、仕方がないことなんだ――。
居た堪れない気持ちになって、昭雄は下を向いた。克也が泣き出した。ひっそりと静まり返った本堂に、赤子の泣く声がやけに喧々と響いた。
そろそろ、帰ろうか――誰からともなく、そんな声があった。そうして住職に促されるまま、一人、また一人、そそくさと本堂から出ていく。
出口近くで、祖母が、お騒がせしましたと頭を下げている。親戚は軽く頭を下げ、なるべくこっちを見ないようにして外に出ていく。昭雄たち家族は未だに仏壇を前にして、出口から距離を置いていた。克也は暫くの間、激しく泣き叫んでいたが、人が少なくなると同時に落ち着きを取り戻して静かになった。
本堂に残ったのが、住職と、祖母と、昭雄たち家族だけになった。祖母に肩を押され、父はもう一度、溜息を吐いた。そして、住職に軽く一礼すると、障子戸を通って、暗くなりかけた外に足を踏み出しかける。家族もそれに続こうとした。
その時だった。
「あ――悪ィんですが、少しだけ時間もらえますか?」
夜が近づく重苦しい空気の中、異様に軽い調子の声が聞こえていた。
ひたりと足を止める父。全員が声のした方を振り返る。
そこには二人の男性がいた。一人は黒いスーツで、腕組みしながら壁に背を預けている。もう一人はグレーのスーツで、こっちが声をかけてきたのだろう。壁から一歩、二歩と近づいてくる。
昭雄は、グレーのスーツの男の方を見た。もじゃもじゃの頭。筋肉質ではないけれど、がっしりした体格。暗くなったというのに、サングラスをしている。そのせいで年齢は分からないが、自分の父親よりは若そうだという直感があった。
「あなた方は――?」
父親が呟く。祖母も不思議そうな顔をしており、昭雄の頭の中にも、? が浮かんだ。親戚がまだ残っていたのかと思いきや、どうやら父や祖母にも面識はないらしい。昼間のことがあるものだから、父などは早くも警戒心を剝き出しにしている。
こいつァ失敬――と、言葉の中に癖のある抑揚を含ませながら、男は胸ポケットから名刺を三枚出して、父と、祖母と、それから昭雄に一枚ずつ手渡した。名刺なんかもらうのが初めだったから戸惑いはあったが、それでもお礼を言ってもらっておいた。
手渡された瞬間に、妙なものが目に入った。男の左手が、紫染めの布に覆われているのだ。それは肘の真ん中あたりから手首をぐるりと取り巻き、手首から先は上向きの放物線を描くように先細りして手の甲を這って、先端が中指に結び留められていた。後で祖母に訊くと、手甲という装身具であるとのことだった。
名刺の文言はシンプルだった。しかし、昭雄にはちんぷんかんぷんだった。どうやらそれは、父も同じようで、眼鏡の奥の目を細めながら、
「くじゅうく……ものかい……取締局ですか?」
最初はやっぱそうなりますよね、と男は笑う。サングラスで目が見えないにもかかわらず、さっきの高梨巡査とは違うタイプだけれど、喋りやすそうな感じの人だ、と昭雄は思った。
「九十九と書いて、つくも。物怪と書いて、ぶっかい。併せて、つくもぶっかい――って読みます。九十九物怪取締局の牧です。確か、昭雄君――だったよな。一つよろしく」
何も返せない昭雄少年と、はァ――と間抜けた呟きしか返せない父親。その横で、祖母は一人、何もかも合点が行ったような顔をして、
「そうか、やっぱり――それじゃあ、昭雄のケガも」
「ええ。まだ確証はありませんが、恐らくは。それを調べにきました」
祖母に頷いて見せる、謎の所から来た謎の男、牧。この二人だけは、ちゃんと気持ちが通じているらしい。そこへ、おずおずといった様子で咳払いしながら、父が
「聞いたことのない名前だが――役所か何かですか」
えっ? まあ、そんなとこです、とひらひらと手を振る牧。飄々として捉えどころのない物腰だ。自分の両目を覆っているサングラスを指さして、
「人前でこんなものを付けて、失礼な奴だと思うかもしれませんが、まァ勘弁してください。昔事故に遭って、眩しいのが苦手なんです」
眩しいって、もう夜に近いんだけど――と、さすがに昭雄も言いたくなった。が、誰も敢えて突っ込みを入れようとしない。気付かぬうちに、何となく、全体が牧のペースの中にあるような気がした。
さて、と――と、手をぱんぱん鳴らしながら、背後を振り返る牧。
「修さん――どうだい、何か手繰れそうか?」
と呼びかけた。修さんと呼ばれた黒スーツの男は、髪の右側を撫でつけながら、難しいね――と返す。ちょっと見たところでは性別の判然としない、ほっそりとした奇麗な顔立ちだった。うっすら朱を帯びた切れ長の目が、今は、自分をひたりを見据えて離さないことに昭雄は気づいて、理由もなく気恥ずかしさを覚えた。
「気配は消えて、残り香さえない。ただでさえこの寺には、そうしたモノになりそうな道具が溜まり溜まっているから――特定は無理だろうな」
だろうなァ――と頭を掻く牧。少しばかり考え込む様子を見せたあとで、牧は父に向かって、
「あの――悪ィんだけど、少しばかり昭雄くん、お借りできます? ちょいと、確かめてみたいことがあるんです。我々と昭雄くんとで、ぐるりと境内を一巡してみようと思うんで。ご家族の方は、ここで待っていただくということで」
「な――なにを」
いきなりの申し出に父親は二の句が告げなかったらしい。それでも唾をごくりと嚥下して、少しばかり語気を荒らげて、
「そんなこと、できるわけがないでしょう。昭雄は、昼間、誰かに傷を負わされたんですよ。誰がやったかも分かっていないのに、またこの子を一人にするなんて――」
「一人じゃないですよ。我々がいます」
壁際から、修さんが口を挟む。父は相手を睨んで、
「それが心配なんですよ。よく分からないところから派遣された、よく分からない人に息子を預けられますか? だいたい、あんたは自分の名前すら明かしていないじゃないか」
そう言われて、暫く虚空を眺める修さん。あ、そうか、と手を打って、
「考えてみれば、そうでしたね。どうも、土門修平です。ほら、牧さん。君のフルネームも明かしておいたほうが良いんじゃないか」
土門修平に言われて、牧は素直に、牧大輔ですと言って頭を下げた。それから、
「我々のことを胡散臭く思うのは無理もありませんが――我々は自分の仕事をしに来ただけです。息子さんが行方不明になった原因、息子さんに傷を負わせた犯人、それを知りたいのでしょう? だったら、方向性は同じじゃないですか。話は十五分くらいで済みますから、お願いできませんか?」
頑として首を縦に振らぬ父親。牧は、困ったな――と唸るように呟く。
「なぜ、私や妻が同席してはいかんのですか? そこがまず変でしょう」
「同席されても構わないんですが――説明の手間が増えるんでね。あんまりモタモタしていると、真相がさらに遠のくことになる」
「はぐらかしているようにしか聞こえないんですよ。まず最初に、納得できるように説明してもらいたい」
当の本人を傍に置いて応酬を続ける二人。気が昂じて赤くなった父の顔と、サングラスのせいか表情が全然変わらない牧の顔を、昭雄は交互に見ていた。
言い分としては、たぶん父のほうが正しい。九十九物怪取締局――だったか。わけが分からない。言うことも曖昧模糊として人を煙に巻くようだし、執拗に接触してこようとしてくるところを見ると、この二人こそ、昼間怪我を負わせた張本人なんじゃないか――という気がしてくる。
しかし一方で、昭雄には、何の根拠もないはずなのに、揺るがぬ確信があった。
この二人は、何かを掴んでいる。
父にも母にも住職にも、昭雄自身にも見えていない真実につながる糸の端を、二人は握っている。そんな感じがするのだった。
とにかく納得できるまでは息子を離さない――父が目に怒りさえ宿らせながら言う。日頃は温厚な父だが、異常なまでに頑ななところがあって、こうなってしまうともう駄目である。牧も打つ手なし、という感じで肩をすくめている。
と、そこへ、
「秀俊――」
父の名前を呼ぶ声がした。父をそんなふうに呼ぶのは、祖母しかいない。
「この人達の言うとおりにしましょう」
「か――かあさん」
見開いた目。瞳が揺らいでいる。いつものように穏やかで静かで――それでいて、不思議な迫力のある声。祖母はゆっくりと二人に近づき、
「このまま言い争っていても、なんにもなりません。この人が言ったように、わたしたちが望んでいることは同じでしょう。だったら、協力しないと」
「で、でも、かあさん。この人達が信用できるかどうかは、また別の話じゃ――」
「秀俊――」
いつもは線のように細い祖母の目が大きく開いて、団栗のようになった。真っ黒な瞳で、はたと見据えられて、父は次に言うべき言葉を失う。
「大丈夫です。この人達は、わたしが保証します」
明言する祖母。こいつァ参った、と牧が髪に手をやりながら、
「御祖母様、我々の仕事、ご存知でしたか」
祖母は振り返って微笑みかけ、
「伊達に長生きしているわけじゃありませんからね。でもまさか――本当にあるなんてね」
牧は頷き、今度は父に向かって、良いッすねと訊く。祖母に怒気を抜かれた父は、それでも不満がましい眼差しを向けて、勝手にしろとそっぽを向いた。
そいじゃ、行きましょうか――と、牧に背中を押されて、昭雄は一歩を踏み出す。ずっと立ちっぱなしで棒のようになっていた足が自重を支えきれず、ぐらりと揺らいだ。
転びそうになる寸前、素早く膝をついて昭雄の身体を支えたのは牧だった。がっしりとした腕に受け止められた瞬間、昭雄は、今まで胸の奥に閉じ込めていたものが、一気に飛び出てきそうになって、思わず口を抑えた。
牧と一緒に外に出る。後ろには土門。本堂の中から見る外は、夕暮れをすぎて闇が滞っているようだったが、出てみると存外まだ明るかった。
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