鰐口 二

「――で、それから後はよく覚えていないということですね」

 三度目くらいの確認。昭雄少年が我慢強く頷いたのを見て、高梨巡査は垂れ眉をさらに傾け、やれやれといった風に頭を掻いた。

 黄昏時を前に、朱い光が障子を通って古めかしい本堂の中に入り込んでくる。肌寒さに首を竦める少年の肩に、父親がコートをかけてやっていた。

 濡れた犬のような唸り声を人知れず上げながら、高梨巡査は頭の後を掻く。どうも聞き取り調査ってのは苦手である。どうしたって委縮した空気になるし、時間が経てばたつほど、それが鼻白んだ空気に変わる。

 電話で呼び出されてここに来て、はや一時間半になろうとしていた。心配顔を続けているのは父母くらいのもので、住職や、電話してきた寺務員、被害に遭った家族の中でも親戚や、当の本人はいつ終わるのかと、げんなりしている様子であった。

 いつ終わるのかなんて、こっちが聞きたいくらいだと、泣きそうになる。

 こんな、事件なのかどうかも分からないような案件に、どれほど時間をかければ良いのか、まったく見当もつかない。

 法要中に、長男が行方不明になった――寺務員は、血相を変えて怒鳴るように電話してきた。詳しい話を聞く余裕すらなく、とにかく行ってみようと先輩の黒崎巡査と二人で甲禅寺に赴き、これまた詳しい話を聞く余裕すらなく少年の母に泣きつかれ、とにかく周囲を探してみようということになって十分後……本堂脇の庫裏に近い叢の中で、眠りこけている昭雄少年を発見したのだった。

 それだけで済めば良かったのに、少年を抱き上げた父親が驚きの声をあげたため、高梨黒崎の両巡査は、この寺に留まって、あれこれ調べなければならない必要に駆られたのであった。

 少年の右腕に、不可思議な傷があったからである。

 傷は一定の間隔を置いて横一列に、三つついていた。どれも歪な三角形で、引っ搔いたというよりは、細い錐のようなものをぐっと押し込んだかのような傷なのである。もちろん、周りにそのような傷をつけられそうな物は見当たらなく、今も黒崎巡査が入念に確認している。少年はひとまず病院に担ぎ込まれた。診断の結果、腕の外傷以外の傷や異常は見られないということだった。腕の傷自体も、そこまで深いものではなく、消毒さえしておけば問題ない。感染症等の危険もないそうである。

 しかし、何者かに付けられたのだとしたら、傷害事件である。その可能性のために、この件は単なる迷子騒動として終わらせられる類ではなく、高梨巡査は関係者からの聞き取りを開始した。

 一時間半もの聞き取りの果てに得られたものは――皆無である。

 仕方がないと言えば仕方が合いのだが、ほぼ全員の証言が要領を得ないのだ。

 法要中に少年が行方不明になった――それに誰も気付かなかったというのも変な話だが、本当に誰一人として気付かなかったのだから、そんなものなんだろうと解釈するより他にない。

 じゃあいなくなった昭雄少年の証言はというと、これが時間を置いて再確認を試みたのだが、やはり要領を得ないのだ。外に出た理由も、叢で何をしていたのかについても、傷の原因についても、何も明言してくれない。何となく……詳しいことは覚えていない……という解答ばかりを返す。その表情は、どこかぼんやりとして、目を覚ましていても霞が頭にかかっているようだった。病院で診てもらって異常なしと診断されたのに、催眠薬的な何かを投薬されているのではないかと父親が本気で心配しているところを見ると、普段はこんな感じではないようだ。

 相手が嘘を吐いているかは、目を見ればわかる――って、先輩は言ってたっけ。高梨巡査は腰を下ろして、昭雄少年と同じ目線まで頭を下げ、真向きに少年の目を見てみた。結果、何も分からない。おどおどしているわけでもないし、面白がっているわけでもなさそうだ。聞かれていることに、分かることを答えているだけ――という感じの表情である。であれば、嘘を吐いてるわけではないのかも知れない。

 溜息が出た。関係者が不安を感じるから、現場で溜息は吐くなと注意されたことがあったが、今回ばかりは溜息の一つや二つ、出したくなる。少年がケガをしたという事実だけがあって、それ以外のことは全部「分からない」。これが事件なのか、単なる少年の過失なのかも分からず、したがって同じことを馬鹿のように繰り返し確認している現況を、どう変えていけば良いのかも、まったく分からなかった。

 障子がカタンと開かれて、黒崎巡査が入ってきた。一時間半も何をしていたんだ、と睨みつけそうになったが、膝から下が土や泥で汚れているところを見ると、真面目に捜索していたらしい。黒崎巡査は家族や寺の関係者に会釈してから、高梨巡査に歩み寄り、低い声で、少年の傷の原因になりそうなものは、寺の周りのどこからも見つけることができなかった――と言った。

 熊手でも放り出されていて、少年が転んだ先に熊手の刃があって、それでケガをした。そんなシナリオであれと願っていたが、そういうことにはならなさそうだ。

 高梨巡査は目頭を押さえ、肩を竦めた。先輩の黒崎巡査も同じように、首を横に振る。これ以上、自分たちにできることはなさそうだ。とにかくここまでを報告し、上からの指示を仰ぐ。ただ、報告できそうな内容に乏しいことだけが不安の種である。

 少年の家族も、これ以上の進展は望めまいことを察しているらしかった。失望されたなという自覚が、高梨巡査の口の中を苦くした。人の良さそうな顔とよく言われるが、それは良い意味に取れば話しやすい警察官ということになるだろう。強面の黒崎巡査が外回りを調べ、穏やかな物腰の高梨巡査が関係者への聞き取りを行う、その役割分担もお互いの外見によるものである。が、人の良さそうな、を悪く捉えれば、それは要するに頼りないということだ。警察官としては、それは不味かろう。

 高梨巡査の内なる煩悶などに取り付く島なく、黒崎巡査は、今日はここまでとし、何か分かった時には知らせることや、気付いたことがあれば知らせてほしいなどといった、決まり文句を家族に伝えていた。そうして家族の返答を待たず、一礼して、本堂を出ようとする。

 置いて行かれそうになり、慌てて家族に一礼し、昭雄少年へ労わりの言葉をかけて、黒崎巡査の背中を追った。家族や寺関係者の顔を見たくなくて、なるべく真っ直ぐ前だけを見ていた心算だったが、それでも目の中に飛び込んできたものがあった。

 それは本堂の壁にもたれかかっている、二人組の男だった。片方はグレーのスーツにサングラス、ぼさぼさの髪の毛。スーツの肩が張っていて、体格の良さを伝えている。

 もう一人は、黒いスーツの男で、肩までくらいある、濡れたような黒髪が印象的だった。切れ長の目、端正な顔立ち。手に持っているのは――扇だろうか。

 一瞬の隙見で見分けられたのは、ここまでだった。法事に来た親戚なのだろう。しかし、彼らに聞き取りをしただろうか。一時間半、同じ本堂の中にいたはずなのに、その存在を今更ながら認知したことに、高梨巡査は言い知れぬ胸のざわめきを覚えた。

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